「え、大地さん知らなかったんスか!?」
坂ノ下商店の前で何やら話し込んでいた後輩たちに早く帰るよう声をかけた澤村大地は、田中の言った「坂ノ下の天使を一目見たら帰ります!」という言葉に首を傾げた。
すると驚いたように目を丸く見開いた田中に、そんなことを言われた。
坂ノ下の天使の噂は、春休みも部活に勤しむ烏野の生徒たちの間に可及的速やかに広がっていた。バレー部だけでなく他の部の生徒も、部活帰りに坂ノ下に寄っては天使の笑顔に癒されていたのである。
だが澤村だけが、それを知らなかった。
澤村の後ろからやって来た菅原までもが、「え、大地知らなかったの?」と言いながらしれっと田中の側についたことが、小さくないショックを澤村に与えた。
お前は毎日俺と帰ってたじゃないか、坂ノ下には寄ってないのに、「スガも知ってたの?」
鮮やかな笑顔で頷いた菅原は、そのまま田中や縁下と坂ノ下の天使について盛り上がる。
一人取り残された澤村は三人の会話を断片的に聞きながら、情けない気持ちを押し出すように鋭く息を吐いた。彼らと違って、自分は主将なのだ、彼らのように浮かれていてはいけない。だから自分だけ坂ノ下の変化を知らなかったのも当然のことなのだ。別に、寂しくなんかない。そう自分に言い聞かせるように、小さく二度顎を引いた。
その時だった。
硝子扉がサッシを滑る軽やかな音が響いて、その向こうからひとりの女の子が現れた。
澤村は瞬時に理解した。たおやかな笑みを浮かべるこの少女が、坂ノ下の天使なのだろう。彼女は店内の明かりを背後に背負いながら、自分よりもいくらも大きな澤村たちに気後れすることなく口を開く。
「あの、もうすぐおしまいなんですけど、どうします?何か買って行きます?」
鈴を転がしたような、軽やかな声だった。高いけれど、耳につかない。もう少し聞きたいなと思わせる、不思議な声。
思わず聞き惚れていた澤村は、「はいもちろん!」と店の中に突入しようとした田中の肩を反射的に捕まえた。縁下と菅原の視線が澤村に集中する。
がしっ、と強く肩を捕まえられた田中は、おずおずと澤村の方を振り返る。視線の先の澤村は、お手本のように爽やかな笑みを浮かべていた。
「田中、今日はおごるぞ」
澤村の背後に広がる夜の闇が、その濃さを増す。
田中は恐怖から小さく「あざス」と言って、出しかけていた足を光の速さで引っ込めた。そんな田中の背中を労うように叩いた菅原は、坂ノ下に入って行く澤村を苦笑混じりに見つめる。
「いつもうちの部員がすみません」
そんなことをしれっと言いながら、澤村は硝子扉をぴしゃりと閉めた。
彼女の声が硝子の向こうに閉じ込められる。声まで独り占めかよ。そう思った菅原は、硝子越しの二人を見ながら更に苦笑をこぼした。まあでも、これで大地もこっち側だな。
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