伊地知と一級呪術師01


 タブレットに表示されている資料をスワイプしていく指先はまるで女性のように細く綺麗であった。整えられた爪には黒いマニキュアがムラなく塗られており思わず視線がそちらに寄ってしまう。

「資料はこれで全部?」
「はい。何分急な用件でしたので調査の行き届いていないところはあるかと。すみません」
「問題ないよ。これで十分だ。周辺への対応は?」
「そちらは問題ありません」

 伊地知から見た苗字名前という一級呪術師は尊敬できる大人であった。五条のように無理難題を押し付けることは決してなく、五条のように人をおちょくることも決してなく、五条のように生徒に任務を押し付けることもない。クセの強い呪術師の中では至極まともな人間である。唯一の欠点があるとすれば他人を寄せ付けず、会話も必要最低限に留めること。仕事をする上では何ら問題がないことから伊地知としては欠点というほどではない。多少印象が冷たいと感じる程度だ。ただ、高専時代の苗字を知っている身としてはその変わり様がずっと気掛かりではあった。
 そしてまた変わろうとしていた。あるいは、戻ろうとしている。

「お疲れサマンサー!」

 次の任務についての打ち合わせをしていると、いつにも増して妙にハイテンションな五条が姿を現した。面白くて堪らないといった雰囲気にこれは面倒なことになると直感で確信する。一体どんな無茶振りをされるのか体を固くする伊地知とは対照的に、タブレットを一緒に覗いていた苗字は無反応だ。五条の存在などまるでないかのように画面をスクロールしている。

「ねぇねぇ苗字〜、僕が誰を連れてきてあげたか分かるー? 分かるよねー?」

 そう尋ねておきながら答えは既に五条の横に立っていた。その姿を見るのは何年振りだろうか。お元気そうでよかった。と、懐かしむと同時に冷や汗が頬を伝い慌てて視線を戻す。頭一つ分ほど低い位置にある苗字の顔がしっかりと五条の隣に向けられている。身長と同様にコンプレックスだと言う女性寄りの綺麗な顔立ちは驚くほど冷え切っていた。
 伊地知の記憶にある高専時代の一学年上の二人の先輩は、もう一人の先輩を交えてとても仲の良い人達であった。とくに苗字は長身の二人に挟まれて笑っていた印象が強い。だがすぐにその光景は見ることができなくなった。今こうして対面している二人が卒業後にどういう別れ方をしたのかを知る者はいないだろう。しかしあの頃の笑顔を捨ててしまった一つの要因がそれであることは、二人の間にある何かを知らなくても察することができた。

「久しぶり」

 沈黙を貫いていた苗字が漸く口を開いた。声音は凛としていたが感情は込められていない。持っていたタブレットが伊地知へと手渡され、それを受け取った際に僅かな手の震えに気がつく。

「……お久しぶりです」

 落ち着いた、低い声が返される。苗字と同様に七海もまた再会を喜んでいる様子は見られなかった。元々愛想のない人だからそう捉えてしまうだけなのかもしれない。それっきり会話のない二人の再会に唯一不満を露にしたのは五条だけだった。

「え、なにそれだけ? せっかく用意したサプライズなのに、二人とももっと僕に感謝するべきじゃない?」
「これから仕事なので。行こう、伊地知くん」
「は、はい。失礼します」 

 部屋を後にして目前を歩く苗字の背中に視線を向ける。任務内容の擦り合わせがまだ途中であったが、今ここでそれを口にするほど空気が読めない人間ではない。自分がまとめた資料には目を通していたので内容はすでに頭に入っていることだろうし、あとは移動の車中で確認すればいい。そう言い訳をしながら伊地知は駐車していた車の運転席に乗り込んだ。
 目的の場所に向かいながら仕事の会話をしたが雰囲気はいつも通りだった。あの時、手が震えていたのは見間違いだったのかと思うほどに。助手席に座る苗字の横顔を盗み見る。右目を隠すように伸ばされた前髪。その下にはさらに市販の眼帯がされていて表情を読むことはできなかった。



 名前は誰にも、何も、期待していなかった。親しかった友人は死に、憧れた先輩は去り、同じような喪失感を抱える級友は一人呪術界から離れていった。頼れる先輩は遥か高みの存在すぎて同情もできず、同情されることも望めない。孤独感はいつも傍にあった。親に見捨てられ、先輩に見捨てられ、友人に見捨てられた。心にぽっかりと空いた穴が埋まることはない。ならばこれ以上穴が広がらないように、傷を負わないように、孤独とともにあったほうが利口のように思えた。だから名前は、期待することを諦めた。
 七海が復帰してから暫く。今のところ一緒に組むような任務はない。それだけ平和なのだと勝手に結論付けた。自分に割り振られた仕事はとくに問題なくこなせている。体へのダメージも、不調もない。なのに、ひどく疲れを感じていた。睡眠はしっかりと取っているし、食事もしている。眼帯の上から右目に触れるがこちらも異常はない。ならば、と考えられる原因は一つだけだった。

『絶対に戻ってくるな』

 高専を卒業後、呪術師にはならないと去っていく友人に向かってそう言った。本当は一緒に連れ出してほしかったのかもしれない。手をひいてほしかったのかもしれない。期待していた分、現実の非道さに笑えなくなった。自分は追うことすらしなかった癖に相手に求めすぎていたのだ。数年振りに再会した七海にはもう何も求めないし、期待もしない。それが自分の心を守る方法なのだと思っていた。

「苗字って頭いいのにバカだよね。あと七海も。くだらないプライドなんて捨ててさ、もっとシンプルに考えようよ」
「くだらない、ですか」
「どうせ最期には独りになるんだ。自分で自分を縛るなんて、そんなの呪術だけにしておきな」
「……それを言うためだけにここへ?」
「まさか。僕だって暇じゃない。たまたまだよ」

 任務の途中、偶然近くに用事があったと言う五条に捕まった。本当に偶然だったのか、その真意は解らないし解ろうという気にもならない。名前は学生の頃から五条という人間に同情されることを期待していなかったからだ。ただ、こちらの胸中を見透かされたかのようにそう言われた時、自分の決意が揺らいだ気がした。思い返せば七海が去った後、独りになろうと笑わなくなってからも五条は態度を変えなかった。突然海外へと一人放り出された時はさすがに信頼感を失いかけたが、それでも見放すようなことはしなかった。だからといって今すぐ頼ろうとは思えないが。七海に対してだって大きな抵抗が残っている。────あぁ、と納得した。これがくだらないプライドなのかと。
 仕事を終えて待機していた車へと向かった。乗り物に酔いやすい体質のせいで乗り込むのはいつも助手席だ。

「報告にあった呪霊は先ほどので最後です。お疲れ様でした」
「伊地知くんもお疲れ様」
「このまま高専へ戻ります」
「……ん、よろしく」

 あれから五条はいつの間にかどこかへと消えていた。運転席でハンドルを握る補助監督の伊地知ならば五条の用事とやらも把握しているかもしれない。だがそれを聞いたところで意味などないと理解している。だから五条のことは触れずに任務の報告だけをした。
 通り過ぎる外の景色はだんだんと見慣れた風景に変わっていく。このまま高専に帰って、もしタイミング悪く七海がいたらどうしようか。そう考えると胸がざわついて落ち着かない。今日だけじゃない。七海が復帰してからというもの、任務が終わる度に、高専への帰路を歩く度に、脳が勝手に考えてしまう。そんな日々が続くといつかは限界が来てしまう。それが偶然にも今日であったにすぎない。きっと五条の言葉も影響しているのだろう。

「伊地知くん、お願いがあるんだ」

 高専に着いて停車した時、気付けばそう口にしていた。

「私にできることでしたら」
「いや、君はなにもしなくていい。ただ、嫌だと思ったら気にせずやめろと言ってほしい」
「はぁ、解りました」

 突然の申し出に要領を得ないまま車を降りた伊地知に続いて名前も助手席から降りる。そして運転席側に足を進め、伊地知の前に立つと目線の先にある胸元へと頭を預けた。

「えっ、あ、あのっ、苗字さん?」

 かなり困惑している様子であったがそれを気にしている余裕が今の自分にはなかった。久々の、すぐ近くに感じる他人の体温。それだけでこんなにも安心感が得られることをずっと忘れていた。いや、忘れるようにしていた。
 他人との関わりを避けるようになって、仕事以外の会話をしないようになって、それでも常識の範囲内である挨拶やお疲れ様といった言葉は交わしていた。伊地知との間でもそれは変わらない。だが、今日に限ってはそうはならなかった。きっかけは報告を終えた後、不安に駆られる思考に囚われようとした時にかけられた「大丈夫ですか?」の一言。当たり障りのない、他人を気遣う言葉だ。たったそれだけが今の名前からすれば手を伸ばしたくなるほどの優しさだった。

「拒んでもいいんだよ」
「その、拒む理由が、見つかりません」

 緊張しているのか伊地知の鼓動がやけに早い。背中へと緩く腕を回すと細身の体がびくりと震えてもっと鼓動が早くなった。それに釣られているのか自分の心臓の音がいつもよりもよく聞こえる。額から伝わって来る鼓動のように早くはなく、リラックスしている時と同じ落ち着いた一定のリズムだ。
 どれくらい時間が経ったのかは解らない。おそらく十分くらいだと思う。直立不動なことをいいことに伊地知へと預けていた頭をゆっくりと離した。驚くほど疲れがなくなっていて、やはり精神的なものだったのかと改めて認識する。どうやら自分は癒しが欲しかったようだ。

「ありがとう伊地知くん」
「いえ、私はなにもしていませんし」
「そんなことない。俺を……突き放さなかった。嫌な気分にさせてしまったかもしれないのに」
「っ嫌な気分だなんてそんな! むしろ、あ、いえ、なんでも……ないです」

 優しさを利用するようで申し訳なくなってそう伝えると、伊地知は顔を何度も横に振った。気遣える真面目な後輩だ。もし声をかけてくれたのが五条だったら余計に疲れが溜まっていただろう。他の補助監督では伊地知ほど自分をよく解っていない。生きてきた世界が狭すぎて呪術師以外の知り合いもほとんどなく、彼が声をかけてくれて本当に良かったと心底思った。
 しかし心的な疲れの原因がなくなったわけではない。この日を境に名前は何度も伊地知の胸を借りるようになっていった。