wait


 カーテンの隙間から差し込む太陽の光の眩しさに風見は小さく唸り声を上げて目を覚ました。中途半端に閉じられた遮光カーテンをぼんやりと見つめながら昨夜の、いや今朝のことを思い出す。
 事件に関する報告書や証拠品の調査記録をまとめ終わったのは空が白み始めた頃だった。ここ数日は睡眠の時間も削って張り込みの捜査にあたっていたためか、ようやくひと段落した時の解放感は尋常ではない。ホッと一息ついた瞬間に襲ってきた睡魔をカフェインで何とか耐えながら、一人暮らしをしているマンションへと帰宅した。ここまでは覚えている。しかしその後の記憶がない。
 唯一の安心する状況は冷たい床ではなく柔らかなマットレスの上で寝ていることだろう。枕元に放置されていたスマホを手に取ってサイドの電源ボタンを押すと充電マークは残り数%と頼りない数字が表示されていた。床に放置された充電コードを手探りで探しながら視線を画面中央に移すと現在の時刻が表示されている。
 そこで思考が一時停止した。

「……ッ、しまった!」

 飛び起きるようにして体を起こした風見は慌ててベッドから降りると寝室を飛び出した。片手に握ったスマホの画面に表示されていた時間は登庁予定の時間をとっくに過ぎていたのだ。床に脱ぎ捨てられていたスーツのジャケットとネクタイを拾い、身形を整えつつ足早に玄関へと向かった。充電は車の中でしよう。そう考えながら靴を履いてドアノブに手をかけたところでハッとする。
 もう一度スマホの電源ボタンを押して、今度は時間の下に表示された日付と曜日をしっかりと確認した。

「あー、今日は非番だったか」

 元々予定されていた非番日であることを思い出して安堵の息を吐く。靴を脱ぎ揃えてリビングに戻り、もう少しゆっくり寝ていてもよかったかもしれないなと呟いてソファに腰掛けた。テレビの電源を入れてニュースを流してみるがとくに気になる情報はなさそうだ。適当にバラエティー番組にチャンネルを変えてリモコンを手放し、堅苦しいジャケットとネクタイを外した。
 こうした一日の始まりはなにも今回が初めてではない。捜査中は休みなど無いに等しいため曜日感覚が失われることも少なくはなかった。プライベートな予定がなければ余計に無頓着になってしまう。
 ふと、彼は今何をしているのだろうかと考える。ここ数日は自分が忙しくしていたせいで顔を合わせるどころかまともに連絡すら取り合っていなかった。もし時間あるのなら会うのもいいのかもしれない。そうして口元を緩めるがすぐに今日が平日であることを思い出す。

「さすがに学校、だよな……」

 年下の恋人はまだ高校生だ。不良校と名高い学校に通ってはいるが平日の真昼間に遊び歩いているような青年ではない、はず。おそらく。いや、きっと。自信を持って断言できないことが残念でならなかった。恋人にはなれたがまだお互いに知らないことのほうが多い関係だ。ならば知るべきではないだろうか。
 風見はスマホを操作して電話帳から目的の人物の名前を探すと発信ボタンをタップして耳元に寄せた。呼び出しの無機質なコール音が続く。

「ちゃんと登校しているみたいだな」

 数回目のコールを聞き届けてから発信を終了させた。どうやら余計な心配だったようだ。平日のこの時間帯はしっかりと学校にいると知れただけで充分な収穫だろう。カレンダー通りの休日があるわけではない風見にとっては相手に連絡を入れても問題ない時間を把握するのは大事なことだ。
 忘れないうちに充電ケーブルをスマホへと差し込んで、ソファに深く腰掛けるように座り直し点けたままのテレビに視線を向けた。バラエティー番組では若い人を中心に人気沸騰中という触れ込みで話題の飲食店を紹介しており、ボリュームのある肉料理から食べ歩きもできるスイーツまで様々な映像が流れる。番組に呼ばれたゲストたちがその映像を観て美味しそうと大きなリアクションをするのに釣られて風見の腹が空腹を知らせた。
 最後にまともな食事を取ったのは昨日の昼だろうか。それでもコンビニで買ったおにぎりを二個と缶コーヒーのみだ。以降は水分補給をする程度で固形物は口にしていない。これでは腹の虫も鳴くわけだ。立ち上がりキッチンへ向かうと冷蔵庫を開けた。

「……見事に何もないな」

 しかし入っていたのはペットボトルの水と缶ビールが数本だけ。思わず眉を顰めて冷蔵庫を閉めると今度はウォールキャビネットを覗き込む。だが残念ながらインスタントのカップ麺もストックは尽きていた。事件によっては数日家に帰らないことも珍しくないため食料品を買い溜めしておくこともままならない。とはいえいつ緊急の連絡が来ても問題がないように体調は万全の状態にしておきたかった。つまり何も食べない選択肢はないのだ。
 買い物にしろ外食にしろ家を出る前に一度シャワーは浴びておきたい。ついでに溜まった洗濯物も片付けて軽く部屋の掃除もしなければ。消化するべきタスクを頭の中で整理しながらリビングに戻りソファに座る。ここで溜め息を一つ。やることが増えると途端に気力が削がれてしまう。非番の日は家でゆっくりしていたいと思うのは日頃気を張った仕事をしているせいだろう。一度腰を下ろしてしまえば立ち上がるのも億劫になってしまった。
 そこで風見の視界に入ったのはテーブルの上に乱雑に置かれたチラシの束だった。ショッピングモールの広告やセールのお知らせ、中にはデリバリーピザのチラシも入っている。なるほど、こういう時に利用するために存在しているサービスではないか。丁度いいとばかりにそのチラシを手元に引き寄せ、充電中のスマホをタップした。


 インターホンの音が耳に届いて沈んでいた意識が浮上する。シャワーを浴びた後、溜まっていた洗濯物が洗い終わるのを待つ間にソファで休んでいたはずがいつのまにか寝てしまっていたようだ。寝起きの目を擦り眼鏡をかけ直しながらドアホンの映像を確認すれば店名ロゴの入った帽子を被る配達員の姿が映っていた。
 再度、インターホンが鳴らされ慌てて通話ボタンを押して声を掛ける。

「っ、はい」
「デリバリーピザでーす」
「すみません、今行きます」

 足早に玄関へと向かいドアを開けると目が合う暇もなく配達員は帽子の鍔を軽く掴み会釈をした。そのまま名前を確認され背負っていた保温バッグからピザ専用の箱を取り出しこちらに差し出される。

「ご注文ありがとうございます。こちらは割引クーポンなのでよければ次回どうぞ」
「あ、どうも」

 受け取った箱の上には確かにクーポン付きのチラシが乗っていた。こういった割引サービスはありがたいのだが期限内に使用したことは多くない。いつも忘れた頃に思い出すのだ。下手をすればこのピザを食べ終わった後に箱と一緒にゴミ箱の中の可能性だってある。つまり配達員には申し訳ないがおそらく利用する確率は限りなく低いということだ。
 とはいえこの配達員もバイトであろうからそこまで顧客に対して期待も責任も感じてはいないだろうが。そう考えながらドアを閉めようとした風見に声が掛けられた。

「仕事休みなの?」
「あぁ」
「ふーん、そう」

 無意識に返事をしてしまったが随分と馴れ馴れしく話しかけてくる奴だな、と風見はドアノブを掴んだまま保温バッグを背負い直す配達員を今度は観察するように視線を向けた。帽子の鍔が下がっていて目元は隠れているが口元は良く見える。訝しむこちらの様子に反応するようにその口角が緩く上がっていき、そこで既視感を覚えた。よくよく遣り取りを思い返してみれば耳に馴染む声ではなかっただろうか。
 まさか。ありえない。だが否定もできない。風見はどうか予想と反してくれと願いながら顔を覗き込むように身を屈めた。

「……苗字?」
「気付くのおせぇーよ」

 配達員────苗字名前は帽子の鍔を上げて悪戯が成功した子供のような表情を見せた。当たってほしくない予想ほど当たってしまうもので困ったものだ。
 しかしバイトといえば彼はすでにポアロで働いていたはず。辞めたという話は本人からも安室透として同じ場所で働く上司からも聞かされてはいない。となれば掛け持ちをしていることになるが高校生がいくつものバイトを掛け持ちする時間などあるのだろうか。そう、まさに今日は平日で、さらには平日の真昼間なのだから。

「学校はどうしたんだ」
「平気。ちゃんと計算してサボってる」
「普通は休まず行くものだぞ」
「俺の学校普通じゃないから。まともに授業なんてやってねぇの」

 どこか呆れた声音でそう言い放って帽子を被り直した名前の視線が改めてピザの箱を持つ風見に向けられる。その様子は何か珍しいものを見ているような表情だった。

「なんだ?」
「いや、あんたでもこういう出前頼むんだなって」
「あーたまには、な。今日は冷蔵庫になにも入ってなくて仕方なくだ」
「ふーん」

 食材があればちゃんと自炊はするぞ、とは何故か言い訳がましく聞こえて言えなかった。察しの通りデリバリーを頼むのは滅多にないことだ。家にいる時間があまり多くないということもあるが基本的には外で食事は済ませてしまう。捜査中ならばとくにだ。家でゆっくりと食事をするなんてそれこそ非番日くらいなもので、仕事の多忙さがなければ冷蔵庫の中身を充実させることくらいはできる。なので今日に限って言えば彼の言う通り珍しいことではあった。
 すると名前が何かを考えるように目線を外して斜め下を見るように目を伏せる。

「今日はずっと家にいんの?」
「出かける用事は今のところないが」
「なに食べたい?」

 相変わらずの脈絡のない唐突な質問に風見はもう慣れてしまったのか苦言を漏らすことはない。なのでその質問の意図は解らないままだったのだが素直に思考を巡らせることにした。
 食べたいもの。空腹の今の状況ではなんでもいいと答えてしまいそうになるが敢えて上げるとするならば自分は何が食べたいのだろうか。がっつりと肉を食べてスタミナを回復するのもいい。いや待て、今からピザを食べるのだから逆にさっぱりしたものも捨てがたい。そういえば、とバラエティー番組でいくつか料理が紹介されていたことを思い出す。若者に人気なのだと流れていた映像の中になかなか渋いものが入っていると目に付いたあれはたしか────

「……ナスの肉味噌炒め?」
「じゃ、俺もう行くから。またのご利用お待ちしておりまーす」
「あ、おいっ」

 答えを聞くや否やそこからの会話もなしに去ってしまう恋人の後ろ姿を唖然と見送ってから風見は静かに溜め息を吐く。そして結局先程の質問に何の意味があったのかと疑問に思いながらゆっくりとドアを閉めたのだった。


 平日の昼間に偶然にも恋人と顔を合わせるという突発イベントから数時間後のこと。
 バイトを終えた名前がロッカーに入れていたスマホを確認すると着信があったことを知らせるメッセージが表示されていた。どうやら意図せずして玄関先で束の間の逢引を楽しんだ時刻よりも前に風見から電話がかかってきていたようだ。休みと言っていたから暇を持て余していたのだろうか。しかし本人も気にしていたことだが普通の高校生は学校にいる時間であり、さらには授業中の可能性が非常に高い時間帯だ。もし着信に気付いても出ることは叶わない。
 と、一般的にはそう考えるのが常識的だろう。しかし名前の通う鈴蘭高校は県内外を問わず有名な不良校である。教育機関としてまともに機能しているかと問われても肯定はできないだろう。従って電話の一つや二つ、例え授業中であろうとなかろうとお構いなしだ。そもそも今日はその学校にすら行っていないのだから関係のない話ではあるが。

「ひとまずスーパー行くか」

 制服から私服に着替えスマホをポケットに仕舞うとバイト先のピザチェーン店を後にした。
 それから愛用のバイクを走らせること十数分。到着したのは風見が住んでいるマンションの最寄りにあるスーパーだ。冷蔵庫に何も入っていないと聞いたから必要な食材は全て買うことになる。野菜コーナーから精肉コーナーを回り迷うことなく選んだ品をカゴに入れていく。最後にレトルト食品の中から目的のものを手に取って終わりだ。そのままレジに向かおうとした足は調味料の棚の前で止まった。さすがに調味料くらいはあるだろう。そう考えたがまた買いに戻るのも面倒であったため万が一を想定しカゴに入れてしまう。
 そうして買い物を終えてまたバイクに跨った。幾分か財布が軽くなったが後から請求すれば問題はない。むしろこちらがレシートを差し出す前に奪われることだろう。真面目な人間の行動は容易に想像できるものだとフルフェイスのヘルメットの下で口元を緩めていれば風見の住むマンションはもう目の前だった。
 すでに何度か訪れたことがあるため慣れた足取りで玄関ドアの前まで行きチャイムを鳴らす。ドアホンでこちらの顔は確認したのか訪問者を尋ねる声もなくドアが開いた。出迎えたのはまるで寝起きのような顔をした男で不思議そうに軽く首を傾げている。

「苗字、どうしたんだ」
「入っていい?」
「構わないが連絡くらい寄越してくれ」
「別に部屋が片付いてないくらい気にしねぇけど?」
「体裁くらい守らせてくれ……」

 苦言を漏らしながら部屋の中へと引き返す風見の後を追うように名前は玄関を上がる。リビングまで行くとテーブルの上には昼に届けたピザの空箱とビール缶が放置されていた。欠伸を嚙み殺す部屋の主の様子から察するに昼食を終えた後から自分が訪ねてくるまで寝ていたようだ。

「それで、どうしたんだ?」
「着歴あったから。俺に会いたかったんだろ。まぁ昼に一回会ったけど」
「え……あっ、いや、あれは違うんだ。君がちゃんと学校に行っているのか気になってだな」

 着歴、と言われ昼前にした自分の行動を思い返し風見は寝起きの頭が一気に覚醒し慌てて弁解を口にした。決して声が聞いたかったからとか恋しくなったからではないとよく噛まずに言えるなと感心するほど早口で続けられる。その年上の恋人の素直ではない言い訳に名前は呆れた視線を投げて食卓テーブルに買い物袋を置いた。

「だからあの電話に深い意味はなくて────それは?」
「飯、作ってやろうかと思ってさ。スーパー寄ってきた」

 返ってきた答えに風見は昼にされた質問の意図をようやく理解することができた。同時に以前降谷から彼の料理が美味しかったと遠回しに自慢されたことが記憶に蘇る。それはもう羨ましいを通り越して少しばかり苛立ちを覚えるほどに自慢をされたのだ。直接的ではなかったところがまた腹が立ったのを覚えている。かといって仕事だけではなく料理の腕も完璧に近い上司が褒めるくらいなのだから期待は高まるというもの。
 降谷という存在のおかけで勝手に期待を膨らます風見ことなど露知らず、名前は買ってきた食材を手際よく冷蔵庫に仕舞っていく。そして炊飯器の中身が空であることを確認するとリビングのほうを振り返った。

「米炊いてから作るし寝ててもいいよ」
「なにか手伝うか?」
「せっかくの休みなんだろ? ゆっくりしてれば」

 有難い申し出ではあるが、と風見は眉尻を下げた。恋人とはいえ、名前は客人である。その客人に料理を任せて自分は怠けているのも少々居心地が悪かった。しかし、特別料理が得意ではない自分が無理にキッチンへ入っても邪魔になるだけなのは明白だ。
 そこで少しでも罪悪感をなくそうと、放置していた昼食の後片付けをすることにした。リビングのテーブルに放置してある空のピザ箱を畳んでゴミ箱へ。ビール缶はまだ中身が残っており、捨てるのも勿体ないと一口煽った。しばらく時間を置いたせいか冷たかったビールは温くなり、炭酸も抜けている。お世辞にも旨いとは言えないそれを飲み干してしまい、空となった缶をビニール袋に投げ入れた。
 その様子をキッチンから眺めていた名前は、面白いとばかりに口元を緩める。出会った頃から知っている生真面目な性格ぶりは、プライベートな空間でも存分に発揮されているらしい。まずいと思うならば水道に流してしまえばいいのにと思う反面、そういうところが好ましくもある。

「ま、本人には言わねぇけど」

 名前は小さく笑みを零しながら研いだ米を炊飯器にセットした。
 夕飯時を迎えるまでにはまだ充分に時間がある。献立を考えれば、調理を開始するのは米が炊き上がる頃からでも遅くはないだろう。使用する調味料だけをワークトップに用意しておき、名前はリビングのソファで寛いでテレビを見始めている風見の隣に腰を下ろした。同じようにテレビに目を向ければ映っていたのは数年前に流行ったというドラマの再放送らしい。所謂王道の青春ラブストーリーを題材にしたよくある内容のドラマだ。

「こういうの好きなの?」
「いや」
「だろうね」
「君は?」
「興味ない」
「だろうな」

 そこで会話が途切れソファに並んでただテレビを眺める。男女のすれ違いを描いた、視聴者的には盛り上がりの場面なのだろうがドラマの内容は二人にとっては重要ではなかった。日常的に会うことが叶わないせいか、言葉を交わさずとも同じ空間にいるだけで満足感は得られる。例えテレビの電源をオフにしたとしても居心地の悪さは感じないだろう。

「あ」

 最早、ドラマの中の出来事をBGMとして認識し始めた頃、風見が思わずと言った様子で声を漏らした。そしてソファの背もたれに寄りかかり寛いでいる名前に顔を向ける。

「忘れるところだった。レシート出してくれ」
「ん? あぁ……はい、どうぞ」

 こうなることは予想済みだったため名前はポケットに突っ込んでいたレシートを取り出し差し出した。それを受け取った風見がざっと目を通すとソファから一旦離れ、ハンガーにかけてあったジャケットから財布を取って戻ってくる。真面目な性格だから端数まできっちり返してくるのだろうと様子を伺っていれば札を一枚手渡されて目を瞬かせた。購入した金額よりも多い。

「謝礼も込みだ」
「どうも。これはこれでいいバイトになりそう」

 謝礼となれば断る理由もないと有難く受け取った。生憎と財布は邪魔になるのでヘルメットと一緒に玄関の靴箱の上に置いてきてしまっている。したがって、受け取った金銭は無防備にもポケットの中へと仕舞われるしかない。
 ぞんざい、とまでは行かないが、その雑さよりもまず名前の強かさに風見は呆れた表情を浮かべてしまった。

「バイトはいくつやっているんだ」
「今ところ三つ。ポアロとピザとたまにバイク便」
「……お金に困っているのか?」
「バイクの維持費とか学費とかいろいろ、ね」
「あぁ、なるほど……」

 バイクについて詳しくはなかったが名前の乗っている車体が既製品からさらにカスタムされていることは知っていた。また、母親がすでに鬼籍に入っていることも調査済みだ。父親の有無については不明だが、そうした家庭事情であることは承知している。だから複数のバイトを掛け持ちしている理由に対して納得を示すことができた。
 そうしてまた会話が途切れ、沈黙の後、他愛のない会話がまた生まれる。何にも急かされず、誰にも邪魔されず、ゆったりとした時間が二人の間に流れていった。垂れ流しのドラマは物語の佳境へと差し掛かろうとしている。
 家族のことについて進んで語ろうとはしない名前にとって、それ以降深く掘り下げてこない風見の気遣いは、じんわりと胸を温めるのに充分であった。


 それから暫くして、名前はキッチンに立っていた。包丁を握り手慣れた動作でナスをひと口大サイズの乱切りに、触感を足すためのピーマンを細切りにしていく。どれ程の量を食べるかは分からなかったが、おそらく二人前では足りないだろうと多めに食材は調達していた。今日中に食べきれなくとも冷蔵保存しておけば翌日も食べることができるだろう。
 食材を切り終え、フライパンに油を引き、冷蔵庫から取り出した豚ひき肉をフライパンに入れて塩コショウを振り、中火で炒めていく。調理の手順はレトルトコーナーで買った惣菜の素の箱裏に載っているため迷うことはない。元々、育った環境の影響もあり、一般家庭レベルの料理なら名前にとって難しいものではなかった。
 そうして手際よく調理を進めていけば、次第に食欲を誘う香りがリビングまで届き始める。まさにその匂いに釣られた風見はテレビからキッチンへと顔を向けた。丁度そのタイミングで調理中の名前が少し長い横髪を耳へとかける。その仕草を目撃してしまい不埒な気持ちが湧き上がってしまった。この煩悩を酒のせいにしようとするのだが視線は外せぬままだ。
 不意に名前の目が風見へと向けられた。口元には不敵な笑みを浮かべている。

「待て、くらいできるだろ」

 まるでエサを前にした犬を躾るような言い方だ。けれど、それに文句の言葉も返すことはできず、風見は自分の頬に無意識に触れた。
 自分はそこまで物欲しそうな顔をしていただろうか。どうして視線一つで見抜いてしまうのか。いや、冷静に考えてみれば待てと言われたのは急かさずとも食事はすぐにできるという意味なのではないか。迂闊にもけしからぬ考えをしてしまったことに対してのものではないはず。そうに違いない。しかし思い出すだけでも名前の仕草には年下とは思えないほどの色気を感じた。髪を撫でてあの耳に自分の手で、指で、撫でてやりたいという衝動が襲ったのは否定できない。幾度か身体を重ねた経験があるからそう捉えてしまったのだろう。相手に引っ張られ己の性欲も若返っているのではないかと疑わずにはいられなかった。
 一人もんもんと頭を悩ます風見を余所に食卓テーブルの上には出来上がった料理が並べられていく。

「いつまで考え事してんの」
「うわっ!」

 ソファの裏へと静かに回った名前が耳元で声を掛ければ風見は驚きに体を跳ねらせた後に振り向いた。

「す、すまない。できたのか?」
「簡単なものだから時間はかからねぇよ。ほら、冷めないうちに食おう」

 促すように肩を叩かれた風見はソファから立ち上がり食卓の椅子に腰掛ける。テーブルに並べられた料理で目を惹くのはやはり、大皿に乗っているナスの肉味噌炒めだろう。バラエティー番組で紹介されていた店のクオリティと比べても遜色ない出来栄えに期待値が高まる。その他には、こちらもナスを使った味噌汁と炊き立ての白米。初めての恋人の手料理を前に恥ずかしくも胸が躍った。
 対面の椅子に名前が座るのに合わせて美味そうだと風見が声をかければ、味は保証すると自信に満ちた表情が返された。ではさっそく、と両手を合わせる。

「いただきます」

 最初に箸を伸ばした先はもちろん、リクエストをしたナスの肉味噌炒めだ。熱々の湯気を立ち昇らせる出来立てのそれを口に運ぶ。少し濃いめの味付けが白米を誘い、その欲に従うように米を頬張った。美味い。自分で作るのとは一味も二味も違う家庭料理に箸が止まらなかった。ナスだけでなくピーマンが入っているのがアクセントとなって、味に飽きることなく食べ進めることができる。そしてなにより米に合う。これが最高だ。
 ふと、無言で食事を勧めていた風見はテーブルに頬杖をついてこちらを眺めている名前に気が付いて箸を止めた。

「食べないのか?」
「あんたが夢中で食ってるのが面白くて。おかわりあるけど?」
「……もらう」

 食事を始めた時からずっと見られていたのだと知り恥ずかしさを覚えた風見だったが、食欲には敵わないためいつの間にやら空になっていた茶碗を素直に渡した。米を待つ間に味噌汁を啜る。とろとろに溶けたナスが甘く柔らかい。自分で試したことはなかったが機会があれば今度作ってみよう。そう思うくらいに味噌汁も絶品であった。

「味噌汁、まだ残ってるから明日の朝にでも温めて食べてよ」
「あぁ。助かる」

 戻って来た名前から白米の盛られた茶碗を受け取り、再び大皿に箸を伸ばす。食べだすと止まりそうもない味付けがすでに癖になっていた。いくらでも腹に入りそうだ。
 箸を進めつつ風見はちらりと視線を前に向けた。対面に座る名前はもうこちらを眺めることはなく、同じように料理を口へと運んでいる。その光景にどこか不思議な気分になった。こうして共に食卓を囲んでいる状況が、落ち着かなくもあり、心休まる時間でもあると。そもそも家で誰かとこれほど穏やかな時を過ごすことも数年振りで、なんだかくすぐったい気持ちにもなった。けれど、悪くない。
 部下がやたらと結婚を勧めてくる理由が分かったような気がする。風見は味噌汁を啜りながら心の中で呟いた。


 食事を終えた二人はキッチンに並んで立っていた。さすがに洗い物くらいはやらせてくれ、と風見が申し出たからである。食器用洗剤で洗った食器を受け取り、水で洗い流して水切りラックへと置くのが役割だ。
 その流れ作業の途中、名前が泡のついた手のまま横髪を退けようとするのに気付いた風見は手首を掴んで止めた。それから布巾で自分の手を拭ってから、代わりに髪を耳へとかけてやる。すると指先が輪郭を撫でるように触れてしまいドキリとした。再び邪な気持ちが顔を出すがこれをなんとか押し返し、洗い物に専念する。
 使用した食器もそれほど多くはなく、二人で作業していた分そこまで時間をかけることなく洗い物は終了した。付着した泡を洗い流して手を拭った名前がリビングへ戻ろうとする風見の腕を掴んだ。そのまま腕を引き、振り向かせると、挑発的な笑みを浮かべてみせた。

「な、なんだ?」
「もう、待たなくてもいいけど」
「え…………なっ!?」

 言葉の意味を時間差で理解した風見はサッと頬を染めた。その反応に追い打ちをかけるようにして、食後の運動でもするか、と畳みかけくる名前に思わず顔を手で覆う。なんという誘い方か。なんという非番日か。一体誰がこんな休日になると想像しただろうか。今日は朝から予想外のことばかりだ。
 先程までの穏やかな時間とは打って変わり二人の間には甘い空気が漂い始める。結局のところ風見は年下の恋人の誘惑には勝てないのであった。