小さい頃、同い年の子が蟻の巣に水を注いでいるのを見てなんて残酷なんだと思った。
その小さな穴の中には何百という命が生きているというのに、それを罪とも感じず、下品な声で笑うのだ。
どうしてそんなことをする?
なにがそんなに楽しいの?
──俺はヒーローになりたかった。
人の手で命を奪うなんて痴がましい。そんなものは自然の摂理ではない。
だから俺は救ったのだ。
小さな命を。
何百という命を。
──俺は正義の味方になりたかった。
家の隣の空き地は恰好の遊び場だったが、覆い茂っていた草が刈られ、荒れていた地面は綺麗に整えられ、いつしか綺麗な家が建っていた。
母に「どんな人が引っ越してくるのかしらね」と声をかけられたが俺にとってはそんなことはどうでもいい。
お気に入りの遊び場がなくなってしまったことが悲しくて、その気持ちをどこにぶつけていいのかも分からず、ただ一人で泣いていた。
──俺は、なりたかった。
庭で一人遊んでいると誰かが家を訪ねてきた。
小さなソレをすりばち状の巣穴に入れると、必死に砂を登ろうともがく姿を観察する。
母の声と、もう一人は知らない人の声。
暴れれば暴れる程沈んでいく体は巣穴の主に捕らえられた。
子供の声もする。
鋭い顎で捕らえられたソレは苦しみ悶えながら引きずり込まれていく。
「なにしてるの?」
ふと、明るかった世界が影に包まれた。
──救える人間になりたかった。
見上げた先にいたのは知らない子。
太陽を背負ったその子の顔は眩しさに細めた目ではよく見えない。
「蟻を……」
「アリ?」
あの時、泥の中から救い上げた蟻を。
一匹ずつ、無駄にしないように。
人の手で失われないように。
「アリジゴクに落としているんだよ」
こうすれば、この蟻達はちゃんと自然の中でさよならできる。
人に奪われることもない。
そこに罪はなく、罰もない。
また一匹、小さな掌の上で蠢くソレを巣穴へ落とそうと伸ばした腕は、同じく小さな手が制した。
「ダメだよ! 可哀想だろ!」
「かわいそう……?」
「命は、大切にしないといけないんだよ!」
隣にしゃがんだその子の顔が今度ははっきりと見ることができた。
──違う。
真っ直ぐなその目は、俺の憧れるヒーローのように、強い意志が宿っていた。
かわいそうって、なんだろう。
それはどういう気持ちなんだろう。
命を奪うことはいけないことだ。それは罪で、罰を受けなければいけない。
だから俺は救いたい。
助けてあげて、手を差し伸べてあげて、ちゃんと自然の中で淘汰されなければいけない。
かわいそうって、なんだろう。
掌から落ちた蟻が巣穴へと落ちていく。
懸命に動かした足が砂を登り、緑の茂みの中を去っていった。ほら、ちゃんと生きるべき命は生きているじゃないか。
「ねぇ……どうして、かわいそうって思うの?」
「だって、こんなに小さくても一生懸命に生きてるんだよ」
──俺とは、違う。
「どんなに小さな命だって僕は守りたい」
──ヒーローになるべきなのは、この子だ。
そうか。俺には足りなかったんだ。
俺が救った命は俺自身がしっかりと管理すべきだと思っていたけど、そうじゃない。
相手を思いやることが大事だったのか。
『先生』
『助けてください先生』
『もう無理です。苦しいです』
『私には、もう正義は重いです』
『先生。私を許してくれますか』
『先生』
──俺は、正義のヒーローになれなかった。
「あぁ、ちゃんと許すよ。君はよく頑張ってくれた。本当に感謝している。
ずっと苦しんでいたのに、助けてあげられなくてすまなかった。もう会えないのが残念だよ。
君はちゃんと自分のために正義を執行していたよ。大丈夫。皆が君を責めようとも俺はちゃんと君の正義を見ていたよ。
だが、罪を犯したら罰を受けなければいけない」
──だから裕也。
「早く俺のところへおいで」
──お前が正義の味方になるんだよ。
「これ以上、誰かが可哀想なことになるのは、嫌だろう?」
俺も嫌だよ。
だから早く、早く、お願いだから。
俺だけのヒーローになってくれ。