そこは"偉大なる航路"のとある島。温暖な気候のその島にはいくつもの商船が停まっており、港町は活気に溢れ島民や商人そして観光客で賑わいを見せていた。
一方、薄暗く静かな裏路地を一人の男が風が通り抜けるように走っていく。入り組んだ細い路地を軽快な足取りで駆けてゆくと、僅かに届いていた太陽の光が遮られすぐさまバックステップに切り替える。すると先ほど男が次の一歩を踏み出そうとしていた場所に別の男が降ってきた。軽く足音を立てて着地したその男は手にしていたナイフを握り直し、軸足で地面を蹴り目の前の男へと詰め寄りながらナイフを振るう。ヒュッと鋭い音を立てながらナイフが空を切る。まるで遊んでいるかのように鋭利な刃を避ける男の口元には笑みが浮かんでいた。スキップをするようにバックステップをしていた男が強く地面を蹴り大きく後ろに飛んだ。一気に距離を空けられたが次に不敵な笑みを浮かべたのはナイフを握る男だった。攻撃を交わしていた男が着地したのは狭い路地を抜けた広い空間だったが高い建物に囲まれており逃げ場はないからだ。
だが男に焦った様子はなかった。
「いきなり襲いかかってくるなんてマナー的にどうかな?」
男が被っていたバケットハットの鍔をちょいっと指で摘んであげると、端正な顔がよく見えるようになった。目を細めて優しく微笑むその表情は何度か手配書で見た顔と同じだ。
「海賊相手にマナーなんか必要ねぇだろ」
「んー確かに。それもそうだね」
顎に手を当てて納得したように頷く男は今まで相手にしてきた粗暴な海賊達とは違い調子が狂う。
ナイフを持つ男──シュライヤが男を見つけたのはたまたまであった。賑わう町中で露店の主と談笑していた男が偶然視界に入り脳裏に一枚の手配書が思い浮かんだのだ。確か手配書に記載されていた懸賞金の額は一億に迫っていたはず。ある目的を成し遂げるために賞金稼ぎとして力をつけてきたシュライヤは、さらにその腕を磨くために手配書の男を海軍に突き出してやろうと露店からナイフを一本拝借し後を追いかけ今に至る。
「てめぇみたいな奴がなんでこんな所にいやがる」
「なんでと言われてもなぁ」
シュライヤがこの男について聞いていた一番新しい噂は"北の海”で海軍の船を沈めたようだというものだった。だがここの島は”北の海”とは程遠い海の上──。
「ま、予期せぬ大物を狩れるならこっちとしてはありがたいがな」
「あぁ、なんだ君は賞金稼ぎか。海軍かとおもっ──うわっ!」
軽い身のこなしで素早く懐に飛び込んできたシュライヤからの攻撃を紙一重で避けた男は数歩後ろに下がると背中が壁に着いた。驚いたように声を上げたものの余裕そうな表情は変わらないままなのが気に食わないと顔を顰める。
「危ないなぁ君。俺は暴力反対派だ」
男は態とらしく両手を挙げて降参のポーズをとるが気は緩んでいないのか隙がない。やりにくい相手だ。
「チッ……避けるんじゃねーよ」
「もっと穏便に物事を進めよう?」
「なら大人しく海軍に引き渡されろ」
「それは出来ない相談だね。うちの船長に怒られてしまう」
本気になっていない相手に対してムキになるのは労力の無駄だと思い構えを解いてナイフを弄ぶが、背後にある唯一の逃げ道は譲らない。少しの隙でも見せようものならすぐに張っ倒す気持ちはまだ残っている。だが一つだけシュライヤに疑問を植え付けた言葉があった。それはこれまで耳にしていた男の情報とは異なるものだった。
「船長? お前は独りもんの海賊って聞いてるぜ」
そう。シュライヤの知る限り男がどこかの海賊団に入っているという情報はない。手配書にも記載されていなかったはずだ。この男はたった一人で海軍の船を沈め混乱を招いている。だから懸賞金だって高い。
「まさか! 広大な海の一人旅ほど退屈なものはないよ。でもなんでか君のように勘違いしてる人が多いんだよなぁ」
挙げていた両手を下げて本気で悩んでいるかのように腕を組んで首を傾げる男の緊張感のなさに、厄介な奴を相手にしてしまったかもしれないと今更後悔する。
「あっ、もしかして単独行動が多いせいかな?」
「おれが知るかよっ!!」
袋の鼠状態の今の状況が分かっていないのか暢気な態度の男に思わず声は張り上げてツッコミを入れてしまったシュライヤは疲れたように息を吐いた。その時二人の耳に駆ける人の足音が届き、一瞬だけ空気が張り詰める。そして、それがシュライヤに僅かな隙を生んでしまった。
「そろそろ潮時だね」
「っ、おい!」
あっさりと自分の横を抜き細い路地に走っていく男を慌てて追いかける。曲がり角に差し掛かる手前で不意に振り返った男は遊び終えて満足した子供のような表情をシュライヤに向けた。
「縁があればまた会えるさ」
「くそっ、待ちやがれ!」
それだけ言い残すと男は曲がり角の向こうに走って行ってしまう。すぐさまシュライヤも後を追うが角を曲がった先には誰もおらずただひたすらに薄暗い細い道が続いているだけだった。上を見ても高い建物をジャンプして登るのにだって数秒の時間は必要なはずなのに人の気配すら感じない。
「あいつ、どこに行きやがった……」
少しばかり困惑した表情で誰もいない路地を見つめているとがっしりとした大きな手が肩に置かれた。振り向けば厳つい風貌の大男がシュライヤを睨みつけるように見下して立っていて、先ほど耳に届いた足音はこの大男のものだったようだ。
「おい兄ちゃん。店から勝手に持って行ったナイフ、返してもらおうか」
肩に置かれた手に力が込められ骨が軋むような痛みに眉を寄せるが、軽く息を吐いてから飄々とした表情を浮かべ持っていたナイフを手元で回転させ刃の部分を指で掴んだ。
「ちょっと借りただけだぜ。ちゃんと返すからそう怒るなよ」
──奴の言葉を借りるわけじゃねーがここは穏便に済ませたほうが楽だしな。
ナイフが手元に戻った大男はじろりとシュライヤをひと睨みしてから道を引き返していった。その後ろ姿を見ながら「商売熱心だな」と呆れたように肩を竦めてから男が消えた路地をもう一度振り返る。
「神出鬼没のナマエ、か」
ほんの僅か視界からいなくなったと思ったら気配ごと消えてしまった男の異名を口にしたシュライヤは、自分の口角が釣りあがっていくのを自覚しながら黒い帽子を被り直し賑やかな港町へと戻っていった。
しかし二人の再会は思いの外早かった。
あれから数時間後。日の暮れた港町は暖かな街灯の光と店から漏れる多くの人の声でいまだ賑わいを見せている。その中でも一際賑わう酒場でシュライヤは一人、食事に勤しんでいた。すでに空の皿が何枚もテーブルに積み上げられており、周囲の客の目を引いていたが本人は気にしていないようだ。
「すごい食べっぷりだな。ここの料理はそんなに美味しいのか?」
「不味くはねぇな」
皿に盛られた料理を口にかっこみながらそう答えたシュライヤは口いっぱいに詰め込まれた料理を飲み込むと、すぐに次の皿へと手を伸ばした。見ているだけで腹一杯になってしまいそうな食欲旺盛な姿を、テーブルに頬杖を付きながら眺めていたナマエは逆に空腹を感じてしまい店内を見渡す。
「なら俺も何か頼んでみるかな。すいませーん」
若い女の子の店員を見つけ声を上げるナマエを食事の手を止めることなくチラリと横目で見たがシュライヤはすぐに視線を料理に戻した。
「おすすめの料理をください」
「は、はいっ、ただいま!」
柔らかな表情を向けられた店員は頬を染めながら急ぎ足で店の奥へと向かっていく。手配書を見たときから女が好みそうな顔をしていると思っていたが、やはり女性からすると男はかなり甘いマスクのようだ。わりかし丁寧な口調も海賊とは思えない。ナマエは今まで出会ったことのないタイプの海賊だった。
ふと、シュライヤは口に料理をかっこんでいた手を止めて静止した。持っていた皿をゆっくりとテーブルに置き口内にある料理は全部酒で流し込んで胃の中に収める。体を仰け反らせながらジョッキの中身を全て飲み干すと勢い良くテーブルへと叩きつけたのだった。
「なんっっっっでお前がここにいるんだ!!」
「よく噛んで食べないと消化に悪いぞ」
「聞けよ!!」
シュライヤが驚きながらもキレるのも無理はない。つい先ほどまでこのテーブルには彼一人しかいなかったのだから。にも関わらず気がついたら最初からここに居ましたと言わんばかりにナマエが寛いで座っていたのだ。神出鬼没の異名は伊達ではなかった。
「まぁ落ち着きなよ。こんな場所で暴れちゃ他のお客さんに迷惑じゃないか」
急に大声で怒鳴ったせいか店中の視線が集まっていたことに気付きシュライヤは短く息を吐いて椅子にもたれ掛かった。
「それに、俺は平和主義なんだ」
「……海賊のセリフとは思えねぇな」
二人の間に漂う妙な雰囲気に店員が恐る恐るといった様子で料理をテーブルへと運んだ。それに微笑んで礼を述べたナマエはさっそくこの店おすすめの料理を口に含みよく味わいながら飲み込むと、怪訝そうな表情をシュライヤに向ける。
「なんだ美味しいじゃないか」
「不味いなんて言ってないだろ」
「美味しいとも言ってなかった」
「知るかよ」
すっかりナマエのペースに飲み込まれてしまい、先ほどまであった食欲の勢いも減退したのか残りの料理はスプーンで一口ずつ食べ始めた。
酒が回り店内の客の半数が眠りに就いた頃、イスから立ち上がったナマエは懐から金貨を取り出すとそれをテーブルへと置く。一人分の食事代にしては多いそれになんだか腹が立ち文句でも言ってやろうと顔を上げれば、和かな顔で見下ろされていて思わず口を閉ざした。
「楽しい食事だったよ」
そう言って店から出て行こうとする背中に「おい」と声をかけたシュライヤは飲みかけの酒を一口煽る。
「次会った時はその首頂くぜ」
「物騒だなぁ。ま、楽しみにしてるよ」
振り向かずに答えたナマエは口元に弧を描きながら月明かりの下へと歩んでいった。
シュライヤがイスに腰掛けたまま動こうとはしなかったのは、きっと今追いかけても店を出たらその姿はあの時のように消えているのだろうという確信があったからだ。
──神出鬼没のナマエ。
奴を倒せるだけの力を手に入れることができれば、幼い頃に誓った復讐を果たせるかもしれない。雑魚を狩るのも飽きてきた頃合いだ。丁度いい。宣戦布告通り次にナマエと出会うことがあればその首を本気で獲りにいこうと、密かに再会できることを望んでいるシュライヤであった。
一方、とくに姿を消すことなく夜道を歩いているナマエは心地よい夜風に背伸びをすると、タイミングを見計らったかのようにプルプルプルプルという鳴き声が聞こえてきた。懐から手のひらサイズになっている電伝虫を取り出したナマエは迷うことなく受話器を取った。この電伝虫にかけてくる相手は一人しかいない。
「どうしました、船長」
『どうしましたじゃねーよ。お前どこにいるんだ』
「え、ちゃんと置き手紙しましたよ?」
『おれが聞いてるのはそういうことじゃねー。なに許可なく船から離れてやがる』
顰めっ面の電伝虫から態とらしく目を逸らしたナマエは脳裏に不機嫌なオーラ丸出しで船員を怯えさせている船長の姿を思い浮かべた。
「すみません……お出かけしてもいいですか?」
『今更おせぇ。帰ってきたらてめぇは一ヶ月便所掃除だ』
「アイアイ船長。じゃあ暫く遊んでから帰りますね」
まだ何か言いたそうな電伝虫の表情を無視し、受話器を置いて懐にしまうと再び歩き始める。本当は連絡が来たら戻ろうとも考えていたのだが、今日出会った賞金稼ぎの男がナマエのこれからの予定を変えてしまったのだった。