レシーブミスであらぬ方向に跳ねたボールが、開けっ放しになっていた第二体育館の扉からぽーんと飛び出ていってしまった。
田中龍之介は「さーせん!」と謝ってから、ボールを追って体育館を飛び出す。渡り廊下を抜けて校舎の方まで転がっていたボールを拾い上げ、体育館に駆け戻ろうとした矢先、彼の視界の隅にひとりの女の子が映り込んだ。
田中はせっかく拾ったボールを思わず取り落としてしまった。
視線の先にいたのは、なんと坂ノ下の天使だった。烏野高校の制服に身を包んだ彼女は、いつもの鳥の子色のエプロン姿とは違った魅力を醸し出していた。さすが西谷イチオシの制服。首元に輝く真新しいグレーのリボンが、眩しい。
田中は取り落としたボールをそのままに、彼女の方に歩み寄る。
彼女は、第一体育館に向かう行列の中で他の女子生徒とおしゃべりに興じていた。突然現れた坊主頭の男に、彼女の周りにいた他の生徒たちはぎょっとしたような表情を浮かべたが、彼女だけは田中を認めてにこりと笑った。
「あ!こんにちは。部活中ですか?」
その問いに頷いた田中は、遠慮なく彼女を見遣る。にこやかに笑う彼女のブレザーの襟にとめられた学年章が、彼女が一年生であることを示していた。烏野高校の制服を着て、一年生の学年章をつける彼女はつまり、
「……烏野の生徒?」
しかも、後輩。
田中のその問いに、彼女はにこやかに頷いた。「これから入学式なんです!」と言って、ブレザーに付けられた安っぽい花の飾りを自慢するように胸を反らす。
その瞬間、どこからか教師の声が聞こえてきた、「こらそこ!一年に絡むな!」
考えるまでもなく自分のことだと、田中は瞬時に理解する。
「やべっ」
こんなことで教師に捕まってそれが澤村の耳に入りでもしたら、大変だ。
田中は慌てて体を反転させながら、――そういえばまだ彼女の名前を知らないことを、ふつと思い出した。第二体育館に向きかけた爪先が、彼女に向き直る。
「あのっ、」
きょとん、と真っ黒な瞳が田中を見上げる。潔子に話し掛ける時とはまた違ったリズムを刻む鼓動を感じながら、田中は「名前は!なんていうんスか!?」と力一杯彼女に問い掛けた。
目を真ん丸に見開いていた少女は、その双眸を柔らかく細め、鈴のような声で言った。
「坂ノ下名前です」
名前。
ほとんど反射的に呟いたその名前に、彼女は「はい」と返事をしてくれた。
今まで名前も分からず、坂ノ下の天使と呼んで奉っていた少女の名前を知った瞬間、田中の中にパズルのピースがはまるような感覚がうまれた。今まで彼女に対して感じていた曖昧な遠慮がざあっと消えてゆく。彼女は坂ノ下名前、烏野高校の一年生。たったそれだけの情報で、世界が変わった。
「俺は、田中龍之介だ!」
びしっと親指で自分を指差しながら自己紹介をすると、名前はにこりと笑って「よろしくお願いします、田中先輩」と言った。教師から再び怒声が飛んできたが、今の田中にとってそんなものはいくらの効力も持っていなかった。目の前の女の子が、自分の名前を呼んだ。しかも、先輩と言ってくれた。
ここ数日ずっと漠然と思い描いていた理想の新学期が、すでに目の前にあった。田中は名前に「がはははは!」と豪快に笑いかけてから、その頭を乱暴に一度ぐしゃりと撫でた。
「困ったことがあったら、先輩に、なんでも言えよ!」
先輩に、という言葉を目一杯強調してそう言った田中は、「はい!田中先輩!」という名前の言葉に満足げに頷いてから「じゃな!」と言って、今度こそ本当に踵を返す。
笑顔で手を振る名前と、唖然とした様子の新入生をその場に残して、田中は足取り軽く第二体育館へ駆け戻った。
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