今日の日直である笹森は遅れて登校してきた。半崎も一緒に来たことからボーダー関係なのだろうと推測する。
「日誌はオレが書くよ」
返事をする前に書きかけの日誌を持って行かれてしまった。そう、今日は俺と笹森が日直でおまけに俺は入学式から今まで笹森とまともに話したことはない。ボーダーがどんなことをしているのか詳しくは知らないが、ここ三門市をひいてはこの国を守るために日々活動しているらしい。誰かを守るために何かをする、行動することはとても素晴らしいことだと思う反面、非日常的すぎてあまりピンと来ない。まだ16歳だというのに戦うという選択肢を選ぶことができる意思と決断力がまるで物語の主人公のようで、正直羨ましい。羨ましく思うと同時に自分には力も意思も何もないのだと実感する。
日直の仕事なんて日によって疎らだ。今日なんて授業終わりに黒板を綺麗にするか日誌を書くかしか作業はない上に、日誌は笹森の手の中である。手持ち無沙汰になってしまったので図書室で借りた本の続きを読んで休み時間を潰すことにした。本は好きだ。とくにファンタジーやSFが好みだ。物語の主人公は強くて優しい特別な存在で、こんな風になれたらなぁと思うが所詮夢物語でしかない。俺はただの一般人で、きっと何者にもなれないで人生を終えるんだ。
「悲観的すぎない?」
「現実なんてそんなものでしょ」
「夢がないなぁ」
眉を寄せ不満そうな表情を浮かべるのは前の席に座る友人の佐鳥で、彼もボーダーに所属している。コミュニケーション能力に長けた佐鳥から声をかけられた入学式以来の仲だ。関係は良好。佐鳥はボーダーの中でも広報活動も行なっている部隊らしく笹森以上に学校に来ない日が多い。だからなのか程よい距離感があって付き合いやすい。
「そういえば佐鳥さ、のんびり昼飯食ってていいの?」
「なんで?」
「宿題写させて欲しいって朝言ってなかったっけ? 午後の授業で提出するってよ」
「あ!!」
購買で買ってきたであろうパンを慌てて食べる佐鳥に笑っているとどこからか視線を感じて教室内を見渡した。しかし誰もこちらを見ている者はおらず、気のせいだったかと視線を戻す途中でクラスメートと談笑する笹森が視界に入る。メンツはこのクラスのボーダー組である半崎と別役だ。どんなことを話しているのかは分からないが楽しそうだな。
「佐鳥は学校ではあんま笹森たちと行動しないね」
「学校以外でよく会うからねぇ」
そういうものなのだろうか。佐鳥のことだから別に嫌われているわけではないのだろうけど少し心配だ。俺に構うよりも仲間と親交を深めたほうがいいんじゃないか? チームプレーとかにも影響するだろうし。
「それに学校にいる時くらいしか苗字と一緒に居られないからこっちのほうが大切だよ」
「ワーォ……俺ってば口説かれてる?」
「今度デートでもどうで──」
「昼休み残り5分だよ」
「せめて最後まで言わせて!」
開きっぱなしだった本を閉じて机の中に仕舞い、代わりにノートを取り出し佐鳥へ渡せば恭しい動作で受け取られた。それがなんだか面白くて笑えばまた視線を感じて今度は迷いなく笹森のほうへと目を向ける。だけどやはり笹森はこっちを見てはいなかった。当然か。なんで俺は迷うことなく彼のほうを見たんだろう。なにを、期待したんだろう。
放課後、ほとんどの生徒が去った教室で笹森は日誌を書いていた。どうやら全ての授業が終わった後にまとめて書くタイプのようだ。俺はどちらかと言えば授業終わりに一つずつ書いていくタイプである。
「おい笹森、帰らないのか。置いてくぞ」
「もう少しで終わるんで!」
教室の窓を閉めていると笹森を呼ぶ声が耳に届き、振り向けば先輩らしき人が立っていた。この人もボーダーの人なのだろうか。だとしたら待たせるわけにはいかなんじゃないか。そう思い全ての窓に鍵をかけたことを確認し笹森へと近づく。まだ書き途中であろう日誌を笹森から遠ざけるように手に取ると驚いたようにこちらを見上げてきた。
「俺がやっておくから帰ってもいいよ」
帰るといっても彼の場合は家にではないだろうが、ここで日誌を書くことよりは大事なはずだ。
「え、でも」
「あとこれ書くだけだから。笹森は帰っても平気だよ」
ちょっと冷たい言い方だったかな。でもこれくらい言わないと渋りそうだし先輩を待たせるのはあまり良くないと思う。日誌を手に自分の席まで戻った俺はさっそく続きを書いていく。笹森が立ち上がった時に引かれたイスの音、歩く足音、教室のドアが閉められ先輩と交わす声がだんだんと遠くなったところでようやく肩の力が抜けた。小さく息を吐いて改めて日誌を見下ろす。
──字、あまり綺麗じゃないな。
それに少しだけ笑ったあと、ペンを握り直し続きを書いていくと先ほど閉められたはずの教室のドアが勢いよく開けられた。忘れ物でもした生徒が戻ってきたのだろうと気にせず文字を追っていくと視界が影に覆われゆっくりと視線を上げる。
「笹森……?」
目の前に笹森が立っていて驚いた。なんで戻ってきたのだろう。口を半開きにして間抜け面を晒している俺に笹森はニッと笑って前の座席である佐鳥のイスを引いてこちらを向くように座った。
「ペン貸してくれる?」
戸惑いつつも持っていたペンを渡せばまたもや日誌を取られてしまった。整えられた字を書く俺の文字と少々崩れた笹森の字が日誌を埋めていく。そのアンバランスな文字の配列にもしかしたら先生は苦言を漏らすかもしれない、なんて思いながら笹森の手元を見つめる。
ふと、ペンを止めて日誌を抑えていたほうの指が俺の書いた文字の上をゆっくりなぞっていった。なんでもないようなその仕草になぜか心臓が跳ねた。
「苗字ってさ……」
なんで戻ってきたんだよ。本当に、なんで、戻ってきたんだ。
「字、綺麗だな」
うるさいなぁ……心臓が。たかが字を褒められただけでなんでこんなに、顔が熱いんだよ。なんでこんなに嬉しいと思ってるんだよ、バカ。
クラスメートの苗字とはあまり話したことがなかった。自分はどちらかと言えば賑やかで騒がしいほうが好きだけど苗字は逆。大人しくて静かだ。佐鳥とは仲が良いようでよく話しているのを見かけるし、佐鳥にはよく笑いかける。それが少し羨ましいと思った。自分から話しかければいいだけのことだが、休み時間はいつも本を読んでいる苗字の邪魔をしてはいけないと出来ずにいた。
「見すぎじゃね?」
「え?」
かけられた声に驚いて口を開いたことで咥えたままだった箸が床に落ちそうになったのを慌てて手で掴んだ。安堵の息を吐いてると「なにやってんだよー」と笑った別役の手元から弁当が滑り落ちて机の上で引っくり返った。いやお前がなにやってんだよ。幸か不幸かこの机は別役の席なのでオレと半崎は笑っていられる。
泣きながら散らばったおかずを集める別役を横目に自分の弁当箱からコロッケを摘み口に含む。母さんの作ったコロッケ最高。
──あ、また笑ってる。
気付けば視線は苗字に向いていて、楽しそうに佐鳥と談笑する姿に本当仲が良いんだなぁと思う。オレは一度も苗字に笑顔を向けられたことがないから、やっぱり羨ましい。
「いやだからさ、見すぎ」
今度は箸を咥えたままではなかったから慌てることなく声をかけてきた半崎を見る。ダルそうに頬杖をつきながらパックジュースのストローを咥える半崎が呆れた様子で視線を向けてくる。
「そんなに見てた?」
「自覚ナシですか」
「え、なんの話?」
「太一、まだおかず転がってる」
「どこどこ!?」
確かに苗字を見ていたけど、見すぎって程見ていただろうか。今日の日直当番がオレと苗字で遅れて登校してきた分は働かないと、と思い半ば強引に日誌を引き受けた。会話らしい会話もしてないが苗字がオレを”見た”だけでなんだかちょっと嬉しくなって、それから妙に気持ちが落ち着かない。
放課後、穂刈先輩が迎えに来るまで模擬戦をする約束をすっかり忘れていた。こういうときやるべきことを後回しにしてしまう癖を直さないとなぁといつも反省する。夏休みの宿題も最後の一週間で終わらせるタイプだから、日誌もまだ書き終わっていないどころか「あれ? 4限目ってなんの授業だったっけ?」となる始末だ。だから苗字から代わりに書いておくと言われたときは正直助かったと思ったし、苗字に声をかけられたことが嬉しかったし、もしかしたらこれを口実にもっと話せるかもしれないという期待も膨らんだ。
「笹森は帰っても平気だよ」
ただその一言が妙に冷たく感じてしまい心臓がドキリとし、俺の手元から日誌を抜き取った苗字が自分の席に戻るのを見送るしかできなかった。
今日は手空きの隊員を集めて混合チームでの模擬戦をやろうと誘われていて、穂刈先輩と廊下を歩きながらその話をするけどやはり苗字のことが気になる。仕方なく教室を出てきてしまったが本当にこれでよかったのだろうか。苗字に全てを任せっぱなしにしてきてしまって、本当によかったのだろうか。
「一度やるって言い切ったら、最後までやらなきゃダメっすよね」
「ん?そうだな……二言はだめだろうな、男なら」
「っすみません穂刈先輩! 先行っててください!」
やっぱりこのままではいけないと決断し、来た道を引き返して階段を駆け上る。走ってきた勢いで教室のドアを開けたからか大きめの音が鳴り響いたにも拘らず苗字は日誌に向かっていた。教室にはもう苗字しかおらずとても静かな空間だ。机の前に立てばようやく顔を上げその表情は驚きに染められた。初めて見るその表情に少し嬉しくなる。
佐鳥の席を借りて向かい合うように座り書きかけの日誌に苗字のペンを走らせると、じっと手元に視線を感じた。なんだか緊張して上手く字が書けないな。決して読めなくはない俺の字と比べて苗字の書いた字は、すごく綺麗だ。
「苗字ってさ……字、綺麗だな」
それは無意識に出てしまっていた言葉だった。グラウンドの方から部活動をする生徒の声が聞こえるくらい教室は静かだ。暫くの間お互いになにも言わず沈黙が続いた。
オレなに言ってんだろ……苗字も何か言ってくれよ、恥ずかしいじゃんか。ゆっくりと顔を上げれば視界に入ったのは頬を染めて困ったように眉を寄せた苗字だった。
あーやばい。オレ、もしかしたら、苗字のこと……好きかもしれない。