原作より前
作戦室のソファに寝そべりながら小説を読んでいた諏訪は麻雀卓を挟んだ向こうのソファに座っている二人の遣り取りに我慢ができなくなりとうとう本を閉じた。体を横に向け頬杖をつきながら対面にいる堤と、諏訪が作戦室に来る道すがらに強制連行した名前を見る。
「つつみ」
「ちゅちゅみ」
お互いに見つめ合いながらなにをしているのかと言えば単純に堤という苗字を正しく発音させるためのレッスンだ。笹森に紹介される形で諏訪隊と知り合った名前は、出会った当初から堤の名前だけどうしてもうまく発音できずにいた。名前なりに頑張ってはいるものの、初めてその名を呼んだ時に隣にいた諏訪が大爆笑という失態を犯したせいで呼ぶことをためらってしまった。実践しなければ上手くならない。ということでタイミングよく諏訪に連れられてやってきた名前を隣に座らせた堤が自分の名前を正しく呼べるよう頑張っている最中である。
「つーつーみ」
堤としても、いつまでも可愛らしい呼び方をされていたら恥ずかしい。
「ちゅ、つ、み?」
「惜しいっ」
まるで言葉を知らない小さな子供に「ママ」や「パパ」と呼ばせようと必死になっている親のように見えて微笑ましいのか笑えばいいのか微妙だ。ふざけてやっているなら指差して笑っていることだろうが二人とも真剣だから冷やかすのを躊躇ってしまう。名前が背の小さな小学生とか中学生なら微笑ましかっただろうが、生憎と自分や堤をも超える高身長だ。さすが米国の血。羨ましいぜ。
「なぁ名前、俺は?」
そろそろ息抜きしたほうがいいんじゃないかと思いそう声をかければ首を傾げて少し悩んだ後に「スワサン」という答えが返ってくる。
「……やっぱまだイントネーションが怪しいな」
「噛まずに呼ばれるだけいいじゃないですか」
intonation? と聞き返してくる名前は目下日本語の勉強中で二人の会話をまだうまく聞き取れない。堤がつい今しがたの会話を簡易的に英訳していると作戦室のドアが開き、いつものように棒付きの飴を咥えた小佐野が部屋に名前がいることに気づくとソファへと近寄ってくる。
「なにやってんの〜?」
「堤の名前をレクチャー中」
英訳中の堤に代わってそう答えたのは諏訪だ。しかし諏訪の答えに反応したのは小佐野ではなく名前だった。
「? lecture?」
復唱された単語の発音はたどたどしく日本語を話している時とは違い滑らかだ。
「そうそうレクチャー」
「lecture」
「れ、レクチャー」
中学校の英語の授業のように繰り返されるそれに「これじゃあまるで諏訪さんに英語をレクチャー中だな」とあえて声に出さなかった堤だったがニヤけた口元は隠せていない。舐めていた飴がなくなり咥えた棒を摘んで口から離した小佐野は未だにソファで寝そべっている諏訪を見下ろした。
「すわさんのための英会話教室?」
「ちげーわ!」
いや危うくそうなりかけてたけどな! と勢いよく上体を起こした諏訪を軽くスルーしてポケットから新しい飴を取り出した小佐野が一人用のソファに座って飴を口に咥える。
「Hi,ルイ」
「やっほー名前」
はい飴あげる〜と言ってポケットから取り出した飴を名前に渡すのはすでに見慣れた光景でもあった。諏訪隊の中で笹森の次に名前と仲が良いのは小佐野だ。決して飴で餌付けしているからというわけではない。小佐野が趣味で読んでいる海外小説をたまたま名前も読んでいて話が弾んだのがきっかけである。
「名前ってつつみんの名前言えなかったんだ〜」
「知らなかったのかよ」
「ん〜呼んでるとこあまり見たことなーい」
「それ諏訪さんのせいなんだ」
「だからあん時は悪かったって!」
さすがに諏訪もあの時のことは笑いすぎたと反省はしているようで、元々の面倒見の良さからか名前を見かければ声をかけたりと気遣いを見せている。
「あーもう俺のことはいいだろ? 名前にレクチャー続けろよ」
これ以上俺で遊ぶな、と話を逸らすために名前に視線を移せば小佐野から貰った飴玉を舐めているのか片側の頬が少し膨らんでいた。きっと今の会話も理解できてないんだろうな。
「スワサン」
「なんだ?」
「lecture」
「っ……lecture」
「Excellent!」
再び始まった英会話教室に「こいつ本当は日本語分かってんじゃねーの!? 俺で遊んでるだろ? 絶対そうだ!」と両手で顔を覆いながらも律儀に復唱する諏訪を嬉しそうに見る名前の隣でついに堤は笑い声を抑えきれなかった。
「諏訪さん、ちゃんと授業料払わないとダメですね」
不貞腐れた諏訪が読みかけの小説を再び読み始めた傍らで堤による発音レッスンも小佐野を交えて再開されていた。
「つ、つ、み」
「ちゅ、ちゅ、み」
「ちょっと可愛いかも」
「んーさっきは惜しいとこまでいけたんだけどなぁ」
途中で休憩を挟んだ影響か元に戻ってしまったことに堤は少し落ち込んだがそれを表には出さないように努めた。自分のせいだと責任を感じた時の名前の落ち込みっぷりは笹森との噂の件で知っているからだ。
「つつみん」
「ちゅちゅみん?」
「そうそう可愛い〜」
「ちょ、おサノやめて!」
そうそうってなに!? 肯定しないでお願いだから! と堤が慌てて修正しようとしたが名前の視線がじっと何かを追っているような動きをしていることに気付いて首を傾げる。視線の先を見るがそこはただの壁だ。名前の視線が壁を伝い作戦室のドアで止まった。
「ヒサト キタ」
「えっ」
「あ? まだ来てねぇけど──」
小説を読んでいた諏訪がそう言いながら顔を上げたその後ろでドアが開き笹森が勢いよく入ってくる。そして名前の姿を見つけると安堵したような表情になり近寄ってきた。
「名前こんなところにいた!」
「Hi,ヒサト」
「メッセージ見てないだろ?」
「message?」
携帯端末を片手に見せた笹森に何かを思い出したのか慌ててポケットから端末を取り出した名前が画面にポップアップされたアプリをタップすると30分も前にメッセージを受信していた。日本語で送られてきたメッセージは自動的に英訳され、その内容を確認した名前はガックリと肩を落とし顔を俯けてしまう。落ち込んでいるのは一目瞭然だ。
「ah……スミマセン、ヒサト」
「そんな落ち込まなくても大丈夫だから。な?」
名前の落ち込みっぷりにはもう慣れたのか苦笑した笹森がその肩を優しく叩いてから目線を合わせるように膝を曲げた。
「あと、オレと名前は友達だから”すみません”じゃなくて”ごめん”でいいよ」
「……?」
「えーっと……おサノ先輩!」
「任せて〜」
うまく理解できず首を傾げた様子に頭の中で英文に訳そうとするが早々に無理だと諦めた笹森が助けを求めたのは、日本語訳のない海外小説も読むことがある小佐野だ。
先ほどの言葉を難なく通訳すると名前は納得したように頷き改めて笹森を見つめる。
「ゴメンネ、ヒサト」
申し訳なさそうな表情の中にどこか嬉しさを滲ませているのが見て分かり、笹森も釣られるように顔を綻ばせた。曲げていた膝を伸ばしソファに座ったままの名前の手を引いて立ち上がらせると、そのままドアの方へと手を引いて歩き出してから振り返る。
「名前と勉強する約束してるんで連れて行っていいですか?」
「おーいいぞー」
「え、俺の名前は……?」
「頑張れちゅちゅみん」
「だからそれやめて!?」
まったく慰める気のない声音で同情の眼差しを向けながら堤の肩に手を乗せた小佐野とそれを見て笑う諏訪の様子になにがあったのか知らない笹森は疑問符を頭の上にいくつも出すしかない。
「……行こうか、名前」
「ウン」
笹森に手を引かれて作戦室を出て行った名前の姿が見えなくなってから数秒後、閉まったドアが再び開いた。中を覗くようにしてひょっこりと顔を出した名前に気付いた三人が笑い声を止め不思議そうに見つめ返す。
「Bye.ルイ、スワサン、ちゅ……ah……ダイチ」
なんだただ挨拶をしに戻ってきただけかと油断していた三人は最後に呼ばれた名前に驚いてしまい、笑顔で手を振って去っていく名前を見ているだけしかできなかった。
「よかったねつつみん」
「そうか……最初から名前で呼ばせればよかったのか」
「盲点だったな。ま、よかったじゃねーか堤。これでどこでも名前に名前呼んでもらえるぞ」
しかし諏訪が重要なことに気がついたのはそれから暫く経ってのことだった。
「──あ!? おい待てよ! 俺だけ名前で呼ばれてねぇー!」