サカズキは戸惑う


 マリンフォードの居住区にある自宅へ帰ってきたのは数日振りであった。ほとんどが寝に帰るか、趣味の盆栽を剪定する時くらいにしか使用しない質素な家だ。けれども海軍の用意した大将に相応しい家というのは無駄に広く部屋も余っていた。そのうちの掃除もろくにしていなかった埃の溜まった客間だが、現在は怪我人と年端も行かない少女が身を寄せている。
 灯りのともった自宅に帰るという違和感に未だ馴染めないまま玄関を開けると、空腹を思い出させる香りが漂ってきた。基本的に自炊はせず本部の食堂か外食で済ませるサカズキにとってこの家で食事の匂いを嗅ぐのは新鮮なことだ。あの青年が料理を作っているのだろうか。意外なスキルを持っているものだと少しばかり感心してしまう。
 そうして玄関で立ち止まっていると台所の方から少女を呼ぶ声が聞こえた。これまで耳にしたことのない明るいトーンで返事をした少女が客間から出てきてサカズキの前に姿を現す。こちらに気付いて驚きに固まる子供を見下ろしながら口元を引き締めた。自宅に帰ってきたはずだが、なぜか他人の家に勝手に入ったような感覚だ。

「どうしたー……あぁ、帰ってたんだ。おかえり」

 玄関の敷居を跨げず、体を強張らせた少女と見つめ合ったままじっとしていると青年が顔を出した。さらりと出迎えの挨拶を口にした後、この状況を前に器用に方眉を上げて少し肩をすくめている。するとハッとしたように少女が急に動き出し、隠れるように台所からやってきた男の足にしがみ付いた。子供に好かれているとは思っていない。同期にもしょっちゅう顔が恐いと言われているが余計なお世話だ。怯えられるのはもう慣れていた。しかしこうも露骨な態度を取られてはいい気分ではない。

「腹減ってる? 一応あんたの分も飯作ってあるけど」
「……食う」

 こちらの心境を察しているのかどこか同情の込められた控えめな笑みを浮かべる青年から視線を外して自室へ向かった。
 少女がサカズキに慣れるまでには時間が必要であった。脱いだコートをラックに掛け、スーツから着流しに着替えながら自宅に彼らを招いてすぐの出来事を思い返す。一度だけ青年に迫ったのだ。やましい理由ではなく、あれは思い通りにならないもどかしさからだった。こちらが譲歩しているにも関わらず勝手に出ていこうとしたからだ。怪我人だということを忘れ乱暴に壁へと体を押し付けた。怒鳴り声も上げた。そんな体で何ができるのかと。弱くては何も守れないと。死んだらそこで終わりだとも言った。なぜそこまで怒りに震えるのかすら認識できないまま手放すくらいならと細い首に手をかけた時だ。

『おにいちゃんをいじめないで!』

 逃げたい気持ちを我慢しながら泣いて懇願する少女に冷静さを取り戻した。壁に背を預けながら座り込む青年を背景に己の手を見下ろす。正義を貫くはずのこの手はなにをしようとした。怒りでかき消された焦燥はなんだ。そう自問していると涙を流す少女を慰めるように大丈夫だと優しく囁く声が何度も聞こえる。渦巻く理解できない感情を抑え込むようにしてサカズキは拳を握りしめた。

『頑固もんが……!』
『お互いにな。けど、あんたが俺たちを心配してくれてるのはよく解った。だから怪我が治るまでは、ここにいる』
『……最初っからそう言うちょろうが。強情も大概にせぇよ』
『ハッ……あんたがそれ言うのかよ』

 そうしてようやく双方納得する形で収まった。けれども子供にはすぐにそれを理解することはできない。少女にとってはサカズキは唯一の味方を虐めた悪者なのだ。正義を背負い悪を根絶やしにしようという男が憎き悪と思わるとは笑いものである。
 着替えを済ませ居間に腰を落ち着かせていると台所から二人の会話が時折漏れて聞こえてきた。やはり奇妙な感覚だ。自分だけの領域だと思っていた場所で誰かが生活をしている。気を紛らわせるように部屋を見渡すと前回帰ってきた時よりも掃除が行き届いていた。頑なに世話になりたいくないと言っていた青年なりの反抗か、それとも感謝の証か。どちらでも構わないが怪我人なのだから大人しくしていろと一言言ってやりたくなる。
 腕を組みしかめっ面を浮かべていると、おずおずとした態度で少女が顔を覗かせた。

「何をしちょる」
「っ……!」

 ただ覗くばかりで動こうとしない様子に声を掛けると肩を跳ねて顔を引っ込めてしまった。子供の扱いは苦手、というよりもよく解らない。優しさなんてものはとうの昔に捨ててしまったのだ。もし持ち合わせているとすればそれは慈悲だろう。
 少し間を置いて戸の隙間からまたこちらを覗き込んでくる。サカズキは今度は声をかけず、気付かないフリをして瞳を閉じることにした。すると恐る恐るといった様子で少女が居間へ入ってくる気配を感じる。次いで何かが置かれる軽い音。薄っすらと瞼を上げればテーブルには人数分の食器が並べられていた。

「あ、あの……っ!」

 両手で箸を握りしめた少女が意を決したようにこちらを見上げてくる。返事はせず顔を向けるだけに留めれば怖がるような反応はしなかった。

「……」
「……」
「お、おかえりなさい!」
「……おう」

 長い沈黙の後、緊張した声音で告げられた予想外の言葉に油断してそう返すのがやっとだった。少女は明らかに達成感に満足しており、顔の強張りもなくなりニコニコしながらテーブルに箸を並べると軽い足取りで居間を出ていく。残されたサカズキは再び瞼を閉じて小さく唸った。

「言えたよ、おにいちゃん!」
「偉いな。よく頑張った」

 部屋の外から聞こえてくる興奮したような子供と、自分に向けられたことのない慈愛に満ちた青年の声にそっと眉を顰める。嫌われたままならそれでよかった。好かれる理由もなければそれを望むことすらないからだ。やはり子供というのは理解できない。
 その後、料理を手にやってきた青年のニヤついた表情に腹を立てたが空腹のせいだと自分に言い聞かせ周囲の温度を僅かに上昇させる程度に留めた。