純黒の悪夢02


 ホイールが二重に連なった大観覧車。その内部にある階段を登り、通路を突き進んでいると頭上から軋むような音が降ってきた。足を止めて見上げると瓦礫に混じって光を遮るように壊れたゴンドラが落ちてくる。避けろ、と考えるよりも早く体は動いた。だが、落下してきたゴンドラの重みと衝撃に耐えられなかった足場が崩れ、重力に逆らうことなく名前の体は下層の通路に叩きつけられてしまう。一瞬息が詰まったがなんとか立ち上がり落ちてきたゴンドラを見ると綺麗な景色を眺めるために設計されたガラス窓は粉々に割れ、円柱の形は最早見る影もない。
 随分と手荒な真似をする連中だと文句の一つも言いたいところだが、こうも暴れられては一刻も早く子供たちの元へ向かわなければならない。しかし瓦礫の隙間から見えた人影に思わず声を上げた。

「工藤!」
「っ……名前さん!」
「大丈夫か?」
「あぁ、俺は大丈夫だ。おじさんしっかりして!」

 ゴンドラから投げ出されたのか足場に転がるコナンに気付いた名前が体の痛みに眉を寄せながら駆け寄る。傍らには気を失っている公安の刑事──風見がいた。声をかけるが目を覚ます気配はない。頭上ではミシミシと音を立てて通路に引っかかっていたゴンドラがずり落ちそうになっている。このままだと押し潰されてしまうと、急いで横たわる体をコナンと一緒に引きずるように動かした。
 爆撃のような激しい音が辺りに響き渡ったのはそのすぐ後だった。まるでこちらの位置が分かっているのか狙ったように弾丸が厚いコンクリートを貫いて迫り来る。

「やべぇ! おじさん起きて!」
「工藤、こいつは俺がなんとかする。お前は早く行け!」
「頼んだっ!」
 
 走り出したのを見届け、風見の体を引っ張りながらすぐに体を伏せた。銃弾の嵐は動いている人物を狙っているのかコナンが走ったほうへと狙いが動いていく。慎重になりながら体を起こすと小さな瓦礫が目の前を落ちていった。すぐさま上に視線を向けると先ほどの銃撃で脆くなった建造物の一部がいくつか降ってくるのが見える。

「くそっ!」

 風見を抱えようとするも意識のない人間とは重いものだ。舌打ちをした名前はとっさにその体に覆い被さった。直後、左肩に激痛が走る。瓦礫の一つが直撃したようだ。暫くして顔を上げるとすぐ近くには大きな瓦礫が転がっていた。これがぶつかっていたら最悪死んでいたかもしれない。安堵の息を吐くとズキリと肩が痛んで眉を寄せた。
 しかし呻き声は名前ではなくその下から聞こえた。どうやら目を覚ましたようだ。

「──ッ」
「気がついた?」
「き、君は……」
「ここ危ねぇから移動するぞ」

 自身に覆いかぶさっている名前を見る風見の表情は困惑に染まっていた。状況が理解できていないのだから仕方がないのだが、あまり惚けられても困るな。そう思いながら上体を起こし、目覚めたばかりの男の肩を支えながらひとまず安全な場所へと移動する。これ以上ここに留まるのは危険だ。それに早く子供たちの安否も確認したかった。
 まだ体が思うように動かない風見を銃撃の痕がない場所に座らせて、すぐさま名前はその場を後にしようと踵を返した。その背中に慌てたように声がかけられる。

「どこへ行く!? 危ないから早く逃げなさい!」
「……悪いけど、逃げるわけにはいかねぇんだ」

 状況を完全に把握していなくとも周りの惨状を見れば今いる場所がとても危険だということは理解出来る。だがこの騒動の発端が公安のミスにあるのなら、これ以上一般人が巻き込まれるのを見過ごすことはできない。しかしそんな風見の主張など名前にとってはどうでもいいのだ。足を止めて遠くから聞こえる激しい銃撃音に耳を傾ける。その音は子供たちのいるゴンドラから離れていっているようだ。

「ガキどもが、まだこれに乗ってんだよ」
「っ!?」

 まるで独り言のような呟きに風見はハッとした。観覧車のゴンドラに乗り込む際に言われた係員の言葉を思い出したのだ。あの時、子供なら大丈夫だろうと判断したのは自分だ。思わず頭を抱えそうになり動かした手は目の前で止まった。左手にべったりと付着している赤い液体。それが血だと気付いて自分の体を見下ろすがとくに出血は見当たらない。まさか、と視線を上げると名前の左腕──二の腕部分の服が破れていて、よく見れば指先から血が滴っている。まさか先ほど覆いかぶさっていたことと関係があるのではないか。そんな考えが過ったが、とにかく今はこれ以上一般人が事件に踏み込むのを止めるほうが先だ。

「君、怪我をしているのに無茶をするんじゃない! 助けが来るのを待つんだ!」

 その焦ったような声に名前は自分の体を見渡し、ようやく腕を怪我していたことに気付いた。肩の痛みばかりに意識が向いてしまっていたようだ。傷が深いのか止まらない出血に、確かにこのままだとまずいとポケットに手を突っ込む。が、解っていたことだがハンカチなんか持ち歩かないためスマホとライターしか入っていない。諦めてこのまま行くしかない。そう足を踏み出す前に、眉を寄せてこちらを見つめている風見を振り返った。そこであるものが視界に入る。

「あんたのこれ借りるよ」
「え、」

 風見に近寄りその首元に手を伸ばす。しゅるりとネクタイを解いて包帯代わりに腕の傷口に巻いていく。片手では上手く結べないので口を使ってきつく縛った。恩着せがましいことは言いたくないが、動けない彼を庇って負った怪我なのだからネクタイの一つや二つ借りてもいいはずだ。じわりと滲んでいく布から視線を外し、戸惑った様子でこちらを見上げてくる公安刑事を見た。

「よし。じゃ、俺は行くからあんたこそさっさと逃げろよ」
「っ、待て!」

 今度こそ振り返らずに走り去っていく名前の後ろ姿をただ目で追うことしかできない風見は自分の判断を嘆いた。あの時子供たちが降りるのを待っていれば危険な目に遭わせずに済んだ。自分を庇って一般人が怪我をすることもなかった。危険に飛び込んでいく青年を止めることができなかった自分が情けない。けれど、と目を閉じ深呼吸をする。自分を責めるのは全てが終わってからだ。とにかく今は早く降谷と合流しなくてはならない。
 風見は痛みが走る体に力を入れてゆっくりと立ち上がり、名前の向かった騒動の渦中へ一度目を向けてから観覧車の出口へと歩き出した。



 ようやく子供たちの乗るゴンドラを見つけて上部の扉から乗り込んだ。タンッと軽い音を鳴らし着地した名前に気付いた子供たちは一寸の間を置いてから一斉に飛びかかる。施設全体が完全に停電しており、暗闇で周りの状況が全く理解できないのは随分と不安だったことだろう。

「わーん名前お兄さーん」
「名前さん来てくれたんですね!」
「いったいどーなってんだよこれ!!」
「お前ら落ち着け。とりあえず全員無事だな」

 涙目になっている歩美を落ち着かせるように頭を撫でて、怪我をしていないか一人一人確認していく。と、そこでここにはいないはずの少女がいることに気付いて眉を寄せる。組織がこんなにも密接に関係している騒動の中にいてほしくはなかった。関わらないでいてほしかった。そんな名前の想いを察したのか哀は切なげに少し微笑んだ。

「哀。お前、どうしてここにいるんだ」
「……心配だったのよ」
「怪我は?」
「平気よ。それより貴方のほうこそ、それ大丈夫なの?」

 哀の視線が左腕に向くと、しがみ付いていた子供たちも心配そうに名前を見上げた。包帯代わりに巻かれたネクタイは血液を吸って変色している。

「本当だ! 名前お兄さん怪我してる!」
「心配すんな。こんなの大したことない」

 そう、左腕の怪我はさほど問題はなかった。気にするべきなのは左肩のほうだ。ここに来るまでの間に痛みでだんだん肩が上がらなくなっていた。子供たちを連れ出して避難させようと思っていたのだが、ゴンドラの天井は高く、肩が上がらない状態では厳しい。いや、ここから無事出られたとしても安全に外へと出られる保証もない。組織の攻撃で観覧車内部はすでにボロボロだ。そんな危険な場所を歩かせるくらいならここで大人しく待っているほうが賢明だろうか。

「あとは江戸川がなんとかしてくれるのを祈るしかねぇな」

 任せろと息巻いておきながら結局最後はコナンを頼るしかなくなる。助けに来たというのに自分ではどうすることもできない根性なしだなと自嘲気味に笑う名前の手を歩美が両手で掴んだ。

「大丈夫! コナンくんなら絶対みんなを助けてくれるよ!」
「……そうだな」

 健気な励ましに不安にさせてしまったと反省する。その時、突然ゴンドラが激しく揺れた。子供たちが悲鳴を上げ体のバランスを崩す。名前は歩美の手を引いて不安定な体を支えながらゴンドラに固定された椅子に近づけた。

「ッ椅子に捕まれ! 危ねぇから立つなよ!」

 その言葉に子供たちは椅子にしがみ付く。窓の側にいた哀は身をかがめ衝撃に耐えており、そんな彼女を守るように名前はその小さな体を抱え込んだ。揺れは収まらず、何が起こったのか外に目を向けてみると景色がゆっくりと動いていた。観覧車が動き出したのだ。それも通常の動作ではなく一方向へ進んでいる。

「おい、マジかよ」
「まさか観覧車の車軸がっ」
「爆弾解除できなかったのかよ、あの人は」

 先ほどの大きな揺れはホイールが車軸から離れ地面に落下した時のものだったようだ。坂道の影響でホイールはどんどん速度を上げて移動していく。この巨大な鉄の塊が向かう先に水族館があることに気付き哀を抱える腕に力がこもった。どうすればいいと考え始めた頃、頭上から走る足音が聞こえて視線を上げた。

「工藤くん?」
「あれは……」

 見えたのは小さな人影──コナンともう一人。一瞬しか見えなかったが夜空に溶け込むような黒い服装だったのでおそらく赤井だろう。二人は転がるホイールの前方へと走り抜けていった。姿が見えなくなって程なく、見慣れたサッカーボールが大きく膨れていく。しかし勢いを完全に止めるにはボールだけでは不十分なのかホイールはじわじわと進み続けた。

「くそっ、ダメか」
「っ」

 腕の中で息を飲む気配を感じた。見下ろすと哀は凝視するように一点を見つめており、その視線の先を辿っていく。そこには建設中の現場にあったであろう重機がホイールに突っ込んでいた。よく目を凝らして見てみると操縦席に乗っていたのは子供たちと楽しそうにオセロをやっていたあの女性だ。不意に彼女がこちらへ顔を上げた。その視線は哀、名前、そして子供たちへ向けられた。
 そして重機は操縦席ごと潰され、爆発が起こり、やがて観覧車のホイールが止まる。

「彼女、記憶が戻っていたのよ」
「……そうか」

 何も知らず喜ぶ子供たちの声を背に、呆然と燃える重機を見つめている哀の隣に腰を下ろした。真っ先に思い浮かべたのは警察病院で子供たちと交流し、ただ純粋に楽しそうに笑う姿。それはきっと記憶を取り戻した彼女の中にも大切な思い出となって残っていたのだろう。

「組織を裏切ってまで、守りたかったんだな」

 あいつらを。名前は一度子供たちを見てから視線を哀と同じ方へと向けた。



 ゴンドラから救出された名前は救急車で治療を受けていた。応急手当てでしていたネクタイは外され、綺麗な包帯が丁寧に巻かれていく。左肩に関しては病院で精密検査を受けることとなった。搬送されていく女性の遺体を遠くから眺めながら、コナンから聞かされた情報を頭の中で整理する。
 コードネームはキュラソー。黒の組織のナンバー2であるラムの腹心で情報収集のスペシャリスト。彼女が警察庁から盗んだのはNOC──潜入工作員つまりスパイ──の情報リストだった。公安は彼女に盗まれた情報を取り戻すために。FBIはその情報が組織の手に渡るのを防ぐために動いていた。しかし彼女は組織を裏切り身を呈して子供たちを助けることを選んだ。結果的に組織にNOCリストが渡ることはなくなったが、なんとも後味の悪い結末といえよう。

「はい、終わりました。このまま病院へ向かいますがお連れする方はいますか?」
「連れは……ちょっと待っててください。すぐ戻りますんで」

 救急車から降りて、黒焦げになってしまったイルカのマスコットを拾い見つめているコナンたちの元へ向かう。マスコットは公安の風見の手に渡りなにかを話しているようだが、すぐにコナンは背を向けて去ってしまった。その場に残された哀に近づくと彼女もこちらに気付いたのか歩み寄ってくる。

「どう、怪我のほうは」
「病院で検査しろってさ」
「やっぱり」
「しばらくバイクは乗れねぇな」
「自業自得ね。工藤くんみたいに無茶するからよ」

 あいつほど無茶はしてねぇよ、と返そうとした名前が口を閉じる。仲間に肩を支えられた風見がこちらへやってきたからだった。観覧車の内部で別れた後はもう気にする余裕はなかったがちゃんと脱出できたようだ。

「君、無事だったか」
「あんたこそ」

 左腕に巻かれた白い包帯が視界に入ったのか申し訳なさそうな表情を向けられる。

「私のせいで君に怪我をさせてしまった。治療費はこちらで持とう」
「いいよ、別に」
「そのくらいはさせてくれ。これから病院へ行くのだろう? 私も同行させてもらう」
「まぁ、あんたのほうが重傷っぽいしな」

 観覧車で一番高い場所から落ちてきたゴンドラに乗っていたのだから軽傷で済むはずがない。今だって誰かに支えてもらわなければまともに歩けもしないはずだ。これは早めに病院へ行ったほうがいいだろうと判断した名前は再度哀へ向き直る。身を屈めて視線を合わせると彼女は少し不満そうな顔をした。

「哀は先に帰っ──」
「私も行くわ。貴方、放っておくと無茶するもの」

 哀は言葉を遮るように強い口調で言うと、皆に伝えてくるから待ってなさいねと断る隙も与えずそう続けた。子供たちの元へと向かう小さな後ろ姿に小さく息を吐くと立ち上がる。ふと、右手に握っているネクタイの存在を思い出し風見に視線を送れば公安の仲間と話していた彼も丁度こちらに顔を向けた。

「あんたに借りたこれ、ちゃんとクリーニングして返すから」
「気にしないでくれ。そのままでも構わない」
「いや、さすがにこのままはな……」

 渡してくれと言うように手を差し出してくるのを無視して名前は持っていたネクタイを雑にポケットへと突っ込んだ。その行動に風見は困ったように眉を寄せながら躊躇いつつも手を下ろした。

「ちゃんと警視庁に届けに行くよ。それとも、ネクタイはこれ一本しか持ってねぇの?」
「そういうわけではないが……」

 まだなにか言いたそうにしている男から視線を外すと哀が戻ってくるのが見える。

「それよりさっさと救急車乗ったほうがいいんじゃねーの。あんたを支えてる人も大変だろうし」

 軽い調子でそう言い放ち、先ほど治療を受けた救急車に戻って連れがいることを告げた。
 病院で検査を受けた名前は予想していたよりも長い期間バイクに乗れないことになり、多少、いやかなり落ち込んでいた。そんな彼の姿をたまたま見てしまった風見は罪悪感に頭を悩ませることとなったのだった。