突然この世界に来てからもう数年が経った。仕事は相変わらず遊郭街にある店の用心棒兼雑用だ。すっかりこの島にも馴染んでしまい愛着も湧いてきた。けれど俺は幸せが長くは続かないことを知っている。これは呪いだ。多分、お前には幸福になる権利さえないという宿命を持って生まれてしまったのだろう。元の世界でも、この世界でも、望みを持って生きてはいけない。
轟く砲弾の音と悲鳴が入り混じった観光地は混乱を極めていた。比較的港よりも島の奥にある遊郭街から見下ろした夜の中央街は炎に包まれている。逃げ惑う人々を船から降りてきた海賊たちが襲っていく。逃げ場なんてなかった。港へ行ってもまともに動く船はもう一つも残されていない。諦めが心に生まれた時、悲鳴の中に子供の泣き声が聞こえて奥歯を噛んだ。あの子は無事なのかと思ってしまった。
「どこへ行くんだい!」
後ろから腕を引かれ振り返ると店の女将が立っていた。その後ろには顔を真っ青にした姐さん方。そこでようやく自分が中央街へと向かおうとしていることに気付く。ダメなんだ。記憶の奥であの子が泣いている。俺が傍に居てやらないと泣き止まないんだ。だから行かなきゃいけない。
「女将さんたちは隠れられる森へ逃げろ。運が良ければ助かる」
「ッ馬鹿なことは考えないことだよ」
「……もう遅い」
自分でも馬鹿なことだと解っている。そう微笑むと腕を掴んでいる女将の手が躊躇うように離れていった。この世界に来て、何も知らない俺を拾ってくれた恩人。その恩を返せないまま、二度と振り返ることなく走り出した。
空気が熱い。火の手はいろんな場所から上がっていた。瓦礫の下敷きになった人。それを助けようとする人。動けずただ泣いて命を乞う人。それら全てから目を反らし向かう場所はただ一つだけ。小さな店だ。慎ましいけれど綺麗な花がいつも咲き誇っている温かな店。しかし、足を止めた俺の目の前に広がっていたのは建物の残骸だった。花は燃え、破裂した水道管から漏れる水が当たり一面に広がっている。
「おかーさん!」
あの子の声がした。悲鳴に似た叫び声に考えるよりも先に体が動く。崩れた建物の瓦礫を超え、燃え盛る炎を抜けた先、そこにいたのは小さな女の子と銃口を向ける一人の海賊。あの日と同じように妹の姿が重なった。守らなければ。脳裏に浮かんだのはその言葉のみだった。
鉄板に肉を乗せた時のような音が手元から聞こえる。けれどそれを無視して握った鉄骨の破片を海賊へと振り下ろした。どこぞの海軍大将並みにでかい男だ。リーチのある得物ではないがこれだけ巨漢ならばどこかには当たるだろう。しかし男はこちらの動きを見切っているかのように容易く避けた。距離を置いた男を睨みつけながらボロボロと泣いている女の子の前に立つ。少女の傍らには地に伏せっている母親の姿があった。脳の奥が冷え切っていくのが解る。
「この子に手を出すな」
「ゼハハハ! お前のそれは勇敢とは言えねェな」
「んなことは解ってる」
「馬鹿なヤローだ」
そうだ。誰が見ても無謀だと言うだろう。自分でもそう思うのだから救いようがない。本能で判ってしまう。この男には勝てないと。肌に刺さるような空気がこれまで出会ったゴロツキ共とは一線を画していた。けれど、それがこの子を守らない理由には決してならない。
「だがそういう奴ァ嫌いじゃねェ!」
一歩も引くことは許されなかった。ここを退いてしまったらあの子を守れない。ピストルの弾が肩を貫こうが、重い打撃を体に受けようが、膝を着くことはできない。握った得物で戦ってみるが男は痛みに声をあげるものの全く怯む様子をみせなかった。まともな武器も持ち合わせていないこちらの攻撃など虫がまとわりついた程度なのだろう。どれだけ平穏な島で暮らせていたのかがよく解った。この世界では強くなければ生きていけない。それこそ化け物染みた強さでないと大切なものを失ってしまう。
片手で首を握られ体が地面から浮いた。ギリギリと締め付けられる気道に顔を歪める。ニヤついた表情で顔を近づけてきた男が何かに気付いたようでより一層笑みを濃くした。
「あぁそうか。そうだったな。ここはアイツが────サッチが気に入ってた島だ」
久しく聞いていなかったその名前にドクリと鼓動が強く打たれた。目を見開いて動きを止めると、男は笑いながらなんの前触れもなく首を掴んでいた手を離す。地面に落ちた痛みに顔を顰めながら急激に吸い込んだ空気に喉を抑えて咳き込んだ。するとこちらを覗き込むようにして男が身を屈めた。
「見逃してやってもいい」
「ッ……は、ァ?」
「仕方なく殺しちまったが、あいつはおれの親友だった男だ」
全身が心臓になってしまったのではないかと思うほど脈を打つ音が煩かった。咳が止まったのは呼吸を忘れたからだ。記憶の底に閉じ込めていたあの日の思い出がまるで走馬灯のように浮かんでは消えていく。もう二度と見ることのできない、美味い料理を食べては幸せそうに笑う顔が、目の前の男によって引き裂かれた。
そうして記憶の海に沈んでいくように現実から目を反らし始めた俺を引き戻したのは、小さな震える手だった。そうだ。俺は、この子を助けないと。
「おにいちゃん……!」
「ッ、大丈夫だ。俺が守るから」
男の視界から女の子を隠すように背を向けて小さな体を抱きしめる。きっとこの子の母親も同じことをしたはずだ。俺と同じように必死に守ろうとして、命を奪われた。
「ゼハハハ! いいだろう。あの世にいるサッチに感謝するんだなァ」
笑いながらそう言って男は去っていった。どこかで悲鳴が上がる。また一人、誰かが海賊に命を遊ばれた。
この世界はなんて残酷なんだろうか。強いものが生き残り、弱いものは淘汰される。残酷でいて、ひどく判り易い。なんて世界に来てしまったんだと笑いたいのに、少しずつ意識が薄れていく。それでも震える両手で懸命にしがみ付いてくるこの子を安心させようと小さな背中を優しく撫でた。