報告書をまとめている途中で視界に入った例のものに重い息を吐いた。
あれから一度として中を開いていないそれは、置物のように風見のデスクに放置されている。
「あれ? 風見さんまだ断ってなかったんですか?」
丁度後ろを通った部下が資料を片手に隣の席に座った。
「管理官が見当たらないんだ」
登庁してすぐに黒田の姿を探したが見当たらず、溜まった報告書の処理や自分が抱えている案件についての捜査などで手が空かず、ずるずると断れないままでいる。
「捜査会議が長引いてるみたいですよ」
「そうか」
こうしている間にも名前に余計な不安を与えていると思うと、自分の不甲斐なさに嫌気が差す。
無意識に吐いた溜め息に部下が心配そうに椅子を近付け、持っている資料で口元を覆いながら声を少し下げた。
「もしかして、彼女さんと喧嘩でもしました?」
「……そんなところだ」
”彼女”ではないけれど、どうやら風見は自分が思っている以上に気落ちしているようだ。
部下に気付かれるなんてことが降谷にでも知られたらまた説教をされることだろう。容易に想像できる。すみません降谷さん。
「まぁ恋人がお見合いの話を断らなければそりゃ彼女さんも怒りますよ」
その言葉にあの時の様子を思い出すが、やはり名前はいつもと変わらなかった。
それでも、最後に聞いたあの声は、不安を滲ませたあの声だけはいつもと違っていた。
「怒ってくれたらまだよかったんだがな」
自分はなにを期待していたんだろうか。
ふざけるなと、声を荒げて欲しかった?
ドラマや映画のように、泣きそうな顔で怒鳴って欲しかったのか?冗談だろう?彼はきっとそんなことはしない。
「え、まさか別れたんですか?」
「いや……別れては、いない」
「それはよかったです」
そう、まだ別れたわけじゃない。それが唯一の救いだ。
しかし彼のことだから、言葉にしなかっただけでもう見限られている可能性だってある。
それだけは、絶対に避けたい。
「彼女さんの作るお菓子すごく美味しいんで食べれなくなるのは残念ですからね」
「おい」
「冗談ですよ」
まさか心配している理由がそれなのか、と鋭い視線を送る風見に対して部下は笑顔でそれをはぐらかした。
近付けていた椅子を離し、持っていた資料をデスクに置いた部下は腕を組み顎に手を当てた。
「でも怒らなかったってことは、風見さんがこの話を断るって確信してるからですかね」
「それは……私には分からないな」
「彼女さん、年下ですか?」
「あぁ」
まだ18歳だ、なんて口が裂けても言えないな。
言ったが最後。部署内に広まるだろう。恋人の有無はこの際仕方がないが、年齢だけはバレないようにしなくては。
「今までもこういうことありました?」
「あった、な……あまり本音を言ってくれない子だから……」
「自分のことよりも、相手のことを優先しちゃうんじゃないですか」
「そうかもしれない……」
彼と出会ってからのことを思い返してみたが、いつもそうだったように思う。
言いたいことがあっても、それをすぐに吐露することはない。
名前は、静かに噛み締めて、我慢する。
「自己犠牲的な人なんですね」
その言葉に、納得してしまう自分がいて内心舌打ちをした。
まったく不器用な二人だ、降谷は呆れて苦笑した。
デスクに置かれた冊子を見るに、まだ問題は解決できてないらしい。
調査報告を終えた風見から資料を受け取り、さっと目を通す。
「聞き分けが良すぎる恋人ってのも苦労するな」
風見には、それがなんの話をしているのかすぐに理解できた。
失礼とは分かっていながらも、顔を顰めずにはいられなかった。
「彼と、話したんですね」
「あぁ」
その口ぶりから、自分には言わなかった彼の言葉を降谷は聞いたのだろうと察する。
「よく話し合ってないだろ」
「その、タイミングが合わなくて」
呆れた視線を向けられて、気まずげに目を伏せた部下の姿に息を吐く。
どうしてこう、うまくいかないものか。
「もたもたしてると彼は諦めるぞ、おまえのこと」
「え……」
「自分の我が儘で相手の人生潰せない、なんて18歳の恋人に言わせる台詞じゃないだろう」
むしろ逆だと思わないか。
彼はまだ未成年で、未来がある。だから風見が言うなら素直に納得できる言葉だ。
精神的に大人だなと思っていたが、彼ははっきり「嫌だ」と素直に口にした。
もしかしたら大人であろうとしているだけなのかもしれない。
「降谷さんには話すんですね」
自嘲気味なぎこちない笑みを浮かべた風見は、目の前の上司と目が合うとすぐにそれを逸らした。
「私には、言ってくれないんです」
なんて顔をしているんだおまえは。
風見が嫉妬するほど、名前から好かれてはいない。むしろ嫌われていると言ってもいい。
あの子は一途にもおまえしか見ていないんだよ。
「おまえだから言えないんだよ、彼は」
「どういう、意味ですか」
訳が分からないといった様子に苦笑を漏らす。
「大切な人を、本当に大事にしたいと思ってるのさ」
お互いがお互いを思い合っているというのに、なぜ本人達はそれに気付かないのか。
やはり、気持ちというのは言葉にしなければ相手に伝わらないものだな。
「私だって、苗字が大切です」
「そんなこと僕に言わずに彼に言え」
なぜ二人とも僕に言うんだ。惚気を聞くこっちの身にもなってみろ。
チェックした資料を返した降谷は、デスクに置かれた報告書を手にとって背を向けた。
「自分で蒔いた種だ。自分でどうにかしろ」
「っ、分かってます」
署を出た降谷は愛車に乗り込んで、助手席へと置いた報告書と密かに持ち去った冊子を見る。
「世話の焼ける部下を持つと大変だな」
口元に笑みを浮かべてアクセルを踏んだ。
リビングのソファに横になりぼうっと高い天井を見ていると、ポケットに入っている携帯が震えた。
長く続くそれに電話だと分かり気だるげな動作で手にとって画面を見れば、今はあまり関わりたくない人の名前が表示されていて躊躇する。
諦めるまで待とうか。
しかしなかなか切れない着信に、向かいのソファから視線が突き刺さる。
「もしもし」
あまり悟られたくなくて、いつもと同じ声音になるよう意識して電話に出た。
『よかった。出てくれないんじゃないかと思った』
「……携帯、近くになかったから」
咄嗟に吐いた嘘に、自分で自分を不快な気持ちにさせる。
『これから会えないか?』
電話越しに聞こえる声は少しだけ不安を滲ませていて、すぐに返事はできなかった。
今は無理だ。
まだ、気持ちが落ち着いてない。
「今日は……ずっとバイトだから」
『……そうか』
声だけでも分かるほど落胆している様子に胸が痛い。
今のままではいけないことは、理解している。
「明日の夜でいいなら、空いてるけど」
本当はなにも予定なんてないけれど、時間が欲しいだけだ。
『それで構わない。話があるから、うちに来てくれないか?』
「わかった」
相手が切るよりも先に通話を切って、詰まった息を吐き出した。
「今日のバイトはもう終わったはずだけど?」
向かいのソファから呆れた声が飛んでくる。
天井に向けていた視線を遮るように腕を乗せて目を閉じた。
「……いいんだよ」
「あなた昨日からずっとそうしてるけど、悩むくらいなら素直に言えばいいんじゃない」
「今考えをまとめてるとこ」
彼女の言葉は正しい。
頭では理解できているが、気持ちが追いついてこない。
こういう時どうすればいいかなんて、あの人は教えてくれなかった。
「ネガティブなことはいくら考えても無駄よ」
鋭い意見に開いた口を閉じる。
静かになった部屋に、カランと氷がぶつかる音が響いた。
「コーヒー飲む?」
「アイスティーがいいわ」
「了解」
上体を起こした名前に、哀は手元の雑誌から目を離さず声をかける。
「早く私にも紹介してよね。その風見って人」
「明日の成り行き次第だな」
「あら。それなら期待して待ってるわ」
肩をすくめてから立ち上がりキッチンへと向かったその後ろ姿を、哀は優しげに目元を細めて見つめた。
「あなたが選んだ人だもの、大丈夫よ」
そう小さく呟いて、哀は雑誌に視線を戻した。