クザンと上官


 海軍本部の敷地内にお気に入りの場所があった。入隊してからすぐに見つけたその場所は暖かな日差しが差し込む手入れの行き届いた裏庭だ。休憩するために用意されたスペースではないからベンチなどはなく、滅多なことがない限り人も寄ってこなかった。
 暇を持て余した時や訓練の疲れを癒すには最適の裏庭でクザンは地面に寝転がった。丁寧に刈り揃えられた芝は柔らかく天然の絨毯のようにすら感じる。誰かに見つかってしまえば批難されるだろうが心地よい誘惑には勝てない。被っていた帽子を顔の上にズラし、目を閉じればすぐに意識は眠りの中へと落ちていった。
 随分と深い眠りに入ったせいか感覚で言えば次の瞬間にはクザンは額に冷や汗を滲ませながら飛び起きていた。突然全身に悪寒が走ったのだ。殺気、とまでは行かないが強く鋭い気迫を向けられたという感覚が身体に残っている。それは訓練の際に本気で行くぞと意気込んだ教官を目の前にした時の感覚に似ていた。一体どこから、誰がこちらを見ていたのか。膝の上に落ちた帽子を頭に被り直しながら周囲に意識を向ける。太陽の傾きが変わった事で少しだけ建物の陰に入った裏庭に人の気配はない。建物を見上げてみても窓の傍に人影はなく、気味の悪さにそっと眉間にしわを寄せて溜め息を吐いた。

「そこの新兵」

 気を抜いていたわけでもなく、周囲への警戒も怠っていなかったつもりだ。それなのに突然背後からかけられた声に目を見開き、地面に座ったまま勢いよく振り向く。クザンの瞳に映ったのは柔らかな海風に撫でられ、まるで穏やかな波のように揺れる白いコートだった。それは将校のみが着用を許された正義の証。

「新兵は本日海上訓練のはずだが」
「え……」

 末端の、それも入隊したばかりの新人海兵にわざわざ声をかける物好きな将校からの問いかけに一瞬脳が追い付かなくなる。彼の目が眼鏡の奥から真っ直ぐに向けられ、そのアイスブルーの瞳と視線が合ってようやくクザンは我に返った。

「あ、はい。そうっすね」

 およそ上官に向ける態度でないことを自覚している。だが未だに座ったままの体勢でいることも含め、改めるほどの心の余裕がなかった。なぜなら先ほど寝ていた自分に向けて覇気を飛ばしてきたのが彼だからだ。話はよく耳にしていた。その姿を見るのは初めてだった。それでも解る。彼が噂に聞く最年少で将官になった海兵だと。
 きっと同期や上官を瞬く間に追い抜いていったのだろうそんな人物でも新兵の訓練スケジュールを把握しているのかと少しばかり感心する。それと同時に先ほどの問いかけを思い出す。彼の口振りから察するに訓練の時間が差し迫っているのだろう。しかしクザンの体内時計ではまだ時間なら余裕があるはずだ。
 そう考えていると目の前まで歩いてきた上官は懐から傷だらけの懐中時計を取り出した。リューズを押し蓋を開けてからチェーンを掴み、こちらに文字盤を見せるようにして吊るす。

「ゼファー教官は時間に厳しい人だ」

 左右の揺れが収まった懐中時計の針はクザンの体内時計よりも大幅に進んでいた。瞬間、教官の怒鳴り声が聞こえた。もちろん幻聴だが。

「やばッ!」

 慌てて立ち上がり背中に付着した芝を掃う時間も惜しむようにして走り出す。彼の言う通り訓練教官は厳格な人だ。つい先日も他の海兵が遅刻した際に規律を乱すなと叱り罰則を与えたのをすぐ傍で見たばかりである。一か月の甲板掃除だなんて罰を受けたら貴重な休憩時間に昼寝ができなくなってしまう。それだけは避けたい。

「待て」

 訓練が行われる港へ向かうため建物を迂回しようとした足を背後からの声が止めた。またやってしまった、とクザンは頭を抱えそうになる。親切とは言えない起こし方だがこの際そこはどうでもいい。あのまま寝ていたら確実に遅刻していたし、掃除の罰則だけでは済まない可能性すらあったのだから。そう、本来なら礼を述べ「失礼します」の一言を添えて上官の前から去るべきだったのだ。さすがにこれ以上の無礼は咎められるだろう。
 そうして身構えながら振り返った自分に対し、彼は先ほどと態度を変えぬまま裏庭から通じる建物の裏口を指差した。

「東棟を抜けていけ。そのほうが早い」
「あー……ありがとう、ございます」
「礼はいい。遅刻するぞ」

 それを最後に上官は懐中時計を懐に仕舞いながらクザンの横を通り過ぎていく。立ち上がったことで初めて気付いたが、最初見上げていた彼の頭の高さが自分の肘くらいまでしかなくて驚いた。それほどまでに彼から感じる威圧感はこちらを圧倒していたらしい。
 クザンはコートを靡かせながら去っていく背中をぼんやりと見つめた。自分との歳の差は僅か一つ。けれどもその肩書はすでに中将と最高戦力の一歩手前まで迫っている。ふと、以前教官が口にした言葉を思い出した。とある新兵が噂の将校は教官が鍛えたのかと尋ねたのがきっかけだったか。その疑問に対し教官は笑いながら──あいつは勝手に強くなった──とだけ答えた。多くの新兵がその答えに戸惑い理解できないまま終わった。
 太陽の光を受けて白く眩しいコートから視線を引き剥がすように顔を背け、裏口から建物へと入り港を目指す。クザンはあの時の教官の言葉を聞いて失礼ながらも薄気味悪いと感じていた。勝手にとはどういうことだ。何もせず強くなれるなんてありえない。力は鍛えなければ使い物にならないのだから。悪魔の実にしたってその能力を自分のものにするためにはそれなりの訓練だって必要になる。あの上官にとってそれら全ては強さに関係ないとでもいうのだろうか。もしそうだとしたら自分が抱いた感情は否定できないほどに正常だ。

 以来、上官へ向ける印象に変化が訪れる前に彼は海軍を辞めてしまった。出会って僅か一年だ。配属された部隊間の関わりも薄かったためにとくに深い交流もなく、別れの挨拶だってする間柄ではない。せめて一度でも戦闘を共にすれば、親切で薄気味悪い上官というイメージは拭えたかもしれない。少しでも憧れを抱けたかもしれない。

「クザァン、ちょっといいかァい」

 けれどそんな希望は先輩海兵の手伝いを安易に請け負ったことで捨てることになる。初めて元上官の強さを肌で感じることはできたが、残念ながら向ける感情は憐みだけ。憧れや尊敬は度を過ぎればそれはただの狂気なのだと、クザンは上官の眠る部屋を凍り付かせながら静かに白い息を吐いた。