本来ならば、放課後になるやいなや第二体育館に向かって駆け出すところだが、しかし、今ばかりはそういうわけにはいかない。
西谷夕は鞄を掴むと、第二体育館ではなく昇降口に向かってずんずん歩き始めた。
放課後の浮ついた空気を切るように、真っ直ぐ前だけを見つめて歩いてゆく西谷。彼のトレードマークよろしく鮮やかな色に染められた前髪が、その歩調に合わせて軽やかに揺れる。
あと少しで、部活禁止も終わる。
それまでに、ブロックフォローうまくなってねえとな。
西谷は、やや複雑な事情から、一ヶ月間の部活禁止に処されていた。しかし彼はそんなことで立ち止まるような男ではない。
今日は、頼みこんで練習に入れてもらえることになった地元のママさんバレーチームの練習日。今の自分にできる精一杯の練習をするために、西谷は前だけを見て歩いてゆく。
仮に今の彼を止められるものがあるとすれば、それは潔子くらいのものだろう。それくらい、彼の瞳はバレーだけを、もう少し正確に言うならば、部活禁止が解けたあかつきにエースの背後を護ることだけを、真摯に見つめていた。
昇降口に着いた西谷は、上履きをやや乱暴に下駄箱におさめると、履き慣れたスニーカーに足を突っ込む。そして生徒玄関を出てしまえば、彼はもう自由の身だ。廊下は走るな、なんてつまらない規則も、もう彼を縛ることはできない。
学ランを着た小さな体を大きく伸ばして全身の筋肉をほぐすと、西谷はたっと駆け出した。
友人と談笑しながらのんびり歩く烏野生の間を抜けて、正門を飛び出し、坂を駆け降りる。
目の前に迫ったふたりの男子生徒の、自分よりも大きなふたつの背中を勢いよく抜き去ると、視界は一気に開けた。坂の中腹にある曲がり角までが綺麗に見渡せるようになる。
開けた視界の真ん中には、ひとりの女の子がいた。
自分と同じく軽やかな足取りで坂を駆け下りてゆく少女。彼女は真新しいスカートのひだを、大胆に揺らして走る。その快活な足取りと、春の空気を孕んでふわりと踊る柔らかそうな髪の毛に、西谷は思わず目を奪われた。
それは、人間にとってありがちな、原始的な反射行動だったと言ってよい。変化の乏しい視界に鮮やかなもの、動いているものが飛び込んできた場合、人間はそれを注視するように出来ている。
だが、西谷は当然のようにそんなことは知らなかった。ただ理由もわからないまま、少女の背中に釘付けになる。
天性の運動能力を持つ西谷は、彼女の存在に気を取られたからといって足元がおざなりになるようなことはなかった。そのまま滞りなく走り続け、ぱたぱたと駆ける少女との距離は、ぐんぐん縮まってゆく。
そして、さあ彼女に追いつこうというその瞬間に――、
彼女は突然、視界から消えた。
西谷はやや遅れて、彼女が道の脇にある坂ノ下商店に駆け込んでいったのだということを理解する。
またも綺麗に開けた視界。
自分の進路を邪魔するものが一切ないその風景に、どういう訳だか西谷が一抹の物足りなさを感じた瞬間、
「ただいま!」という快活な声が、坂ノ下商店から勢いよく飛び出して、西谷を追いかけてきた。
バレーしか眼中にないはずの男の足が、はたと止まる。
ただいまって、どういうことだ? 瞬時に沸き上がったそんな疑問が、ひたすらバレーに向かって走る彼を立ち止まらせた。
西谷はその感情のまま、坂ノ下商店を覗き込む。開けっ放しになっていた硝子扉の向こうには、痛んだ金髪をまとめた馴染みの店員と、それから、彼となにやら話し込む先程の少女の後ろ姿があった。
ふたりの会話の断片が、西谷の耳に微かに届く。ふたりの声から会話の内容を推察することもできたが、しかし西谷はそれをしなかった。できなかった、と言った方が正しいかもしれない。笑みを含んだ少女の声、どういうわけだかそれが、ただただ耳に心地好かったのだ。
西谷はいろんなことを忘れて、しばらくそこに立ちすくんでいたのだが、その時間は不意に終わりを告げる。
西谷の存在に気付いた金髪の男が、その視線を西谷の方にすっと動かしたからだ。それにつられるように、少女の視線も動く。
流れるような動作で、彼女は西谷の方を振り向いた。出入口で立ちすくむ西谷を見て、彼女がぱちくりと瞳をしばたかせたのは刹那。次の瞬間には、彼女はその瞳を細めてにっこりと笑い、先程と同じく快活な声で「こんにちは!」と挨拶を投げ掛けた。
真っ直ぐ自分に向かってきた笑顔と声。西谷の体に電流にも似た刺激が走る。
西谷は、こうと決めたら猪突猛進、立ち止まったり逃げたり、そんなことはしない男だ。
しかし、それには少しの例外がある。もしも縁下がこの場にいたなら、彼はぬるい笑みを浮かべてこう言ったことだろう、「お前、ここで人見知り出るのか」
西谷は挨拶を返すようにぺこりとお辞儀をするやいなや、脱兎のごとく駆け出した。
坂ノ下商店と、そこに「ただいま」と言って入ってゆく不思議な女の子が、みるみる遠ざかってゆく。
西谷は、何かを考える余裕のないまま、弾丸のように走り続けた。
つい先程まで彼の頭をいっぱいにしていたバレーボールも、今の彼には追いつけない。
あの子は、何者なんだろう。そんな疑問がぐるぐると、走る彼の頭を悩ませていた。
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