営業から戻ってきた唐沢は脱いだジャケットを肩にかけながら喫煙ルームに向かった。大人ばかりの会議であれば遠慮なくその場で吸うが、それ以外の場所で大っぴらに煙草を吸うのは少々躊躇いがあった。それに、利用する者の少ない静かな空間では考えがよくまとまる。
ボーダー内での喫煙者の数は限られている。その多くが職員なのは戦闘隊員の大半を占めているのが未成年者だからだ。そして施設内に唯一ある喫煙ルームを利用する者はもっと限られる。皆、一服するためだけにわざわざ施設の隅まで歩きたくはないのだ。ここへ足を運んで思う存分煙を吸うのは余程の中毒者だけであろう。
「おや?」
唐沢が喫煙ルームに入るとそこには先客がいた。ボーダー内でもある意味でその名を馳せている問題児、苗字名前だ。彼は壁に背を預けるようにして深く床に座り、少し上向きになって煙草を咥えている。まるで夜中のコンビニ前に居座る不良のようだ、と例えてみたがそもそも彼は世間から不良と呼ばれる高校生であることを思い出す。比喩でも何でもなかった。
「一応、私は君を注意しなければいけない立場なのを忘れないでほしいな」
「でもあんたは俺に何も言わないだろ」
「言ったところで意味がないことを知っているからね」
苦笑しながらジャケットの内ポケットに入れていた煙草の箱を取り、中から引き出した一本を口に咥える。次いで火を、とポケットを探るが愛しの使い捨てライターはどこを探っても見当たらなかった。営業途中で吸った時にどこかに置き忘れてしまったのかもしれない。思わず溜め息を吐きそうになった唐沢はふと向かいに座り込んでいる名前を見た。
「よければライターを貸してくれないかな」
「残念だけどオイル切れ」
僅かな期待だったが想像以上にショックが大きかったのか知らずのうちに天を仰いでいた。仕方がない、諦めるか。そうは思えど体はもう煙草を迎え入れる準備が整っている。ニコチンを欲しているのだ。諦めるどころか頭の中ではボーダー職員の中でライターを持っていそうな人物をピックアップしていた。
そんな唐沢の様子を眺めていた名前は指で挟んだ自分の煙草に目を向ける。まだ半分ほど残っているそれを差し出すつもりはもちろんない。
「してみる? シガーキスってやつ」
「……は?」
座った体勢はそのままに煙草を咥え直した名前を驚いた表情で見つめる唐沢は答えを詰まらせた。確かにその方法ならばライターがなくとも自分の煙草に火を点けることができる。しかし、だ。そう気軽にありがとうと言えるような行為ではないし、二人の間柄だってそこまで親密ではないのだ。
「どうする?」
煙草を咥えた口元を緩めてまるでこちらを挑発するかのような態度に頭を抱えそうになる。彼の瞳はこちらの苦悩を見透かしている。そう思えてならないほど獣に近い鋭さを持っていた。そんなのを相手に理性がどうの倫理がどうのなんて言っていられるだろうか。
唐沢はゆっくりと数歩、足を進めて、そして立ち止まった。見下ろした青年は高校生であるのにも関わらず、纏う雰囲気は明らかに年相応のそれではない。身を屈め、膝を床に着けて片手は冷たい壁へ。私は煙草を吸いたいだけだ。そう自分に言い聞かせながら唇で挟んだ煙草を指で固定し顔を近づけた。煙草の先端が優しく触れ合い、熱を奪うために息を吸う。じんわりと火が燃え移っていく様子を伺っていると視線を感じた。そっと目線を上げるとまっすぐに向けられるどこか熱の籠った瞳とかち合った。これまでの人生経験の中で何度か体験したことのある視線だ。それも無意識ではなく自覚して向けられるもの。これは大変なことになりそうだ、と他人事のように胸の中で呟いた。
充分に火が燃え移った頃合いで顔を離した。けれど体勢も二人の距離もほとんど変わらないまま。名前が咥えていた煙草を唇から離し、口内に溜まっていた煙を唐沢の顔に向けて吹きかけた。
「なぁ。あんたの煙草はどんな味」
「試してみるかい」
流れるように自然な動作で同じく口元から煙草を離した唐沢は吸った煙をそのままに目下の唇を塞いだ。己の口で。重なった唇の間から僅かに白煙が漏れる。だがすぐにそれは唾液の絡まる音へと変わっていった。苦しむ様子もなく逆に翻弄されそうな舌の動きに、やはりそうか、と一人勝手に納得する。
どちらともなく離れた唇は唾液の糸が繋がり、すぐにプツリと切れた。照れた様子も恥ずかしさを感じている様子もないがその瞳だけは変わらず熱を孕んでいる。
「根付さんにも、そんな眼を向けているのかな」
好奇心に駆られて呟いた言葉は不覚にも彼の機嫌を損ねてしまったようだ。表情を顰めた彼は吸いかけの煙草を唐沢の口に押し付け咥えさせると喫煙ルームを出ていってしまう。残されたのは吸い慣れない香りの苦い味だけだった。