次の授業が行われる化学実験室に向かうため教材を持って廊下を歩いていた澤村大地は、聞き覚えのある朗らかな笑い声を耳にして、半ば反射的にそちらに視線を向けた。
そこにいたのは、真新しいブレザーに袖を通した坂ノ下の天使だった。両腕で教材を抱え、クラスメイトらしき女子生徒と談笑しながら特別棟からクラス棟へ戻ってくる彼女を見て、澤村はつい先日聞いたばかりの後輩の言葉を思い出す。「坂ノ下の天使は、烏野の新入生だったんスよ!」と騒ぐ田中の姿は、記憶に新しい。

本当に烏野の生徒だったんだな。澤村は見慣れた制服を着て同じ学舎にいる少女を眺めながら、ぼんやりとそんなことを思った。
田中の言葉を疑っていたわけではない。だが、いつものエプロン姿を見慣れていた澤村は、田中のその言葉にイマイチ現実感を持てずにいたのだ。

特別棟に向かう自分と、クラス棟に戻ってくる彼女の距離がだんだんと縮まってゆく。
友人の話が可笑しいのか、くすくすと笑う彼女の肩が小さく上下に揺れる。優しく細められた眼差しも、肩の動きに合わせてふわりと踊る髪の毛も、坂ノ下商店で出会った彼女となんら変わりはなかった。どうして田中の言葉をすんなり受け入れられなかったのかが不思議なくらい自然に、制服姿の名前は澤村の心に入り込んだ。制服だろうと、エプロンだろうと、彼女の魅力は変わらない。

澤村の視線に気付いた彼女は、すれ違いざまに澤村に微笑みかけて、ぺこりと小さく頭を下げた。澤村も少しだけ口角を持ち上げて、それに応える。
別々の目的地に向かって廊下を歩く二人の距離が最も近くなったのは刹那。特別棟に向かう澤村の視界から彼女の柔らかな笑顔が消えて、だんだんと離れてゆく。

「名前ちゃん、今の誰ー?」

背中から聞こえてきたその問いに、彼女の明朗な声がこう答えた。

「バレー部の主将さん。かっこいいよね!」

澤村は思わず彼女を振り返りそうになるのをぐっと抑えて、化学実験室へ向かう足を滞らないように動かした。……罪作りな子だ。
廊下の喧騒の中から彼女の声だけは丁寧に拾う自分の耳に複雑な気持ちを抱きつつも、遠ざかってゆくその笑い声を振り払うことは出来なかった。




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