ぴったり朝の6時半、菅原孝支は計ったように坂ノ下商店の前を通りかかる。初めてそこで名前と出会ってから、店の前を掃除する彼女と挨拶を交わすのが、菅原の日課になっていた。
もちろん、ポケットの中の音楽プレイヤーは電源オフ。朝から元気に囀る小鳥の声を聞きながら、菅原は名前に声をかける。

「名前ちゃん、おはよ」

箒を動かしていた手を止めて、彼女がこちらを振り返る。まだ少し冷たい早朝の空気に、明るい声が柔らかく響いた。

「菅原さん! おはようございます」

名前は菅原を認めるとにこりと笑んで、ぺこっと素早く頭を下げた。小動物のようなその挙動は、小柄な彼女に似合っていて可愛らしい。菅原はそんな名前に「今日も掃除ご苦労様」と労いの言葉を投げ掛ける。
すると彼女は「菅原さんも朝練がんばってください」と言って、右手でぐっとガッツポーズを作った。それは菅原よりもずいぶんと華奢な腕だったが、しっかりと菅原の背中を押し、ついでにはっきりとその胸を揺さぶった。練習はハードだけど、これだけで今日もばっちり頑張れる。
菅原は「おう、ありがとな」と言いながらガッツポーズを返した。にっ、と鮮やかに笑う菅原に、名前もとびきりの笑顔を披露する。

「どういたしましぇ、っくし!」

静謐な朝の空気に、名前のくしゃみが唐突に響いた。
それはごく女の子らしい、控えめで愛嬌のあるくしゃみであった。菅原は、名前はくしゃみまでかわいいんだな、としみじみ思いながら、目の前の少女を見詰め続ける。
彼女は恥ずかしそうに眉根に皺を刻んで「どうも、すみません」と小さく言って、それから照れ隠しにちょっと笑った。羞恥からか、それとも少し肌寒い朝の空気のせいか、その頬が僅かに赤くなっていた。タイミングをはかったように坂を駆け上がっていった冷たい風に、名前は僅かに表情を曇らせて肩を震わせる。照れたような笑みの消えた顔の中で、しかしその頬だけが変わらずじわりと赤かった。

その上気した頬が、菅原の次にとるべき行動を決定した。
菅原は自分の首に巻いていたパステルブルーのマフラーを徐に外す。そしてそれを、きょとんと自分を見詰める少女の首にぐるりと優しく巻き付けた。彼女の頬の赤みが微かに増して、マフラーの水色と共に鮮やかなコントラストを描き出す。
文句のつけようがないくらい、自分のマフラーは彼女によく似合っていた。菅原はそれに満足げに頷いてから、「まだちょっと寒いもんな」と言って、ぼうっと自分を見上げる名前の頭をぽんぽん、と優しく二回、撫でた。
優しくしたのは自分の方だ。なのに、どうしてこんなに満ち足りた気持ちになるのだろう。菅原はその答えを見付けることが出来ないまま、湧き上がる感情に逆らうことなくふわりと微笑む。

「風邪ひくなよ」

そしてそれだけ言い残すと、菅原は正門に向けて足を踏み出した。本当はもう少し彼女といたかったけれど、残念なことに時間が差し迫っていた。自分を見上げる彼女のつぶらな瞳が視界の外に消えてゆく。
後ろ髪を引かれるような思いはあったが、菅原はそれと同じだけの満足感もしっかりと感じていた。水色のマフラーをした彼女を思い出せば、自分の首元を掠めてゆく冷たい風も全く気にならなかった。

菅原はジャージのポケットに両手を突っ込んで、足取り軽く第二体育館へ向かった。




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