火災犯捜査係、警部補──苗字名前。
28歳独身。彼女なし。
『──火災事件発生。場所は──』
「おい苗字行くぞ!」
「はい!」
強行犯捜査三係から火災犯捜査係に移って数年、弓長の部下として働く彼はその端正な顔つきと爽やかな人柄から密かに婦警達の間でも人気があった。
色恋の噂もなく、合コンにも参加しない名前だが決して女性を遠ざけているわけではない。
誰にでも分け隔てなく接する姿は警視庁内でもよく見られる光景だ。
「はぁ!? 千葉に彼女ぉ?」
現場へ向かうため警視庁の廊下を慌ただしく走る名前の足が不意に止まった。
今しがた聞こえた声のほうへと視線を向ければ同僚の友人で何かと付き合いのある婦警が新人らしき婦警と立ち話をしている。
「ちょ、声が大きいですっ」
頬を赤く染め慌てたように周りを見渡す婦警の顔がチラリと見えた。
ツインテールの可愛らしい子だ。
視線が合うと恥ずかしそうに目を逸らされ、名前はショックで動くことができなかった。
別に彼女に目を逸らされたからではない。
その行動がまるで危惧していることを肯定しているようで、頭をガツンと殴られたようで、衝撃の強さに思考が追いつかなかった。
「苗字! なにやってんだ!」
「っ、今行きます!」
──まさか。嘘だ。あんなに可愛い子が千葉の……!?
女っ気なしの苗字名前は後輩である千葉に絶賛片思い中であった。
現場での仕事を終え警視庁に戻ってきた名前はさっそく事の真相を明らかにすべく同僚の姿を探していた。
署内にある自動販売機の前で目的の人物を見つけ足早に近づき、逃げられるわけでもないのに勢いでその腕を掴んだ。
「さ、佐藤! 佐藤!」
いきなり掴まれた腕に驚いた佐藤だったが、相手が警察学校時代からの同期であると分かると反射的に振り上げた腕を静かに下ろした。
「どうしたの、そんなに慌てて」
婦警の間でもイケメンと噂される同僚が不安の色を滲ませた表情を浮かべている。
いつものスマートさはどこへいったのか。
「なにかあった?」
「いや、なにかあったわけじゃ、ないんだけど……」
なんだか歯切れの悪い同僚に首を傾げ、ひとまず落ち着かせようと掴まれた腕を優しく退けてから自販機で暖かい缶コーヒーを買い名前に手渡した。
「ありがとう。財布デスクの中だから後で払うよ」
「気にしないで。それで?」
「あー……」
受け取った缶コーヒーを一口煽り、気持ちを落ち着かせるように深く息を吐いた名前が意を決して顔を上げる。
そのあまりの真剣な顔つきに佐藤は無意識に表情を引き締めた。
「千葉に彼女できたって本当か?」
「……はぁ?」
が、すぐに呆れた視線を向けることになった。
「貴方ねぇ、なにを真剣な顔して言うのかと思えば……」
「今朝宮本が他の婦警と話してるの聞いちゃってさ、ずっと気になってて」
「まったく。それで仕事にならないとか言わないでちょうだいよ」
「あ、そこは大丈夫。仕事はいつも通り」
ならいいけど、と佐藤は溜息を吐く。
警察学校時代からの同期である彼はなにかと器用で優秀な人だ。
人当たりがよく仕事でも大きなミスは犯さないほぼ完璧に近い同僚がなぜ千葉に彼女がいるかどうかを気にするのかと言えば、数年前まで彼は千葉の教育係であったからだろう。
随分と可愛がっていたし、千葉も名前には懐いていたように思う。
「それで……本当なのか?」
「さぁ知らないわよ」
可愛がっている後輩ならば直接本人に聞けばいいのに。
なにか聞けない理由があるのだろうか。と、ふと脳裏を過ぎった可能性に佐藤を頭を振って否定する。
まさか、ありえない。長い付き合いの中でそういう話は聞いたことがない。
「そうか。引き止めて悪かったな」
眉尻を下げて困ったように笑う名前は改めて缶コーヒーの礼を言って事件の報告書をまとめるため部署に戻っていった。
その後ろ姿を見つめていた佐藤は仕方がないと小さく呟きその場を後にした。
名前にとって千葉は初めて任された新人であり、可愛い後輩であり、どうしても意識してしまう存在である。
出会った当初は今より痩せていた千葉がふっくらとしているのは少なからず名前が原因でもあった。
構いたいがためについ奢ってしまい、その食べっぷりを見ればいろんなものを食べさせてやりたくなるのは仕方のないことだろう。
「苗字先輩!」
自分の指導から離れた後もこうして『先輩』と慕ってくるのだ、可愛くないわけがない。
「おぉ千葉。どうした」
ただ名前を呼ばれただけだというのに嬉しさが隠せないほど表情に出てしまっていることは自覚している。
やばいな。バレてしまったらどうしよう。
「今晩どこか食べに行きませんか?」
「珍しいな、千葉から誘ってくるなんて」
「まぁたまには」
可愛い後輩から誘われたら断るわけにはいかないな。
いや、断れないと言った方が正しいだろうか。
なんにせよ千葉がこうして誘ってくるのは本当に珍しいことだ。いつもはこちらから声をかけるのが常だから。
「どうせ俺の金で旨いもん食いたいだけだろ」
「あ、バレました?」
欲を言えばもっと甘えてきてほしいし、もっと自分を見てほしい。だがそれは叶わないことだと理解している。
もし本当に千葉に彼女ができたのならそれを受け入れなければいけない。
先輩として、千葉を慕う者として、「よかったな」「大事にしてやれよ」と言わなければいけない。
どんなに自分が彼を想っていたとしても慕われる先輩であり続けるしか残された道はないのだろう。
行きつけの居酒屋はいつも混んでいて、空いていたカウンター席に千葉と並んで座りビールの入ったジョッキを片手にこの店で一番のお気に入りである煮魚に箸を伸ばす。
二人の間で交わされるのは他愛もない会話だ。
今日の事件はどうだった?とかまた毛利さんの推理で助けられたとか普段交わしている会話と変わらない。
なのに、
「オレ、彼女いませんよ」
突然そんなことを言い出すから心臓が大きく跳ねたような気がして、出かかった言葉は喉を通らず飲み込まれた。
どうして、急に、そんな話をするんだ。
「佐藤さんから先輩が気にしてるって聞きました」
「そうか……佐藤から、聞いたのか」
優しい同僚よ、できれば俺の名前は出さなくてよかったんだよ?
俺と千葉はたかだか先輩後輩という関係にすぎない。
自分が慕ってる同性の先輩が恋人の有無を気にしているなんて、一体どう思われるのだろう。気持ち悪い?そうかもしれない。
「彼女、いませんよ」
念を押すように繰り返される言葉と感じる視線に、無意識に俯き気味だった顔をあげ千葉を見れば真剣な眼差しに捕らえられた。
「先輩がいるのに、彼女なんかつくりません」
それは、どういう意味だろうか。
都合よく解釈しても大丈夫なのか?
あぁダメだ。頬が熱い。俺はお前が好きだと、言ってしまいそうなる。ダメだ。そんな眼で見ないでくれ。
可愛らしい尊敬の眼差しはどこへ行った?
──普段可愛い後輩がかっこよく見えてしまってものすごく困る。
千葉にとって名前は格好いい先輩であり、憧れの人であり、気づけば目で追ってしまう存在である。
出会いは強行犯係に配属された日だ。今でも覚えている。
「教育係の苗字だ。俺の持ってるノウハウ叩き込んでやるから覚悟しろよ」
その言葉とは裏腹に爽やかで人柄の良さそうな印象は忘れられない。
強面な刑事が多い中、苗字は異質だった。
最初はこの人のようになりたいと思っていたのに、この人に追いつきたいと思っていたのに、いつの間にか隣に並びたいと思うようになっていた。
それはたかが後輩が同性である先輩に抱いていい感情ではないことは分かりきっている。
「ねぇ千葉くん」
先輩の配属先が変わってから顔を合わせることは減ってきたが署内ですれ違えば軽い会話を交わすし、人望の厚い人であるから本人がいなくとも話題に上がることが多々ある。
とくに同期である佐藤さんからはよく先輩の話題が出てくるから羨ましいやら悔しいやらでなかなか複雑な心境だ。
「なんですか?」
「貴方、彼女できたの?」
「……えっ!?」
事件の話だろうか?それとも先輩の話だろうか?と油断していたら思わぬ方向の話が振られ反応が遅れてしまった。
オレに彼女?そんな根も葉もない話は一体どこから来たのだろうか。
「そうなのか千葉」
「で、できてないできてない! 誰ですかそんなこと言ってるのは!」
たまたま一緒にいた高木が驚いたように聞いてくるものだから慌てて否定する。
むしろ驚いてるのはオレのほうだ。自分の知らないところで自分に彼女がいる話がされているなんて…。
もしかしてすでに噂になっているのだろうか。
人付き合いのいい先輩がもしこの噂を知ってしまったら?
あの優しく、爽やかな笑顔で「よかったな」「大事にしてやれよ」なんて言われたらショックを受けずにはいられない。
佐藤さんが知っているということはきっと交通課の由美さんも知ってるだろうし、発端の可能性もある。
「火災犯係の苗字くんが聞いてきたのよ」
「……苗字先輩が、ですか」
まさかの本人だった。
「あ、でも彼は由美が話してるのを聞いたって言ってたわね」
あぁよかった。やっぱり由美さんが原因だった。少し安心した。
……って、いやいや全然よくないし安心できない!
「苗字くんってば千葉くんのこと可愛がってるからそういうのも気になっちゃうのかも」
気にしてくれているのは嬉しい。けど素直に喜べない。
先輩が後輩を気にかけている、それだけの関係。それ以上でもそれ以下でもない。
それでもオレは、ただ名前を呼んだだけなのに優しげに細められた瞳が自分に向けられるとその度に心臓は落ち着かないし見惚れないように必死になる。
可愛がられる後輩の立ち位置に甘んじていなければいけないのだ。
とにかく誤解だけは解かなければいけないと先輩を誘っていつもの居酒屋へと足を運んだ。
どのタイミングで言えばいい?
交わされる会話はいつもと変わらず、先輩にオススメされた料理を胃袋へと収めていく。
言わなければ。誤解を解かなければ。でなければ先輩に見てもらえない。
そんな気持ちが先走って会話を断つように言い放ったオレの言葉に先輩が静かに箸を置いた。
テーブルに向けられた視線をこちらに向けたくて、本当のことを知ってもらいたくて、見つめているとようやく視線が合った。
先輩がいるのに、どうして彼女をつくらなくちゃいけないんだ。
「それってどういう……」
いつもどこか余裕のあるスマートな先輩が困ったように戸惑いの表情を浮かべる。
その頬がいつもより赤いのは酒のせいだろう。きっとそうだ。
自分の都合のいいように考えちゃいけない。
「先輩より先に彼女つくるのは恐れ多いですから」
「え、あ……あぁ、なんだ……そうか」
目を瞬かせて苦笑する先輩がどこか落ち込んでいるような戸惑っているような表情でいつもの格好良さはどこにもない。
こんな先輩を見るのは滅多にないし、きっとこんな姿を見られるのは自分だけだろうと思い込んでしまう。
好きです、と言ったらもっとそういう表情が見れますか?
──普段格好いい先輩が可愛く見えてしまい困った。
気持ちを落ち着かせるために残ったビールを一気飲みした名前がチラリと千葉を盗み見てすぐに逸らした。
──鈍感なやつだよなぁ。
その僅か後に名前を横目で見た千葉は気を紛らわせるために意識を逸らして酒のつまみに箸を伸ばす。
──意外と鈍感なんだよなぁ先輩って。
((なんで気付いてくれないんだろう))
溜息が出たのは同時だったがお互いに自分のことに精一杯で気付かなかった。