穏やかで平和だった島を襲われたあの日、最後に残った記憶は誰かに助けを求めたこと。この世界で価値のない俺のではなく、傍らで泣いている少女の命を救いたいと手を伸ばし、どこの誰とも判らない奴に危険も顧みずに縋った。その時の判断を後悔していないと言えば嘘になる。気持ちが曖昧なのはあの子が無事なのか、生きているのか、それすらもはっきりしないまま日々が過ぎていくからだ。
部屋中に広がる甘すぎる香りにはまだ慣れず、この国の意向に反するように飲み込んだ紅茶にはミルクも砂糖も入れてはいない。
「そう不貞腐れた顔をするな。優雅な午後のティータイムが興醒めしちゃうぜ」
「なら一人でやってろよ。俺には別に三時のおやつなんて必要ねぇんだから」
「くくく……ここで私にそんな口が利けるのはお前とママくらいなものだ」
眼どころか頭が痛くなりそうなほどサイケデリックな色合いの服装を身に纏い、長い舌を出したまま器用に洒落たカップから紅茶を飲むのは、あの日俺と少女を救った恩人だ。とはいえ脅されて、こき使われて、不遜が行き過ぎれば息の根を止めてこようとする。そんな相手を恩人と称していいのかは正直悩みどころではある。選択肢がなかったとはいえ、なんでこの男に縋ってしまったのだろうか。
行儀悪くテーブルに肘をつき、見上げていた視線を逸らす。ティーセットを乗せたワゴンの上では、ティーポットとフォークのホーミーズたちがご機嫌にお喋りをしていた。まるで不思議の国のアリスのような光景だが、人間とは恐ろしいもので数日もすれば見慣れてしまう。
頬杖をついて退屈しのぎにそれを眺めていると、視界の上からスッとガラス瓶が現れた。
「ペロリン♪ 生意気な子にはこれをやろう」
「またこれかよ。食えねぇのになんで作るんだ」
「ドロップスはいろんな味があるから楽しみがあるのさ」
「俺は薄荷しか楽しんでないけどな」
仕方なく受け取った瓶──に見えるが実はこれも飴でできている──の中にはいくつものドロップが入っている。けれど同じ色の同じ味ばかりしか残っていない。悪魔の実の能力からキャンディ大臣の役職についているこの男だが、どうも薄荷味の飴が嫌いらしい。さすがに自分で作った菓子を粗末にすることはないようで、こうして事あるごとに餌付けという名の処理をさせられている。別にミント系は嫌いではないから困らないが、そろそろ飽きてくる頃合いだ。
「おやおや他のフレーバーをご所望か」
所作良くカップをソーサーに置いた細い指に首を撫でられた。厳密に言えば喉元に着いている首輪を、だ。たとえ他人の自由を奪う枷であっても妥協を許さない完璧主義のこの男は、つけ直す度に細部まで装飾の模様を変えている。その出来を確かめるようにマニキュアがムラなく塗られた指がゆっくりと撫でていった。
「なら……それらしく頼まねェとだろ?」
顔を見なくてもニヤニヤと口角を上げているのだろうと容易に想像できる程の上機嫌な声。それを向けられるのは弟妹たちか、ビッグ・マム海賊団に反抗した哀れな犠牲者だけ。こいつの優しさと非道さが紙一重だと知ったのは、与えられたチャンスを無下にしたばっかりに全身をキャンディで固められた海賊を目の当たりにしたからだ。自由を奪い、時間をかけて死に至らしめる行為を男はひどく楽しんでいた。
この手を払い除ければ間違いなく首に巻き付く飴が呼吸を奪いに来るだろう。命までは取らず、ギリギリのところまで締め付け、苦しむ姿を見てようやくこの男は満足する。この身で何度もそれを経験してしまえば大人しく受け入れるしかなかった。
でも自分の意思まで捧げたわけじゃない。
「……いらねぇ。甘いもんはもう充分だ」
瓶を傾けて薄荷味のドロップを一つ掌に転がしそのまま口に放り込んだ。テーブルに並んでいる甘ったるいお菓子とは違う、爽やかな甘みを舌が感じ取って少しだけ気分がすっきりとした。
俺の答えに満足したのか、それとも呆れたのかは判らないが喉元が窮屈になることはなかった。男の手が離れていくのを視界の端で捉えながら飴を転がす。拾われてから随分と経ち、俺はこいつが薄荷味の飴が嫌いなことを知ったが、この男は未だに俺が紅茶よりもコーヒー派なことを知らない。
「あの子は元気なのか」
「あぁ。今日も島の子供たちと一緒に甘いキャンディを頬張っていたぜ」
「なら、いい」
海賊に命を握られているのは心地の良いものではない。誰かに縛られるのを嫌いずっと何かに執着するのを避けてきた。ここでの生活はとても生き苦しい。自由があるように見えてそんなものはどこにもない。だからといってここから逃げられるわけでもなかった。
少女が無事に生きていることを願って、信用も信頼もない海賊を信じて、今日もこの世界で生かされていくしかない。