サカズキに生かされる


 悪夢からの目覚めは最悪だ。薬品の匂いも、堅い空気も、場所も、もう二度と見ないと思っていた無機質な天井は冷たくそこにあった。あの時と違うのは傍らにはあの子がいないこと。その代わり眼力だけで人を殺せそうなほど怖い表情をしたおっさんがこちらを見下ろして立っていた。

「死ぬつもりじゃったんか」
「あの人がそう言った?」
「……おどれを見りゃァ分かる」

 この男の眼はいつも真っ直ぐだ。裏表のない言葉通りの判り易い単純なもの。清々しいほど思ったことを馬鹿正直に伝えてくる。今だってその眼にこちらを気遣う色はない。あるのは軽蔑と憐みと、僅かばかりの同情。こんな男にも誰かに同情するような心があるのかと少し笑えば怪訝そうな表情を向けられた。
 視線を逸らし天井を見つめながらあの子の最期を思い出す。一番近くにいたのに救えなかった。手を伸ばせば届く距離にいたのにその時間すら与えられなかった。だからせめて約束だけは守りたい。一方的で独り善がりな約束を。

「あの子の傍にいてやらないと」

 視界の端で大きな拳が力強く握られたのが見えた。怒りに空気が震えている。

「なら、わしが殺しちゃる」

 そう言えば命を粗末にするなら始末してやる、なんてことを言われたっけ。嘘も冗談も言わない男だ。きっと俺の望んでいる結果を与えてくれるだろう。握られた拳が包帯の巻かれた胸の上に置かれ、じわりじわりと熱が集まっていく。男が宿す実の能力を実際に目にしたことはない。でも解る。このまま能力を使えば簡単にこの心臓は焼き尽くされるだろうことが。恐怖はなかった。あの子のことを想えば苦痛だって感じない。
 胸が焼けそうなほど熱い、その熱せられた拳を受け入れるようにして瞼を閉じた。すると苛立たし気な大きな舌打ちが耳に届いて、スッと胸元から重みが消える。途端に口元が緩く弧を描いた。

「なんだよ……期待、させんな」
「おどれの思い通りになどせんわ」

 その言葉にもまた嘘の色はない。胸元に手をやればまだそこには熱が残っている。きっと包帯の下の皮膚は赤くなってしまっているだろうか。ひどい男だ。一思いに楽にさせる力があって、正しい選択をできる判断力があって、誰にも曲げることができない意思があるのに、それが俺を生かした。死ぬことを許してはくれなかった。こんな時にまで他人に厳しいとはどこまで律儀が男なのか。

「じゃあ俺は、どうすればいい。あの子がいない世界なら、生きていたって意味がねぇ……」

 目元を覆い隠すように傷だらけの両腕を顔に被せた。
 ここは俺の生まれた世界じゃない。ここは俺が生きるべき世界じゃない。たった一人の家族にすらもう会えない。この世界も悪くないと考えることができたあいつも、もういない。俺の手元には何も残されてはいなかった。生きる目的も意義も、全てだ。何もかも全部失った。

「おどれは弱い」

 それは以前、男の元から去る時にも聞いたのと同じセリフだった。改めて言われずともそんなことは自分が一番よく理解できている。

「弱いから大事なもん一つも守れんで海賊どもに奪われる」
「……うるせぇ」
「結局、おどれにはあの子供を守り抜く力も覚悟もなかっただけのことじゃけぇ」
「ッ……」

 まるで嘲笑するような物言いにスッと体の芯が冷えていった。あの子の命を奪った海賊たちの笑い声が聞こえ、脳裏に卑しい顔が蘇ってくる。汚らしい手が女の子に伸ばされていく。触るな。奪うな。ここに居もしないそれらをかき消すようにして勢いよく上体を起こした。そして傍らに立つ男を見上げ、睨みつける。こちらを射抜く眼は何度もお前は弱いと言い聞かせてきた。

「あんたに言われなくたって、解ってんだよ──ッ」

 急に大きく動いたせいで腹部の傷口が開いてしまったのか、じわりと体から液体が溢れる感覚がした。鈍痛がつま先まで伝わっていき痛みに顔を歪めるが男から目を逸らすことはしない。
 そうだ。俺が弱いからあの子は死んだ。全部俺のエゴなんだよ。あの子のためとマリンフォードを離れたのも俺の我儘だ。なんの能力もなく、覚悟もなく、守れると思い上がった俺の傲慢さが殺した。だから何もかもを失ったんだ。自分が招いた結果にすぎない。元の世界へ戻れたら、これが全部夢だと笑って忘れられたのに。戻る方法も解らず、生きる意味も見つけられず、俺という存在は一体何のためにここにある。

「俺は……どうすればいい……」

 どうにか繋ぎとめていた一本の糸がぷつりと切れたような気がした。
 眉間に大きくシワを寄せて不快感を示しながら男の大きな手が顎を掴んでくる。ぐっと顔を持ち上げられ覗き込むようにして男は少し身を屈めた。

「いい瞳をしちょるのに勿体ないのォ……」

 静かにそう呟いたかと思えば、顎を掴んでいる手にそのまま頭を押され無理矢理ベッドに背中を預ける。男は軽く鼻を鳴らし両手をポケットに突っ込んで厳しい視線をこちらに寄越した。薄暗かった医務室はいつの間にか窓から入ってきた僅かな光でやんわりと輪郭を浮き上がらせている。もう夜明けだ。

「強うなれ。たわけが」

 言葉とは裏腹に、今度はその声音には人を見下すような嘲りはなかった。

「わしがおどれの根性叩き直しちゃる。強うなってクズ共に奪われんよう己を変えろ」

 帽子を深く被り直しコートを翻して歩き出す背中を目だけで追いかける。正義の二文字がよく似合う男だと場違いにもそう思ってしまった。けれど正義だけでは救えない命があることを知っているからこそ、安い言葉だと好きになれない。

「それでも死にたい言うんなら、そん時はわしが責任持って始末しちゃるけぇの。安心せェ」

 ドアの前で一度足を止めた男は振り返ることなくそう言い残すと医務室を出ていった。遠ざかる足音を聞きながら質素な天井を見上げ、ゆっくりと瞼を閉じる。
 強くなれと男は言うが、強くなってどうなる。なんのために。奪われるものはもう何もないというのに。今更だ。あの子はもういない。どこにも。そう、どこにもいないのに目を閉じれば微かに声が聞こえる。楽しそうな声。ちょっと拗ねたような声。泣きそうな声。俺を呼ぶ声がする。本当にあの子はもういないのか。
 助けを求める声が耳元で確かに聞こえた。