ボルサリーノと上官


 センゴクにとってナマエという青年は優秀な部下であると同時に息子のような存在だ。幼い頃に亡くなった彼の両親もまた勇敢な海兵であり、大切な部下たちであった。死に際の、腕の中で伝えられた彼らの言葉は今も鮮明に思い出せる。もしその一言がなくとも同じ行動はとっていただろうが、やはり重みが違った。 
 こうして身寄りのなくなった子供を引き取ってから十数年。この手で鍛え育てた彼は最年少で将官の座に昇るほど立派に成長した。血の繋がりがなくとも我が子のことのように嬉しく思うのだから、あの世の両親も自慢の息子だと喜んでいるだろう。
 なのに何故、奪われてばかりなのか。

「やはりダメだったか」
『はい』
「あとどれくらいだ」
『半年は持つと』
「……そうか」

 電伝虫から延びる受話器がギシッと軋んだ。険しくなった表情は筒抜けだろうがそれでも構わない。これは、達観し全てを受け入れる準備をすでに整えている相手への少しばかりの反抗なのだから。
 ナマエには類まれな戦いのセンスがあった。才能と言ってもいい。一目見ただけであらゆる技を会得し、二度見れば完璧に自分のものとする。それは肉体だけの戦技に関わらず武器にも及んだ。知識がなくともその武器を一度目にすれば構造を理解し、機能を理解し、己の手足のように扱った。まるで天から授けられた才能を自分の下で育て、ずっと成長を見守ってきたのだ。
 だからこそ、その才への対価にセンゴクはそれ以上言葉を続けることができなかった。

『戻り次第、改めてご報告に伺います』

 目を閉じた電伝虫の背に受話器を置くまでに少しばかり時間を要した。
 決して恵まれすぎた人生ではなかったはずだ。愛してくれた両親は死に、自分の力で手に入れた地位には醜い感情を向けられ、笑うことすら満足にできない。それでも部下を大切に想い、命を無駄にすることを嫌った彼の正義は海軍の中でも相応の評価を受けている。その力が、利巧さが、正義が、これからの時代に必要な人材だと。
 恵まれすぎてはいないだろう。持つものもあれば、持たないものも失ったものもある。決して、与えられすぎたわけではない。それなのにナマエは才能を授けてくださった神から見放されてしまったのだ。

「上手くいかないものだな」

 静かな室内に弱々しい声が小さく響いた。偉大なる航路のとある冬島から帰ってくる部下を、いや我が子をどんな顔をして向かえればいい。どんな言葉をかけてやればいい。親というのはなんと無力なものか。



 執務室にある応接用のソファに座り、長い脚を組んだボルサリーノは先ほど受け取った資料に目を通していた。それは次の遠征に関するのもので、普段ならば部隊の指揮官であるナマエが確認するものだ。だがその張本人は上層部の会議に出席中である。
 ──今回の遠征の指揮は全て貴様に一任する。
 そうした指示を受け始めたのは自身の階級が少佐を超えたあたりからだ。現場で好き勝手にやる立場とは違い、部隊の編成や必要な申請書類の手続きなどやるべきことは山ほどあった。何度面倒だと思っただろう。だが不思議と数を熟せば慣れてしまうもので、ボルサリーノは手元の資料を読みながら頭の中で必要事項をまとめていった。
 少々気になっていることがあるとすれば最近になって指揮を任される仕事の数が目に見えて増えてきたことだ。上官に頼られるのは気分が良い。だが、おそらくそれだけではないとも感じる。近頃の彼はどこか変だ。そう気付けたのは一番近くでその姿を見ているからだろう。

「どうしちまったのかねェ〜」
「いかがなさいましたか、ボルサリーノ大佐」
「なんでもないよォ。わっしのことは気にせず仕事続けなァ」

 きっと、部隊の中でも自分以外にその違和感を察せた者はいない。
 ボルサリーノは上官を尊敬していた。そして、敬愛している。どこまでもついて行きたいと思うほどに。生まれたばかりの雛は最初に見たものを親と認識する。それと同じなのだろう。最初に相手を上官として認識したのがナマエだった。背負う正義を知り、海兵としての在り方を学んだ。だからといって彼のようになりたいと願うほど盲目ではない。彼は道標なのだ。安全な道も危険な道も隔てなく導いてくれる。例え掲げる正義が違おうとも道が違えることはないと。そう思っていた。

 それから数日後。遠征中の船の上でボルサリーノは我が耳を疑った。嵐のように降り注ぐ雨の音のせいで隣に立っているはずの上官の声は遠く聞こえてしまう。見下ろした横顔は甲板を駆け回る海兵たちへ向けられたままこちらを見ない。まるで世間話をするかのような口振りだった。重みの感じられない、声音だった。

「オォー……もう一度いいですかねェ〜?」
「すまない。こんな状況で話すべきではなかったな。中へ入ろう」

 見張りの兵を残し、ほとんどの海兵たちが船内へ一時退避したのを確認した上官はようやくこちらを見上げた。相変わらずその表情から感情は読み取れない。
 上官に続いて指揮官室に入り、来る途中で部下の一人から手渡されたタオルの片方を差し出した。それが受け取られたのを確認しボルサリーノは濡れた中折れ帽を外してタオルで水気を取りながら、部屋の奥へと進む背中に声をかける。

「それでェ? 詳しく聞かせてもらえませんかねェ」
「将官の推薦状を出しておいた。センゴク大将、ガープ中将、つる中将からも書いてもらえるよう頼んである」
「あのォ〜ナマエ中将」
「この遠征が終わる頃には貴様はめでたく准将だ」

 そう言いながらしっとりと濡れた白銀の髪にタオルを被せて拭いている上官の元へ足を進めた。はぐらかされている。彼は解っているはずだ。雨の中、消え入りそうな声だとしてもボルサリーノの耳がしっかりと拾い上げていることに気付いているはず。何について尋ねられているのか、何を答えればいいのか、すでに理解しているだろうに。聞かされた内容もそうだが、今更になってそれを躊躇う上官に少しばかり苛立ちを覚えてしまう。
 そのせいなのか、髪を拭いている手首を乱暴に掴んでしまった。

「わっしが言ってるのはそこじゃァないんですよォ」

 中途半端に偏っていたタオルが重力に従って床へと落ちていく。静寂が訪れて、そこでようやく心がひどく動揺していることを自覚した。まるで彼の元へ来たばかりの頃の失望されたあの日のように。
 ゆっくりと手を離すと上官はタオルを拾い上げ、軽く畳むとそれをデスクに置いた。そして雨粒のついた眼鏡を外すと、レンズ越しではない両目が真っ直ぐに向けられる。その瞳はティアドロップ型のサングラスの奥にあるボルサリーノの目を迷わず捉えていた。

「受理されたら、貴様は私の部隊から卒業だ」
「冗談をォ言う人じゃありませんよねェ〜」
「あぁ。いつまでも私の下で遊ばせているわけにはいかない」
「わっしはもォ〜少しこのままでもいいんですけどねェ」

 随分と、遠回しな言い方に変わっていた。雨音に混ざって聞こえた言葉はもっと率直で突き放すようなものだったのに。思い出すとまるで捨てられた小動物にでもなった気分になる。部隊を抜けるからと言って関わりがなくなるわけではないだろう。階級で言えば自分のほうがまだ下なのだから上官と部下という関係は変わらない。それなのに、だ。
 ──貴様はもう、私の部下ではないんだよ。
 まるでその関係性すら終わりを迎えるような言い方だった。まだ何かを隠しているような、そんな含みをもった声音だった。

「ボルサリーノ、私はな……」

 濡れたコートを脱いで壁のフックに掛けながら上官が口を開く。だが言葉は途中で止まり、コートに染み込んだ雨水がポタポタと床へ垂れていく音だけが聞こえた。やがて小さな水たまりができ、ボルサリーノの足元にも同様の水たまりがすでにできている。尊敬する上官を追い続けて手にした正義のコートは水を吸って随分と重い。
 海兵たちが憧れるそのコートへと手を伸ばした上官は正義の文字を指先で撫でた後、こちらを振り返った。

「私は、海軍を辞めるんだ」

 いつもは後ろに撫でつけられている前髪が無造作に垂れ、眼鏡をかけていない面はどこか幼さを残している。あまりにも若い上官だと改めて思う。ボルサリーノは上官を尊敬していた。どこまでもついて行きたいと思うほどに敬愛していた。それを本人に伝えたことはない。今後も伝える予定はない。それは自分の中で完結している想いだからだ。けれどこれは上官がナマエであるからこそ成り立つものだった。



 大将候補とまで期待されている男が海軍を離れる。それは海軍の戦力低下をも意味していた。若くしての出世は嫉妬の対象となっているが、実力が認められていないわけではない。海軍本部の人間の多くが次に大将の座に就くのはナマエだと確信していた程だ。しかし本人だけがそれに気付いていない。

「なにも辞めることはないでしょォ〜?」
「貴様を含めて優秀な海兵が揃ってきている。私がいなくなっても大丈夫さ」
「そりゃァ〜謙遜が過ぎるってもんですよォ」

 遠征任務から戻ってきて数日。噂は瞬く間に広がった。発信元がガープだったせいか信憑性が高いと本部は随分とざわついている。
 事前に報告を受けていた通り、本部に帰ってきたボルサリーノには昇級が言い渡され肩書が准将へと変わった。追い出される形で部隊を抜けて今は自らの部隊に配属させる海兵たちの選別中である。決して暇なわけではないがこうして元直属の上司の執務室に足を運んでいるのは、彼の部下たちに縋られたからだ。
 ──ナマエ中将を引き留めてください!
 まるでこの世の終わりだとでも言うような顔で縋ってくるものだから勢いに負けて了承してしまった。それがなくとも一度や二度は説得するつもりではあったから特別断る必要もない。
 それに、と正義のコートを羽織り窓の外を眺めている上官を見つめる。あれほどまでに部下に慕われ、そんな部下たちを大切に思う上官が彼らを置いて離れていくというのが上手く受け入れられなかった。せめて辞める理由でも話してくれたならボルサリーノ含めて納得するのだろうが、それすらもしてくれない。なんて残酷で、ひどい人だ。
 ならばいっそのこと────

「……貴方をわっしの部下にしちゃいましょうかねェ〜」

 辞めると言うのなら追いかけて、捕まえて、連れ戻せばいい。ただそれだけの簡単なことだ。

「それは、なかなか面白いな」
「わっしは本気ですよォ」

 上官を尊敬している。たが、それだけではない。彼の背中を眺めるのがもう癖になっているほどにずっと見てきた。それが当たり前のものになっていた。共にいる空間を心地好いものだと思うようになっていた。真面目で堅い性格ではあるが冗談が通じないほどつまらない人間ではない。
 つまり、ボルサリーノは上官を──ナマエを大層気に入っていた。
 しかし、結局何度か説得してみたものの上官の意思は変わらなかった。部下たちの涙にも、ボルサリーノの冗談を匂わせた本気の言葉にも、一切靡くことなく別れの日を迎えてしまった。見慣れた執務室は綺麗なままだがデスクやチェストの中身は空っぽでなにもない。残りの荷物を箱に詰め込んだ彼が名残惜しむように部屋を見渡している。その背にはもう正義の二文字はない。

「寂しくなっちまいますねぇ」
「案ずるな。私のことなんてすぐに忘れる」
「……わっしはそんな薄情じゃねェんですよォ」

 自分でも珍しいと思うほどに感情的な声になってしまった。こちらに顔を向けた上官もどこか驚いている様子だ。最後だというのにみっともない姿を見せてしまったと少しだけ肩を竦めると静かに名前を呼ばれた。厳しさを含んだその声音は仕事中に何度も耳にしたもので、すでに懐かしささえ覚える。

「貴様に最後の命令だ」
「オォ〜面倒なのはよしてくださいよォ?」

 細身の金縁の眼鏡を指で押し上げた上官がスッと視線を上げ、向き合うように姿勢を正した。反射的にボルサリーノの背筋も少しだけ伸びる。

「立ち止まるな。ここが始まりだ。貴様はこれから後ろを振り返らず、前だけ見ていろ。そして、────」

 躊躇うように続けられた"最後の命令"にボルサリーノは目を見開いた。すぐにそれは無茶な命令だと首を振りたかったが、見下ろした鋭い目元が僅かに歪んだのを見て動きを止める。年下のくせにどんな時でも冷静で鉄の仮面を被っていると噂される程の男が見せた初めての隙だった。

「心残りがあるとすれば、貴様の躍進を見届けてやれないことだな」

 眼鏡をゆっくりと外した上官にボルサリーノ、ともう一度静かに名を呼ばれる。それは今まで自分に向けられたことのない柔らかな声音だった。今まで部下たちに向けていたものとは違う優しさだった。

「私はもうじき死ぬ。だから、忘れろ」

 その命令に何一つ返事もできないまま執務室を出ていく上官をただ見送った。主のいなくなったイスに力なく座り込み、デスクの上に残されていったコートを手に取る。上官がずっと背負っていた正義は誰に託されることもなくここにある。もしかしたら自分がこうして手にすることを見越して置いていったのかもしれない、というのは都合よく考えすぎか。
 ──そして、私を忘れろ。
 彼の残した"最後の命令"はあまりにも残酷だった。

「困ったねェ〜」

 これから死ぬという人間の命令を果たして律儀に守るべきなのだろうか。尊重すべきだとは思う。けれども素直には従いたくない。手に持ったコートを顔に近づけると上官の香りを強く感じた。あァ、やはり手放したくはない。もう彼は海軍を辞めたのだ。誰が命令違反だと怒るというのか。失望はされるだろうがもう構わない。もうどっちだっていいじゃないか。手元にさえいてくれるのなら信頼だって失ったっていい。
 追いかけて、捕まえて、連れ戻してしまおう。
 それから一か月後。ボルサリーノはある策略を胸に中庭で惰眠を貪っているクザンへと声をかけたのだった。