15
ヤヒロとバギー海賊団の船医による懸命の治療によって、サッチは一命を取り留めた。しかし、依然として意識は回復しないままだ。船医によると「こればかりは時間でしか解決できん」ということらしい。
その内に島に到着するとヤヒロはサッチを抱えて下船した。
「ヤヒロ、餞別をくれてやる。感謝しやがれ」
バギーは何やらジャラジャラと音がする袋をヤヒロに投げ渡した。首を傾げながら器用に片手で袋の中身を確認したヤヒロは目を丸くした。
「こ、これって!」
「無一文じゃどうにもなんねェだろ。おれ様の好意だ。有難く受け取りやがれ」
「あ、ありがとうバギー!」
パッと花が咲くように表情を明るくしたヤヒロに、バギーは頬を赤くして「くぅぅ!」と声を漏らした。
―― は、ハデに可愛いじゃねェかチクショー!!
ヤヒロに対して度々恐怖心を抱いたにも関わらず、「マジでやべェ女だ」とか言っていたにも関わらず、ヤヒロの「私は結構お前が好きだ!!」発言を受けてからのバギーは、センチメンタルな想いを抱いて物思いに耽るようになった。
本当はこの島でお別れなんかしたくねェんだけどな……と、ポツリと呟くバギーであったが、ヤヒロと『次の島まで――』と約束した手前、彼女を船に押し止めることができなかった。無理にそれを強要したら嫌われるんじゃないかという思いが彼の心を支配したからだ。
バギーの心に芽生えた小さな恋。
バギーに訪れた小さな春。
だがそれは完全なる幻だ。島を出港すると別れを惜しむように手を振ってくれるヤヒロに対してデレデレとした満面の笑みで手を振るバギー。残念だけどその恋は実りませんよ――と、隣で見つめていた船医は溜息を吐いて同情したのだった。
◇
ここは春島のポキニオというところで、大きくて活気のある港町が広がっている。
港に面して新鮮な魚介類を売っている如何にも海の男っぽい人に、宿がある場所を教えてもらおうとヤヒロは声を掛けた。
気を失った大きな男を担いでいる細身の女に驚いた男は、宿の場所を教えると「これに乗せて行け」と言ってリヤカーを貸してくれた。
「宿屋の主人はおれの友人だから、リヤカーは主人に預けておいてくれて構わねェからな」
「あ、わかりました。ありがとうございます」
深々と頭を下げて御礼を言ったヤヒロは、担いでいたサッチとバギーから貰った袋をリヤカーに乗せて宿屋を目指した。
「あァ、あいつから借りたんだろ? 預かっておくよ。はい、これが鍵ね」
「お世話になります」
部屋の鍵を受け取ったヤヒロは、再びサッチを担いで二人一室となる部屋へと入った。
ベッドにゆっくりとサッチを下ろして寝かせると、ヤヒロは隣のベッドに腰を下ろして「ふぅ」と大きく息を吐いた。
「あー、どうしよう……。サッチが目を覚ましてくれなきゃ何にもできねェよ」
ここが一体どの辺りなのか、モビー・ディック号とどれだけ離れてしまったのか、ヤヒロはゴロンと横になって天井を見つめた。
天井の木目を何となく追いながら「あーでもない、こーでもない」と考えつつ、ふと隣に眠るサッチへと視線を向けた。
本当は死ぬはずだった人なんだよな。でも、こうして生きてるってことは、どこかで何かが変わる予兆であることに間違いないわけなんだけど……。まァ、そもそも私がこの世界にいること自体がおかしいことなんだけどな。
――と、少しだけ自嘲してゆっくりと瞼を閉じた。緊張と疲れが溜まっていたのか、思っていた以上に全身から力が抜け落ちて直ぐに深い眠りに落ちた。
◇
雨が降りしきる丘の上に佇む墓を前にして、一人の男が呆然と立っている。男の後ろ姿を見たヤヒロは、それが誰であるのかを直ぐに理解したと同時にドクンッ――!と心臓が大きく唸るのを感じた。
何故か焦燥に駆られて急いで駆け寄り肩を叩くと、男はゆっくりと振り向いた。
―― ッ……!
雨に濡れた髪が額に張り付いて滴がポタポタと落ちていく。
男の目は虚ろ。
雨に濡れているだけかもしれないが、頬を伝う滴が涙に見えて仕方が無かった。
眉間に皺を寄せて苦し気な表情を浮かべたヤヒロは、「マ…ルコ…」と消え入りそうな声で名を呼んだ。
マルコは少しだけ眉をピクリと動かしてヤヒロに視線を移した。
「どこかで……会ったか?」
「え……?」
眉を顰めたヤヒロを見つめたマルコは、あまり表情を変えないまま再び目前の墓へと視線を戻した。まるで知らない他人のようなマルコの反応に困惑したヤヒロは、マルコが見つめる ”それ” に目を向けた。
―― こ、これって!!
驚いたヤヒロは目を丸くした。さらっとしか読んだことがないヤヒロでさえも流石にはっきりと記憶している。
それは白ひげ『エドワード・ニューゲートの墓』と『ポートガス・D・エースの墓』だ。
「ッ……」
途端に視界が一気にぼやけて大きく揺れ始めた。止め処無く溢れる涙が冷たい雨の滴と混じって頬を伝い落ちて行くのを感じながら、ヤヒロは震える手を伸ばしてマルコの背中にそっと触れた。
「!」
身体がピクンと少しだけ跳ねる様にマルコは反応した。ゆっくりとした動作でヤヒロは額をも押し当てた。
自分の名前を呼んだ見知らぬ女の行動に、マルコは少しだけ困惑したが、振り返らずに黙ってその場に立ち尽くした。
「……」
僅かに背中から振動を感じたから。ヒックヒックと女が咽び泣き始めたから。――何故か拒絶することができなかった。
「お前ェ…何で……泣いてんだい? 何を……泣く?」
「ひっく……ふっ…うぅっ……」
「これが誰の墓なのか”知っている”のか?」
「ッ…、ひっく、ふっ、しっ、知ってる!」
自分の背中で涙を零すヤヒロに漸く向き直したマルコは、両手でヤヒロの頬を包み込む様にそっと触れて、零れ落ちる滴を親指で拭いながら顔を上へと向けさせた。
驚いて一瞬だけ目を丸くしたヤヒロだが、直ぐに涙で一杯になった瞳からポロポロと涙を零して再び頬を濡らした。
「おれはお前を知らねェけどよい……、こんなに泣いてくれる奴がいるなんて驚いた。ありがとな。死んだオヤジも、エースも、きっと嬉しいだろうよい」
眉尻を下げて悲し気に笑うマルコを胸が締め付けられるような思いでヤヒロはじっと見つめた。
ヒシヒシと伝わるマルコの悲しみと寂しさ、そして、悔しさ等、言葉にできない程に抉られて傷ついた心が、ヤヒロには否が応にも理解できた。
胸が、心が、何もかもが、痛い。
その顔だ……。
マルコのその顔が見たく無くて!
だから私は――
「約束ッ……、約束する」
「何……?」
「絶対に『こんな未来』なんて来させやしない」
「何…言ってんだ? 『こんな未来』って…お前……」
「私はヤヒロだよ。マジマヤヒロ」
「……ヤヒロ……」
「マルコ」
「!?」
マルコがしてくれたように、ヤヒロも両手でマルコの頬にそっと触れて優しく包んだ。驚いたマルコは身を引こうとしたが、何故か身体が上手く動かすことができなくて戸惑った。
―― ッ…、何者だ……? 何でこんな……。
自分の頬を包むその手から感じる温もりが妙に心地が良くて、歪でガチガチに固まった心を柔らかく包み解されていく不思議な感覚が胸に押し寄せる。
「私は零れそうな命を全て拾う。決して家族を死なせたりしない」
「家族って……、お前は……」
「私は白ひげ海賊団の船長、エドワード・ニューゲートの娘だ」
「ッ!?」
「どんなに辛い道だろうが、どんなに険しい道だろうが、血反吐を吐いて瀕死になっても這いずってでも止めてやる」
「オヤジに……、娘は存在しねェよい……」
「知ってる。本来なら私は存在しない人間だ。けど、私が生きている世界は ” まだ ” この未来を迎えていない」
「ど、どういうことだよい……それはっ」
「絶対に、マルコに、あなたに! そんな顔はさせないから!」
「!」
眉尻を下げて、未だに零れ落ちる涙をそのままに、微笑んで、
「この未来を、私が過去から全て変えてみせるから」
強く誓いを立てるようにヤヒロは言った。
やがて視界が白くぼやけ始めた。きっと『元(自分がいる過去)の世界』に戻るのだとわかったヤヒロは、「もう、還る時間みたいだ」とマルコに告げた。
「ッ……」
心が切なく苦しくなるのを感じたマルコは眉根を寄せた。
オヤジに娘は存在しない。全く見知らぬ女の言葉。なのに、どうしてか信じられる気がした。らしく無いとは思うが、それでも――
不思議とどん底に落ちた心を救い上げられた気がしたから。暗くて悲しくて寂しい重い心が、気付けば軽くなっていたから。
「ヤヒロ」
「え?」
「無茶だけはするなよい」
「マルッ――んン!」
―― な…に……?
別れの寸前で腕を掴まれると同時に腕を引かれたヤヒロは、何が起こったのか直ぐに理解はできなかった。
唇に感じる温かくて柔らかい感触。チュッと小さなリップ音を鳴らして唇が離れた。
目の前にマルコの顔。閉じられた瞳が開くと青い瞳がそこにあって、「綺麗だ」と暢気にそんなことを思った。
呆然と見つめるヤヒロに、少しはにかむような、それでいて、希望に満ちた笑みを浮かべたマルコが言う。
「おれはその約束を……、期待する」
笑みを浮かべていても未だに悲しみの色が垣間見える。
「ありがとよい……。ヤヒロ……」
掴んだ腕を引っ張ってヤヒロの身体を抱き締めたマルコは静かに告げた。同時にヤヒロの視界は真っ白になるとマルコに抱き締められた身体の感覚が消えて世界が暗転した。
「マルコ!」
意識が浮上すると慌ててガバッと身体を起こせばポキニオ島の町宿の部屋。
「はァはァ……ゆ、夢?」
外は疾うに暗くなってしまっている。隣のベッドに横たわるサッチは相変わらず眠ったままだ。力無く項垂れたヤヒロは、シャワーを浴びようと立ち上がって浴室に向かった。
顔を俯かせたまま頭からシャワーを浴びる。
足元に流れ落ちる滴を見つめながら『夢』と思われる先程の記憶を思い起こしていた。それは物凄く鮮明に残っていて『夢』にしてはおかしいと思った。
ふと自分の唇を指先で触れてなぞる。途端にフラッシュバックするように世界が切り替わってあの瞬間を思い出した。
―― あの時、触れた。確かに、感じた。
シャー……――と流れ落ちる水音がやけに大きく聞こえる中、胸の鼓動が思いのほか早く脈打ち、頬に熱が集まると、重なった唇の感触に思わず心が震えるのを感じた。
「マルコと…キスした…」
何故そんなことをしたのかわからなかった。突然の行動に驚いて、抵抗も何もできずにただ素直にそれを受け入れた自分がいて戸惑った。
あんなに悲しい顔をしたマルコを見たからかもしれない。
あんなに辛い顔をしたマルコを見たからかもしれない。
同情したから?
わからない。
わからない。
でも――
「嫌じゃなかった……。嫌じゃなかったんだ」
おれはその約束を……、期待する――悲し気に、寂し気に、笑いながら言ったマルコの言葉は確かにヤヒロの胸の内に刻まれた。別れ際に抱き締められて確かに感じた温もりを思い起こせば耳に残る声が聞こえた。
『ありがとよい……。ヤヒロ……』と。
胸元に手を当てて溜息を吐いたヤヒロは、その手をぐっと握り締めた。
「約束したよマルコ。皆で笑っていられる未来を期待して待ってろ。絶対に守るから」
頭からタオルを被って足元を見ながらヨタヨタとベッドに辿り着いて腰を下ろしたヤヒロは、気持ちを切り替えるつもりで頭を拭こうと両手を上げた時だった。
ガシッ!
「へ!?」
わしゃっわしゃっわしゃっ!
「おおおお!?」
誰かが強引にヤヒロの頭を拭き始めた。視界がタオルで遮断されているヤヒロは、わけがわからずに声を上げた。
「ハハッ!」
「!」
聞き覚えのある声が聞こえてヤヒロはタオルを引っ張って頭からバッと取った。
「サッチ!」
「よう!」
驚きと共に喜びと嬉しさで一杯になったヤヒロは目に涙を浮かべた。それにサッチが少し戸惑い気味に苦笑を浮かべる。
「ヤヒロちゃんでも泣く時は泣くんだな」
「サッ…チ……、サッチ…! サッチ!! 良かった! 本当に良かった!」
涙を零しながら何度もサッチの名を呼んだヤヒロは、サッチの懐に勢い良く飛び付いた。
「おおっ!?」
思いも寄らないヤヒロの行動に驚きながらもしっかりとヤヒロを抱き留めたサッチは、感慨深そうにヤヒロの頭や背中を撫でてやった。
―― おれっち、生きてんだな。
自分の懐で泣いているヤヒロの背中に腕を回して抱き締める。確かな感触と温もりを噛みしめる様に自然と腕に力が入って、より強く、そして、大切に――。
サンキューなヤヒロちゃん。あの時、ヤヒロちゃんがいなかったらきっとおれは死んでた。本当に、マジで感謝するだけじゃあ足りねェかもしれねェけど。だけど――ヤヒロの耳元に唇を寄せて、サッチは囁くように御礼を述べる。
「ありがとうヤヒロ」
「! ……サッチ……」
ピクンと一瞬だけヤヒロの身体が小さく跳ねた。だが、サッチが生きていることが何よりも嬉しくて、サッチの存在を確かめる様に、その確かな温もりを全身で感じるように、ヤヒロはサッチの背中に腕を回してギュッと抱き締め返すことで応えたのだった。
その内に島に到着するとヤヒロはサッチを抱えて下船した。
「ヤヒロ、餞別をくれてやる。感謝しやがれ」
バギーは何やらジャラジャラと音がする袋をヤヒロに投げ渡した。首を傾げながら器用に片手で袋の中身を確認したヤヒロは目を丸くした。
「こ、これって!」
「無一文じゃどうにもなんねェだろ。おれ様の好意だ。有難く受け取りやがれ」
「あ、ありがとうバギー!」
パッと花が咲くように表情を明るくしたヤヒロに、バギーは頬を赤くして「くぅぅ!」と声を漏らした。
―― は、ハデに可愛いじゃねェかチクショー!!
ヤヒロに対して度々恐怖心を抱いたにも関わらず、「マジでやべェ女だ」とか言っていたにも関わらず、ヤヒロの「私は結構お前が好きだ!!」発言を受けてからのバギーは、センチメンタルな想いを抱いて物思いに耽るようになった。
本当はこの島でお別れなんかしたくねェんだけどな……と、ポツリと呟くバギーであったが、ヤヒロと『次の島まで――』と約束した手前、彼女を船に押し止めることができなかった。無理にそれを強要したら嫌われるんじゃないかという思いが彼の心を支配したからだ。
バギーの心に芽生えた小さな恋。
バギーに訪れた小さな春。
だがそれは完全なる幻だ。島を出港すると別れを惜しむように手を振ってくれるヤヒロに対してデレデレとした満面の笑みで手を振るバギー。残念だけどその恋は実りませんよ――と、隣で見つめていた船医は溜息を吐いて同情したのだった。
◇
ここは春島のポキニオというところで、大きくて活気のある港町が広がっている。
港に面して新鮮な魚介類を売っている如何にも海の男っぽい人に、宿がある場所を教えてもらおうとヤヒロは声を掛けた。
気を失った大きな男を担いでいる細身の女に驚いた男は、宿の場所を教えると「これに乗せて行け」と言ってリヤカーを貸してくれた。
「宿屋の主人はおれの友人だから、リヤカーは主人に預けておいてくれて構わねェからな」
「あ、わかりました。ありがとうございます」
深々と頭を下げて御礼を言ったヤヒロは、担いでいたサッチとバギーから貰った袋をリヤカーに乗せて宿屋を目指した。
「あァ、あいつから借りたんだろ? 預かっておくよ。はい、これが鍵ね」
「お世話になります」
部屋の鍵を受け取ったヤヒロは、再びサッチを担いで二人一室となる部屋へと入った。
ベッドにゆっくりとサッチを下ろして寝かせると、ヤヒロは隣のベッドに腰を下ろして「ふぅ」と大きく息を吐いた。
「あー、どうしよう……。サッチが目を覚ましてくれなきゃ何にもできねェよ」
ここが一体どの辺りなのか、モビー・ディック号とどれだけ離れてしまったのか、ヤヒロはゴロンと横になって天井を見つめた。
天井の木目を何となく追いながら「あーでもない、こーでもない」と考えつつ、ふと隣に眠るサッチへと視線を向けた。
本当は死ぬはずだった人なんだよな。でも、こうして生きてるってことは、どこかで何かが変わる予兆であることに間違いないわけなんだけど……。まァ、そもそも私がこの世界にいること自体がおかしいことなんだけどな。
――と、少しだけ自嘲してゆっくりと瞼を閉じた。緊張と疲れが溜まっていたのか、思っていた以上に全身から力が抜け落ちて直ぐに深い眠りに落ちた。
◇
雨が降りしきる丘の上に佇む墓を前にして、一人の男が呆然と立っている。男の後ろ姿を見たヤヒロは、それが誰であるのかを直ぐに理解したと同時にドクンッ――!と心臓が大きく唸るのを感じた。
何故か焦燥に駆られて急いで駆け寄り肩を叩くと、男はゆっくりと振り向いた。
―― ッ……!
雨に濡れた髪が額に張り付いて滴がポタポタと落ちていく。
男の目は虚ろ。
雨に濡れているだけかもしれないが、頬を伝う滴が涙に見えて仕方が無かった。
眉間に皺を寄せて苦し気な表情を浮かべたヤヒロは、「マ…ルコ…」と消え入りそうな声で名を呼んだ。
マルコは少しだけ眉をピクリと動かしてヤヒロに視線を移した。
「どこかで……会ったか?」
「え……?」
眉を顰めたヤヒロを見つめたマルコは、あまり表情を変えないまま再び目前の墓へと視線を戻した。まるで知らない他人のようなマルコの反応に困惑したヤヒロは、マルコが見つめる ”それ” に目を向けた。
―― こ、これって!!
驚いたヤヒロは目を丸くした。さらっとしか読んだことがないヤヒロでさえも流石にはっきりと記憶している。
それは白ひげ『エドワード・ニューゲートの墓』と『ポートガス・D・エースの墓』だ。
「ッ……」
途端に視界が一気にぼやけて大きく揺れ始めた。止め処無く溢れる涙が冷たい雨の滴と混じって頬を伝い落ちて行くのを感じながら、ヤヒロは震える手を伸ばしてマルコの背中にそっと触れた。
「!」
身体がピクンと少しだけ跳ねる様にマルコは反応した。ゆっくりとした動作でヤヒロは額をも押し当てた。
自分の名前を呼んだ見知らぬ女の行動に、マルコは少しだけ困惑したが、振り返らずに黙ってその場に立ち尽くした。
「……」
僅かに背中から振動を感じたから。ヒックヒックと女が咽び泣き始めたから。――何故か拒絶することができなかった。
「お前ェ…何で……泣いてんだい? 何を……泣く?」
「ひっく……ふっ…うぅっ……」
「これが誰の墓なのか”知っている”のか?」
「ッ…、ひっく、ふっ、しっ、知ってる!」
自分の背中で涙を零すヤヒロに漸く向き直したマルコは、両手でヤヒロの頬を包み込む様にそっと触れて、零れ落ちる滴を親指で拭いながら顔を上へと向けさせた。
驚いて一瞬だけ目を丸くしたヤヒロだが、直ぐに涙で一杯になった瞳からポロポロと涙を零して再び頬を濡らした。
「おれはお前を知らねェけどよい……、こんなに泣いてくれる奴がいるなんて驚いた。ありがとな。死んだオヤジも、エースも、きっと嬉しいだろうよい」
眉尻を下げて悲し気に笑うマルコを胸が締め付けられるような思いでヤヒロはじっと見つめた。
ヒシヒシと伝わるマルコの悲しみと寂しさ、そして、悔しさ等、言葉にできない程に抉られて傷ついた心が、ヤヒロには否が応にも理解できた。
胸が、心が、何もかもが、痛い。
その顔だ……。
マルコのその顔が見たく無くて!
だから私は――
「約束ッ……、約束する」
「何……?」
「絶対に『こんな未来』なんて来させやしない」
「何…言ってんだ? 『こんな未来』って…お前……」
「私はヤヒロだよ。マジマヤヒロ」
「……ヤヒロ……」
「マルコ」
「!?」
マルコがしてくれたように、ヤヒロも両手でマルコの頬にそっと触れて優しく包んだ。驚いたマルコは身を引こうとしたが、何故か身体が上手く動かすことができなくて戸惑った。
―― ッ…、何者だ……? 何でこんな……。
自分の頬を包むその手から感じる温もりが妙に心地が良くて、歪でガチガチに固まった心を柔らかく包み解されていく不思議な感覚が胸に押し寄せる。
「私は零れそうな命を全て拾う。決して家族を死なせたりしない」
「家族って……、お前は……」
「私は白ひげ海賊団の船長、エドワード・ニューゲートの娘だ」
「ッ!?」
「どんなに辛い道だろうが、どんなに険しい道だろうが、血反吐を吐いて瀕死になっても這いずってでも止めてやる」
「オヤジに……、娘は存在しねェよい……」
「知ってる。本来なら私は存在しない人間だ。けど、私が生きている世界は ” まだ ” この未来を迎えていない」
「ど、どういうことだよい……それはっ」
「絶対に、マルコに、あなたに! そんな顔はさせないから!」
「!」
眉尻を下げて、未だに零れ落ちる涙をそのままに、微笑んで、
「この未来を、私が過去から全て変えてみせるから」
強く誓いを立てるようにヤヒロは言った。
やがて視界が白くぼやけ始めた。きっと『元(自分がいる過去)の世界』に戻るのだとわかったヤヒロは、「もう、還る時間みたいだ」とマルコに告げた。
「ッ……」
心が切なく苦しくなるのを感じたマルコは眉根を寄せた。
オヤジに娘は存在しない。全く見知らぬ女の言葉。なのに、どうしてか信じられる気がした。らしく無いとは思うが、それでも――
不思議とどん底に落ちた心を救い上げられた気がしたから。暗くて悲しくて寂しい重い心が、気付けば軽くなっていたから。
「ヤヒロ」
「え?」
「無茶だけはするなよい」
「マルッ――んン!」
―― な…に……?
別れの寸前で腕を掴まれると同時に腕を引かれたヤヒロは、何が起こったのか直ぐに理解はできなかった。
唇に感じる温かくて柔らかい感触。チュッと小さなリップ音を鳴らして唇が離れた。
目の前にマルコの顔。閉じられた瞳が開くと青い瞳がそこにあって、「綺麗だ」と暢気にそんなことを思った。
呆然と見つめるヤヒロに、少しはにかむような、それでいて、希望に満ちた笑みを浮かべたマルコが言う。
「おれはその約束を……、期待する」
笑みを浮かべていても未だに悲しみの色が垣間見える。
「ありがとよい……。ヤヒロ……」
掴んだ腕を引っ張ってヤヒロの身体を抱き締めたマルコは静かに告げた。同時にヤヒロの視界は真っ白になるとマルコに抱き締められた身体の感覚が消えて世界が暗転した。
「マルコ!」
意識が浮上すると慌ててガバッと身体を起こせばポキニオ島の町宿の部屋。
「はァはァ……ゆ、夢?」
外は疾うに暗くなってしまっている。隣のベッドに横たわるサッチは相変わらず眠ったままだ。力無く項垂れたヤヒロは、シャワーを浴びようと立ち上がって浴室に向かった。
顔を俯かせたまま頭からシャワーを浴びる。
足元に流れ落ちる滴を見つめながら『夢』と思われる先程の記憶を思い起こしていた。それは物凄く鮮明に残っていて『夢』にしてはおかしいと思った。
ふと自分の唇を指先で触れてなぞる。途端にフラッシュバックするように世界が切り替わってあの瞬間を思い出した。
―― あの時、触れた。確かに、感じた。
シャー……――と流れ落ちる水音がやけに大きく聞こえる中、胸の鼓動が思いのほか早く脈打ち、頬に熱が集まると、重なった唇の感触に思わず心が震えるのを感じた。
「マルコと…キスした…」
何故そんなことをしたのかわからなかった。突然の行動に驚いて、抵抗も何もできずにただ素直にそれを受け入れた自分がいて戸惑った。
あんなに悲しい顔をしたマルコを見たからかもしれない。
あんなに辛い顔をしたマルコを見たからかもしれない。
同情したから?
わからない。
わからない。
でも――
「嫌じゃなかった……。嫌じゃなかったんだ」
おれはその約束を……、期待する――悲し気に、寂し気に、笑いながら言ったマルコの言葉は確かにヤヒロの胸の内に刻まれた。別れ際に抱き締められて確かに感じた温もりを思い起こせば耳に残る声が聞こえた。
『ありがとよい……。ヤヒロ……』と。
胸元に手を当てて溜息を吐いたヤヒロは、その手をぐっと握り締めた。
「約束したよマルコ。皆で笑っていられる未来を期待して待ってろ。絶対に守るから」
頭からタオルを被って足元を見ながらヨタヨタとベッドに辿り着いて腰を下ろしたヤヒロは、気持ちを切り替えるつもりで頭を拭こうと両手を上げた時だった。
ガシッ!
「へ!?」
わしゃっわしゃっわしゃっ!
「おおおお!?」
誰かが強引にヤヒロの頭を拭き始めた。視界がタオルで遮断されているヤヒロは、わけがわからずに声を上げた。
「ハハッ!」
「!」
聞き覚えのある声が聞こえてヤヒロはタオルを引っ張って頭からバッと取った。
「サッチ!」
「よう!」
驚きと共に喜びと嬉しさで一杯になったヤヒロは目に涙を浮かべた。それにサッチが少し戸惑い気味に苦笑を浮かべる。
「ヤヒロちゃんでも泣く時は泣くんだな」
「サッ…チ……、サッチ…! サッチ!! 良かった! 本当に良かった!」
涙を零しながら何度もサッチの名を呼んだヤヒロは、サッチの懐に勢い良く飛び付いた。
「おおっ!?」
思いも寄らないヤヒロの行動に驚きながらもしっかりとヤヒロを抱き留めたサッチは、感慨深そうにヤヒロの頭や背中を撫でてやった。
―― おれっち、生きてんだな。
自分の懐で泣いているヤヒロの背中に腕を回して抱き締める。確かな感触と温もりを噛みしめる様に自然と腕に力が入って、より強く、そして、大切に――。
サンキューなヤヒロちゃん。あの時、ヤヒロちゃんがいなかったらきっとおれは死んでた。本当に、マジで感謝するだけじゃあ足りねェかもしれねェけど。だけど――ヤヒロの耳元に唇を寄せて、サッチは囁くように御礼を述べる。
「ありがとうヤヒロ」
「! ……サッチ……」
ピクンと一瞬だけヤヒロの身体が小さく跳ねた。だが、サッチが生きていることが何よりも嬉しくて、サッチの存在を確かめる様に、その確かな温もりを全身で感じるように、ヤヒロはサッチの背中に腕を回してギュッと抱き締め返すことで応えたのだった。
約 束
【〆栞】