笹森と狙撃手


原作より前


 ボーダーに入隊してから数ヶ月、名前には友人と呼べる間柄の存在ができていなかった。その原因の一つに名前がまだ日本語を理解していないことにある。日系人寄りの顔つきと日本人の父から付けられた漢字の名前に、初めのうちは他の新人隊員から気さくに声を掛けられることはあったが内容を理解することができず無言の返答をするしかなかったのだ。元々口数の多い方ではない大人しい性格故に名前のほうから話しかけることはなく日々は過ぎていき、気付けば声を掛けられることはなくなりいつも一人でいるようになった。入隊時に世話になった東からは同じ狙撃手ということもあって時々会話をするが、それ以外は全くと言っていいほど名前は無言を貫いた。
 合同訓練が終わった名前はこの後の空白の予定をどう埋めようか考えながら施設内の廊下をぼうっと歩いていた。意識が思考に向いていたためか視界の端、正しくは壁に阻まれて見えない廊下の曲がり角の先から足早に歩いてくる人のシルエットが”視え”た時にはもう遅い。反射的に足を止めた名前に向かって角を曲がってきた人物がぶつかり反動で尻餅をついてしまう。衝撃に足元をフラつかせた名前を慌てて見上げたのはそばかすが特徴の笹森だったが、目の前に立つ長身の男がボーダー内でいろいろと噂されている人物だと分かると驚きで体が硬直してしまった。そんな笹森に首を傾げながら手を差し出せばなぜが両目を強く瞑った様子に名前のほうが困惑してしまう。

「Are you ok?」

 咄嗟に出た母国語に内心「しまった!」と思ったがこれくらいのレベルなら通じるだろうと自分を納得させた。一方の笹森は掛けられた言葉に瞑っていた目を見開きまじまじと名前を見つめる。
 ──え、英語……っ!?
 投げかけられた言葉の意味は理解できたがどう返事をしたらいいのか口を開閉するだけで声が出ない。こういう時ってOKとだけ返せばいいのか? 大丈夫ってなんて言えばいいんだ? 急な出来事に頭の中がごちゃごちゃし出した笹森に、手を差し出したままの名前は困ったように眉尻を下げた。その様子に気付きハッとした笹森が慌てて名前の手を掴んで立ち上がる。

「Sorry, I could see it.」
「あ、えっと……」

 次いで発せられる言葉の発音がネイティブすぎて最初の単語しか聞き取れない。なんと返事を返せばいいのか困る笹森の表情に眉間に僅かに皺を寄せ小さく息を吐いた名前がもう一度「Sorry」と呟いて歩き出した。聞いていた噂と違う彼の印象に先ほどの衝撃で床に落ちてしまっていた携帯端末を拾い上げ、離れていく背中を追いかける。
 元はと言えば端末を見ながら歩いていた自分が悪いのに彼に謝らせてばかりいて自分はなにも伝えられていない。このまま放置するのもいけないと自分よりも背の高いその背中に声を掛けるが気付いていないのか止まってくれず、小走りになってようやく追いついた名前の腕を掴んで引き止めた。

「待ってください!」

 しかし引き止めてから思い出すのは彼が英語を喋っていたこと。なんと言われたのか理解していないのか眉を寄せて首を傾げる名前に再び「あの…えっと…」と言葉に行き詰る。どうしたら通じるだろうか。あぁこんなことになるならもっと英語の勉強をするんだった!

「Was it not broken?」
「え?」

 頭を抱えそうになった笹森が持っている携帯端末を指差され言葉の意味を頭の中で噛み砕く。broken……えっと壊れたってことか。あ、壊れてないかって聞かれたのか。

「大丈夫です! あ、OK! OKです!」

 必死に伝えようとする笹森の姿に目を瞬かせた名前が一瞬の間を置いてふっと微笑んだ。眉を寄せた時の硬く怖い印象から真逆の柔らかく優しい表情に胸が大きく跳ね頬がカッと赤くなるのが分かる。日本人にしては彫りの深い整った顔は所謂イケメンという部類に入るだろう。しかし恋愛経験の少ない笹森は、胸の高鳴りも頬の熱さも自分の拙い英語が伝わったことへの嬉しさと恥ずかしさからくるものだと思い込んだ。
 とにかくさっきのことを謝らなければ、と笹森は自分が持っている端末に視線を落とし「そうだ!」と声を上げた。不思議そうにこちらの様子を伺う名前の腕から手を離し端末を操作して自動翻訳アプリを起動する。端末に向かって日本語で話しかけ画面を名前のほうへと向けた。

《さっきは急に飛び出してすみませんでした》

 名前は表示された英文に目を滑らせるとアプリの設定アイコンをタップし入力をEnglishへと変更する。笹森の耳に届く声は諏訪隊の作戦室で見る海外映画の中の俳優が発するセリフみたいで、学校で聞く教師のとは違うそれに現実離れした特別感のようなものが湧き上がった。

《私のほうこそ見えていたのにぶつかってしまいすみません。痛いところはないですか?》

 表示された日本語はこちらを気遣うものですぐに返事をする。

《今はトリオン体なので大丈夫です》

 懸念していたことへの返答と意思疎通ができたことに一安心した名前が小さく頷きその場を去ろうとするのを察した笹森が再度腕を掴んで引き止めた。そんな行動を起こした笹森自身も内心驚き慌てて端末に向けて言葉を発する。

《この後時間ありますか?》

 画面に表示された英文を読んだ名前が頷いたのを確認すると、その腕を引いてラウンジまでの道を歩きながら自分の行動力に驚きつつも彼と仲良くなってみたいという好奇心が胸を占めていることに笹森は気付いた。
 笹森が耳にしていた苗字名前の噂は必ずしもいいものばかりではなかった。まず良い噂と言えばその容姿だろう。長身でいて細すぎず、彫りが深く端正な顔つきは美男美女がいるボーダー内でも目立っている。綺麗なブロンドの髪は染めているだろうと思われたが彼のネイティブな英語と、近くで見るとオレンジ寄りの茶色い瞳に自然のものだと分かった。
 しかし悪い噂というのがそこに起因しているのだと今ようやく理解できた。話しかけても無反応な上、眉間に皺を寄せられ見下されるのは端正な顔立ち故に相当な威圧感があるのだろう。おまけに染められていると思われたブロンドヘアに不良じゃないかという尾ひれもついた。そんな噂がボーダー内に広がったことと元々近寄りがたいオーラを発していたのも相俟って自然と名前に声を掛ける者はいなくなったようだ。
 だからなのかラウンジで携帯端末を介して話す笹森と名前の姿に好奇の視線が集まっている。

「え、十七歳!? もっと上かと……じゃあ名前さんって呼んだ方がいいですよね?」
《名前で大丈夫です。そちらのほうが慣れています。あと……敬語? というのも必要ありません》

 ならばこちらも敬語は必要ない、と言おうにも翻訳された言葉は自動的に丁寧なものになってしまうから仕方がない。ラウンジでジュースを飲みながら話すのはお互いのことだ。仲良くなるにはまず互いのことを知らなければと軽い自己紹介をし合った時に名前の年齢を知った笹森は年上だということは想像していたが思っていたよりも若いと知り驚きを隠せない。海外の人は大人っぽく見えるなぁなんてじっと名前を見つめていれば《日本人は実年齢よりも若く見えますね》と言われてしまい、そんなに子供に見えるだろうかと唇を尖らせるとクスクスと控えめに笑われてしまった。

「名前はどうしてボーダーに入ったの?」
《父の仕事の都合で日本へ来た時に、ボーダーの方々にスカウトされました》
「スカウト枠だったのか……!」

 どうりで、と笹森が納得したのには理由がある。名前についてのもう一つの良い噂は狙撃手としての技術だ。入隊してから一ヶ月弱でB級に上がったと同級生の半崎が言っていたのを思い出す。だが噂のせいでどこの隊にも所属はしていないようで、ソロとして防衛任務に組み込まれる予定だが今は日本の生活に慣れることを優先していいとボーダー側から配慮されているという。

《ヒサトはチームに所属していますか?》
「オレは諏訪隊に入ってるよ。そうだ! 名前も諏訪隊に入ろうよ!」

 とは言ったものの諏訪や堤の意見は聞かなければならないが笹森は純粋にチームに迎えたいと思った。なにより一ヶ月弱でB級に上がったという狙撃の腕を放っておくのは勿体無い。きっと諏訪もノッてくれるはずだ。だが名前は困ったように笑って首を横に振った。

《すみません。今は日本の生活に慣れるのに手一杯なので遠慮します》
「そっか……そうだよな。オレもいきなり誘ってごめん」
《悲しい顔をしないでください。誘ってくださってとても嬉しいです》

 端末の画面に表示される文字は淡白で冷たい印象だが、それを伝える名前の表情は豊かで嫌な気分にはならない。

「おーい日佐人ぉ、そろそろミーティングやんぞー」

 話し続けて飲み物がなくなった頃ラウンジの一角から名前を呼ばれ顔を上げると諏訪が片手を上げて笹森を呼んでいる。慌てて時計を確認すればランク戦前のミーティング時間までもう五分を切っていた。事情を説明すると席を立った名前が同じように立ち上がった笹森に手を差し伸べる。

《ヒサトと過ごした時間はとても充実して楽しかったです》
「オレも、名前と話せてよかったよ!」

 その手を握り返した笹森の視線が端末を持っているほうの手に向かい、そしてもう一度名前を見上げた。

「時間が合えばオレが日本語教えてあげるよ」

 不思議そうに首を傾げる名前を真っ直ぐに見つめながらそう言った笹森の言葉に目を瞬かせる。一人で日本語の勉強をしている名前にとってそれは願ってもない提案だった。もちろん笹森と話している時は本当に楽しかったし、もっと続けばいいと思っていたので断る理由なんてない。

《本当ですか? ヒサトの迷惑じゃなければお願いします》
「全然迷惑じゃないって! オレもっと名前と仲良くなりたいし!」
《嬉しいです。私も同じです》

 真っ直ぐ向けられる厚意に嬉しくなった名前はここが日本だということも忘れ、握った笹森の手を軽く引き自分より低い位置にある肩にもう一方の手を添えると顔を近づけた。

「え……?」

 思い掛け無い名前の行動に驚き動きを止めた笹森の頬に軽いリップ音が響き、同時にラウンジを包む雑踏の音が静まり返ったように笹森は感じた。顔を離した名前は目を細め嬉しそうに微笑むとそっと笹森の手と肩から両手を離す。

「アリガトウ ヒサト」

 イントネーションの怪しい拙い日本語で伝えられたが笹森にとってそんなことはどうでもよかった。たった今された行為に対して思考が追いつかず、離されたというのに手の位置は変わらず構えたままだ。上機嫌になった名前は二人分の空になった紙コップを手に「See you.」と言ってラウンジを去ってしまい、その背中を見届けた笹森は視界から彼の姿がなくなるとようやく頭が働き出し途端に頬が真っ赤になるのが自分でも分かるくらい体温が上昇したのを感じた。

「日佐人クーン?」
「げっ諏訪さん!!」
「おい隊長に向かって”げっ”とはなんだ! ミーティングやるっつってんのになーにいちゃいちゃしてんだよ」

 背後から肩に腕を回され体重をかけられた笹森は上昇した熱が一気に下がるのがわかり慌てて後ろを向けばそこには己のチームの隊長がニヤニヤした表情をしているではないか。恥ずかしいところを見られたっ! しかも一番見られたくない人に!

「今のって狙撃手の苗字だろ。いつの間に仲良くなったんだ?」
「今日ですよ堤さん」
「ほーぅ。たった一日でキスまで漕ぎ着けるとはやるなぁ日佐人」
「違います! あ、あれは……ただの挨拶みたいなものですよ!」

 苦し紛れに言ったその言葉は決して間違えではなかった。事実、名前は感謝の意を込めて笹森の頬へとキスを送ったのであって他意はない。笹森自身も映画や海外へのイメージからきっとそうなのだろうと思い込んでいる。だが当事者ではない者にとっては知らぬこと。

「よし堤。ミーティングなんて放っておいて日佐人の話を聞いてやろうじゃねーか」
「そうですね!」
「ちょ、堤さんまで!? 本当になにもないですって!」

 その日を境に『笹森日佐人が苗字名前にキスをされた』と誇張された噂が流れたのは言うまでもなく当然のことだった。

「Sorry,ヒサト」
「あ、いや、名前は悪くないからそんなに落ち込まないで!」

 そして自分の行動で笹森に迷惑がかかってしまったと知った名前が落ち込んで謝る姿を目撃した諏訪隊が「そろそろ揶揄うのはやめるか」「……ですね」とちょっとだけ罪悪感を抱いたのも当然のことであった。