違和感、というよりもそれは異変に近いものだった。
まず朝のことだ。カーテンのない小窓から差し込む太陽の光で目覚め、部屋に併設された洗面所で顔を洗い、軽い朝食をとった。ここまでは普段通り。
その後、たまたま窓から顔を覗かせていたニュースクーから新聞を受け取り、そのままペロスペローに届けようと部屋を出た。一応言っておくがこれは俺の仕事ではない。頼まれたからそうしているわけではなく、どうせ後々自分も読ませてもらうのだから気付いた時くらいは代わりに買ってやってもいいだろうという親切心だ。新聞を読むなんて習慣がなければ鳥にただ餌付けをして終わるのだが、社会勉強のためにと海軍の男に勧められたあの日からは日課となってしまった。
そんな気まぐれが発生したけれど、これも特にいつもと変わらない日常の一部だ。問題は届けた新聞を受け取ったペロスペローの反応にあった。
「気が利くじゃないか」
他人様の首に洒落た拘束具を着けるようなイカれた男の口から純粋な感嘆の言葉が出るとはよもや思うまい。普段ならば少し傲慢な態度で当たり前のように受け取ってそれで終わりなのに、だ。この時の俺はさぞ間抜けな面をしていたに違いない。さっそく新聞を広げて視線を落としてしまった男にもし目撃でもされていたら鼻で笑われるか執拗に揶揄われていただろう。思わず、まさか雨でも降るんじゃないかと好天に恵まれた空を窓から見上げながら呟いてしまったのは決して失礼なことではない。
俺がビッグ・マム海賊団で主に担っている役割は簡単に言ってしまえばペロスペローの補佐だ。大人数の兄弟の長男として、そして欲望の赴くままに生きる母親に代わり家族をまとめる重鎮として、この男の元には様々な海賊団の情報や機密性の高い文書が集まってくる。要領がよく器用に物事の対処はできる奴でも、まさに猫の手も借りたい状況になる日も少なくはない。そんな時に専ら使い走りにされるのが俺だ。補佐というよりはむしろ雑用係に近いのかもしれない。
さて話を戻すとこれだけならまだ今日は気分が良いんだな、くらいで済んだ。疑問が確信に、そして悪夢と錯覚するにはたった一日あれば充分なのだと思い知らされた。
「先行した船からの連絡通りに航路の指示出しといた」
「そうか。よくやった」
「……は?」
遠征に向かう船の上で頼まれた用件を済ませて戻ってくれば軽いお褒めの言葉を貰った。嫌味で聞いたことはあれど含みを持たせない声音で告げられたのは今の今までない。寒気が走るほど背筋がゾッとしてしまったのは気のせいではないはずだ。なんだ航海中に激しい嵐にでも見舞われるのかと身構えてしまう俺にペロスペローは小さく首を傾げた。いや困惑しているのはこっちのほうだ。そう言いかけた言葉は我慢して溜め息として吐き出した。
運が良いのか悪いのか嵐は来なかったが、海賊と一戦交えることになってしまった。四皇ビッグ・マムの船と知りながら喧嘩を売るとは馬鹿な連中だ、と呟いてキャンディケインをひと舐めした男が意味ありげにこちらを振り返る。戦闘員として一仕事しろというわけだ。雑用から荒事まで熟せるよう無駄に鍛えられたおかげでついに最近では武装色の覇気まで使えるようになってしまった。強くなるのは構わないがこの世界に染まっていくのはできるだけ避けたい。まぁそれも悪魔の実を口にしてしまった時点でもう遅いのかもしれないが。
どこの誰だか名前も知らない海賊たちを相手にするのはビッグ・マム海賊団の一員だからという理由ではなく、一応は命を拾われた恩と、一緒に保護されたであろう少女の安全のためだ。
「イイ子だ」
だから自分の行いはこの男に褒められるようなことでは決してない。むしろ必要とすらしていないのだ。なのに海賊たちを伸して金品を運び出すチェス戎兵を背に船へ戻れば、今度はまるで子供を相手にするように頭を撫でられてしまう。驚きと不気味な恐ろしさから払い退けることすらできなかった。これまではさもそうすることが当然の働きだろうと見下してきたというのに昨日の今日で一体どんな心境の変化が起こったというのか。
眉を寄せて怪訝な瞳を向ければ男は喉を鳴らして笑った。
「今日はお前の好きなスイーツを食べよう。何が食べたいんだ?」
「え? いや……はぁ?」
「なんでも構わない。好きなものをパティシエにリクエストするといい」
挙句に三時のおやつを任されるなんて最早これは事件だ。ことスイーツに対しては妥協しない連中の長男様が他人に委ねるなんて初めてのことで言葉を失ってしまう。そんな俺のことなど気にも留めずご機嫌にキャンディケインをくるりと回して船内へと歩き出した背中を唖然としながら見送った。
全く調子が狂う。変なものでも食べたのか。間違ってハッカキャンディを口にしてしまったとか。逆に甘いものを摂取できていなくて頭が回っていない可能性も捨てきれない。いっそブリュレの能力で中身は別の誰かと言われたほうが納得するレベルだ。
そんなことをぐるぐると頭の中で考えながら船内の一室にあるティーテーブルのイスに腰掛け、行儀悪く片肘をついた。そしてパティシエにリクエストして作ってもらったホイップクリームとバニラアイスの添えられたコーヒーゼリーをスプーンで掬い口へと運ぶ。相変わらず砂糖たっぷりで胸焼けしそうだが、むしろ今はこの甘すぎるスイーツに安心感さえ抱いてしまう。この悩みの原因ともなっている男は対面に座り、優雅に熱い紅茶を長い舌にも関わらず器用に飲んでいた。
「どうした? お前が食べたいと言ったコーヒーゼリーだ。もっと上品に味わってもいいんじゃないか」
「これは旨いよ。別に文句はねぇ」
ビッグ・マム海賊団が囲っているパティシエが不味いものを作るわけがない。その信頼だけは一番ある。そう意味を込めて返せば、ならばなぜ辛気臭い顔をしているんだとでも言いたげな目がこちらを見つめてくる。その視線から逃れるように伏し目がちにテーブルに置かれたティーセットを見下ろし、スプーンに付いたクリームを舐めた。
「なんかさ、疲れてる?」
「むしろお前の方が疲れているようにも見えるが……まぁいい。なぜ私の心配をする?」
「いつもと違って気色悪い」
「ほう……」
するとペロスペローはカップをソーサーに置いて目を細め、やれやれといった様子で額に手を寄せた。
「優しくしてやれと言われて甘くしてやったが、まさか頭がおかしくなったと思われていたとは傷付いちゃうぜ」
芝居がかった動作に呆れた目線を向けながら、この男にそんなアドバイスをするのはどこの物好きなんだと考える。数多い兄弟の中でも珍しく正義感の強いモスカートか。いや、あの性格だからこそ不要な接触は避けてきた。その可能性は低い。なら気立ての良いプリンか。しかしこんなことをしても彼女にとってメリットはない。ならば、と導き出された答えはただ一人だ。人情があれば見返りなしに他人へ優しくできる人物はこの海賊団の中でも彼女くらいだろう。
「シフォンか……」
「ほう、お前にしては察しが悪い。いや、それもそうか……私も意外に思ったからな」
「誰なんだよ、そんな物好きなこと言ったの」
「カタクリだ」
候補にも挙がらなかったまさかの人物に意表を突かれ口に含んだコーヒーゼリーが気管に入ってしまい大きく咳き込む。まだ関わりの多いモンドールやガキっぽさの残るクラッカーなら悪戯心でするだろうと頷けたのに、なんでよりにもよってあの男が優しくしろだなんてペロスペローに言うんだ。
息苦しさで生理的に浮かんだ涙を指で拭っていると探るような瞳がこちらに向けられていることに気付く。
「いつからそんなに親しくなった?」
「なってねぇよ」
「なんの理由もなくカタクリがお前に優しくしろなんて言うわけがねェ。あいつは人一倍警戒心の強い男だ」
「むしろ俺が聞きたいくらいだっての」
なにを隠そうあの男が俺を殺そうとしたのなんてつい先日のことだ。クレームを入れられるならまだしも──むしろクレームを言いたいのは俺のほうだが──待遇を心配される謂れはない。まさかこれがあの男なりの嫌がらせとでもいうのだろうか。そう考えると眉間にシワが寄っていくのが自分でも分かって思わず舌打ちを漏らす。
そんな態度を非難することなくペロスペローはまだ手の付けられていないコーヒーゼリーをスプーンで掬うと、自分にではなくなぜかこちらへと寄せてきた。
「まぁいい。可愛い弟のお願いは叶えてやりたいのさ」
「せめてガキにやるような褒め方はやめてくれ」
「私からすればお前も十分ガキだぜ、ペロリン♪」
そりゃ親子程に歳が離れていれば子供扱いになるのも仕方ないのだろうが、違うだろう俺たちは。そんな親しみのある関係ではないし、この首に望まない飴細工の枷がある以上は俺がそれを求めることもない。ペロスペローあんたも解っているはずだろう、と声には出さず瞳で訴えてから唇に触れそうな距離まで寄せられたスプーンに口を開いた。
この後も新しい遊びを楽しむかのように事あるごとに褒められてげんなりした気分で迎えた夜、添い寝でもしてやろうかと言われた時にはさすがに全力で拒否をした。頼むから悪夢は夢の中だけに留めておいて欲しい。