外れた枷


 斯くして麦わらの一味の海賊船で待ち受けていたのは予想していた通り船の持ち主たちではなかった。手荒で手厚い歓迎をしてくれたのはシャーロット家の御長男様と最強と称される次男である。おそらく鏡世界の中には他の兄弟たちも何人かはいるのだろうが追撃部隊の最前線に立ったのはこの二人。確かな戦力と足止めに適した能力を考えれば適切な配置だ。
 そして俺がどうして裏切ったのかを知らない人と察していて黙っている人でもある。運が良いとも悪いとも言えない状況だが、もちろん贅沢は言わない。どちらが本当の意味で俺に自由を与えてくれるのだろうか。

「おれはお前を甘く見ていたか? それとも想像以上にバカな野郎だっただけか?」

 チェス戎兵たちと麦わらの一味の二人が戦っている傍らでペロスペローに首を掴まれ持ち上げられる。足が船板から離れ、容赦なく喉の気道が締め付けられた。外面は平静を装っているがいつものように首元を飾る飴細工を利用しないあたり、内心はかなり苛立っているようだ。

「おいたが過ぎるんだよ。麦わらたちに感化されたわけじゃねぇだろ? 困っちまうよ、躾が行き届いてないと叱られるのはおれなんだ」

 立てられた爪が皮膚を突き破り血が首筋を這うように流れていくのを微かに感じる。このまま怒りに任せてひと思いに握り潰してくれたらいい。呼吸だけでなく、思考も、希望も、全部苦しみとともに夢物語の結末へと導いてくれたらいい。ペロスペロー、お前は一度として俺に与えてはくれなかった。ならば最期くらいは望むものを貰ってもいいと思わないか。
 けれど細やかなその願いも虚しく痕が残りそうな程に握られていた首が呆気なく解放された。崩れるように船板に手を着いて、本能で勢いよく肺に送られる酸素に激しく咳き込んだ。

「お前へのお仕置きは麦わらたちを片付けてからにしよう」

 生理的に浮かんだ涙でぼやけた視界に色鮮やかな黄色が揺れる。飴のように随分と甘い男だ。いや、その逆か。浅はかな考えをしていたのは俺だ。愚かにも期待を抱いてしまっていたのかもしれない。
 やたらと数の多いチェス戎兵たちを相手に奮闘するトナカイたちへと歩き出すペロスペローの背を、待て、と絞り出すように呼び留めた。

「一つ、聞かせてくれ」
「なんだ?」
「どうして……俺だけを助けた」

 平和だった島が海賊に襲われたあの日、惨憺たる状況の中で見逃された命は二つ。瀕死の男に利用価値を見出すくらいなら、力のない少女の命の方がこの男の母親にとっては価値があるだろうに。なのにここにいるのは俺一人だ。それとも既に幼く儚い魂は捧げられてしまったのか。何も解らない。護ることさえできなかった俺には知る権利すらないというか。
 悔しさと情けなさに俯き奥歯を噛み締めれば、こちらに引き返してくるブーツの足音が耳に届いた。視線を合わせるように膝を曲げた男の細長い指に顎を掴まれ、無理矢理に顔を上げさせられる。涙の引いた瞳に映ったのは目元を細め口角を吊り上げるペロスペローの心底愉しそうな表情だった。

「ペロリンペロリン♪ ただの気まぐれ。退屈しないオモチャが欲しかっただけさ」

 こちらを見下ろす男の言葉に嘘はない。だが明らかに答えははぐらかされた。
 道化のような見た目をしていても四皇に名を連ねるビッグ・マムの長男だ。こうして反抗されるのが煩わしいのなら少女を生かしておいたほうが利用できて得だったと愚痴の一つでも零すだろう。何を隠している。奪ってしまったのなら言えばいい。ここに少女がいないと知られた時点で今更事実を伏せて何の意味がある。俺が知ったらお前にとって不都合なことがあるのか。まさか自暴自棄になって死なれたら困るなんて情を持ち合わせているわけじゃないだろう。
 言いたいことは山ほどあったがこれ以上の口答えは許さないとばかりに顎の輪郭を辿るように指先で撫でられた。

「さぁ、いい子で待っていろ」

 そうして穏やかな声音とは裏腹に乱暴に肩を押されて後ろへと倒れ込んだ。背後には船首楼甲板から上甲板へと続く階段があり、受け身の取り難い中途半端な体勢に顔を顰めて痛みに備える。けれども予想外なことに衝撃はなく重力に従って傾いた体はがっしりとした壁に支えられた。振り向かずともドーナツの甘い匂いや気配だけで誰がそこにいるのか判ってしまう。

「馬鹿なことをしたって言うんだろ」
「ふっ……未来でも視えたか」
「視る必要なんかねぇだろ。あんたならそう言う」

 俺の体を支えるように肩に手を置いたのはカタクリだ。別に意外な行動ではない。もちろん気を遣ってのことでも。これはわざわざ助けたのではなく捕らえておくためだ。この男にはいつだって慎重を期す冷静さがあった。促されるようにして船の帆柱に備え付けられているベンチに腰を下ろす。

「なぜ馬鹿なことをした」
「聞くなよ。解ってんだろ」
「……憐れだな、お前は」

 同様にカタクリも隣に座って寛ぐように足を組んだ。どうやらトナカイたちの相手は全てペロスペローに任せるつもりらしい。それとも必要のない監視をしながら尋問でもしようというのか。最初から逃げるつもりがないことなど見抜いているくせに。こうなってしまってもおかしくはないと気付いていたくせに。言わせるつもりか、俺に。現実を突き付けた、お前が。
 もしも、見聞色の覇気に長けたこの男がこうなる未来を視ていたとしたら、果たして俺を止めただろうか。

「当然だ」
「即答かよ……つーか、聞く前に答えるんじゃねーよ」

 カタクリはペロスペローが統轄するキャンディ島に、四皇の一人が支配する万国に、少女がいないと知ってしまった俺を知っている。ビッグ・マム海賊団にいる目的がなくなってしまったことを知っている。その上で返された答えはなんと残酷なものか。やはり麦わらたちがおかしいだけで海賊なんてものは優しさの欠片もない連中だ。
 思わず漏らした乾いた笑いに、隣に座っている男が眉を顰めたような気配がした。

「愚行を働く前に止めて、考えを改めさせただろうな」
「いつから親切野郎になったんだ」
「お前のためじゃない。ペロス兄のためだ。随分とお前を気に入っている」

 きっとそれは人としてではない。本人が言うようにオモチャとかペットの感覚だろう。それでいい。余計な情など向けられてもドロドロとした嫌悪感しか抱けない。少女を奪った怒りしか返せない。けれどそれ以上に、虚しさが溢れて全てを諦めたように瞼を閉じてしまいそうになる。
 出会わなければよかった。サッチにも、少女にも、ペロスペローにも。関わらなければ喪失感で、孤独で、執着で、こんなにも卑屈になることはなかった。知らなければ、爆風の熱でドロリと溶けた喉を締め付けている飴にも、ようやく外れた枷にも、訪れた自由にも、素直に喜ぶことができただろうに。


 そうしてずるずると何かを引きずるようにして俺は麦わらの一味とともにビッグ・マム海賊団から逃げている。お節介なトナカイのせいで戦うことは許されず抵抗する暇もないままに船室に押し込まれた。外の喧騒をまるで他人事のように聞きながら壁に背を預けて座り込む。船にある鏡は全て割られ、海の上では逃げる道もない。
 ならばいっそ、と飴細工の首輪がなくなった首元を撫でた。このまま逃げてしまえばいい。逃げた先でペロスペローを迎えればいい。その頃にはもうペットを愛でる気持ちなど冷めきっているはずだ。飼い狗に手を噛まれて罰も与えず許すような寛容な男ではない。海賊としての落とし前だってつけなければ気が済まないだろう。

「あぁ、俺は狗らしくご褒美をくれるのを待つよ」

 後頭部を壁に押し付けて見慣れぬ天井を見上げた。馬鹿げた選択をしていると理解している。正気じゃないことくらい自覚している。自分らしくないと頬を殴って笑ってしまいたくなる。俺はこんな自分が嫌いなのに、憧れたあの人のように強くなりたいのに、世界がそれを許してはくれない。だから終わりにしたいと願うのは仕方のないことだと思わないか。