伊地知と一級呪術師02


 学校にはまともに通ったことがなかった。同級生の友達もいなかったし、家の外に出ることも極力禁じられていた。でも高専では全て受け入れてくれた。生まれつき普通の瞳とは違い模様の刻まれた右目。両親にさえ刃を向けられたそれもここではおかしなものではないと誰も気にすることはない。屈託のない明るい友人の影響でよく笑うようになれた。愛想はないけれど真面目な友人のおかげで一般常識というのを学べた。高専に来られたことは幸運だ。

「次の任務の話聞いた?」
「討伐任務だとは聞いている。詳しい話はこれからでしょう」
「二人とも、首が痛くなるからもう少し離れてくれる?」

 長身の友人達を見上げながら苦言を漏らした。いつもこう言っているのに何故か二人は名前を挟むようにして両側に立つ。

「見上げてくる苗字可愛いよ!」
「灰原それ理由になってない。あと可愛いって言うな」
「距離を取るとその分声を出さないといけないのでこのままで」
「出せばいいだろ。七海の大声って貴重そう」

 なんだかんだと言い訳を並べて結局二人は離れない。でも、それがとても心地いい。ずっとこんな毎日が続けばいいのに。あぁ、違うな。これは夢だ。高専はすでに卒業しているし、七海とももう笑い合えないことを知っている。それに、灰原は死んだ。どこにもいない。あの頃には戻れない。これは一番幸せだった頃の、ただの記憶。
 目が覚めた。いや、過去の思い出に浸りたくなくて無理矢理目覚めと言ったほうが正しいかもしれない。外はまだ暗く、スマホで時間を確認すると就寝してからたった一時間しか経っていなかった。もう一度寝る気分にはなれなくて上着を羽織って部屋を出る。高専の敷地内はとても静かだ。卒業を機に学生寮を出たが、今は別棟の部屋を使わせてもらっている。
 こうして眠れない夜を過ごすのは今日だけではない。七海と再会してから、少しずつ幸福感に溢れたあの頃の夢を見始めるようになった。忘れることは決してないが、自ら思い出すこともしない記憶。それを一方的に見せられるのは辛いものだ。詰まっていた息を吐いて、手にしていたスマホの画面をスクロールする。

「もう寝てしまっているだろうな」

 電話帳に並んだ名前の一つをタップし、通話ボタンを押すかどうか悩む。こんな時間にかけては迷惑でしかないのはもちろん解っているが、少しでいい、声が聞きたい。そこで名前は自分の無意識の行動に気付いた。何度も胸を借りすぎて当たり前のように思ってきてしまったのか。彼なら受け止めてくれるだろうと、期待している。決意が崩れそうだ。誰にも、何も、期待しないという決意が。優しさに、温もりに触れてしまえばこうも脆く崩れてしまうのか。
 怖くなって震える手で握ったスマホを乱暴にポケットへと入れる。そして部屋へ戻ろうと踵を返すと月明かりに照らされた五条がそこに立っていた。

「ダメじゃないか苗字、夜遊びしちゃ。しっかり休まないとザコに殺されちゃうよ?」
「……今、部屋に戻るところです」

 いつからそこにいたのか、なんて五条相手に気にしても仕方がない。名前は努めて平静を装いながら目隠しをする男の横を通り過ぎた。

「僕はいいと思うよ。過去に拘る必要なんてない。大事なのは未来なんだから」

 しかし投げかけられた言葉に足を止める。振り返ると唯一表情の読み取れる口元には笑みが浮かんでいた。

「苗字はさ、弱いんだから誰かに頼らないと生きていけないんだよ」
「っそんなこと、」
「あるでしょ。僕の用事に付き合ってもらってたからアイツならまだ起きてるよ」

 そう言って電話しろというジェスチャーをした五条は背を向けて去っていった。再び訪れた静寂に目を伏せる。スマホを握ったままだった手の震えはいつの間にかなくなっていた。



 通話の切れたスマホをスタンドに戻し、ハンドルを抱えるようにして突っ伏した。心臓がうるさい。五条の無茶振りに付き合わされたせいで本来の仕事が終わったのは予定していたよりもずっと遅くなってからだった。ようやく解放されて一息ついたところにこれだ。

『少しだけ、声が聞きたくて。仕事の邪魔はしたくないからすぐに切るよ』

 完全な不意打ちだった。通話時間は僅かで、会話も三回ほどレスポンスをした程度。それでも破壊力のある台詞を耳元で囁かれ、五条から与えられたストレスが一気に吹き飛んだ。
 あれから苗字に胸を貸すことが増えた。下世話な話をしてしまうと最初はただ単純に嬉しかった。身長が低くたまに学生と間違われるが大人としての常識を持ち合わせ、かつ家入と並んでも劣ることのない美しく整った顔立ち。男ということを知らなければ美少女だと思ってしまうほどである。正直に言ってしまえばタイプだ。そんな彼が自分の胸元に綺麗な顔を寄せて目を瞑る姿に喜びを覚えた。もちろん心配している気持ちは本当だ。だが日を追うごとに素直に喜んではいられなくなった。

──ごめん伊地知くん。俺が弱いばかりに、君に負担をかけてしまって。先輩なのに情けないよ。ごめんね。

 憔悴しきった表情を浮かべ伊地知の体に体重を預けながら、苗字は謝罪を口にするようになっていった。まるで自分を責めるような言葉を吐くようになっていった。誰しも疲れることはある。癒しを求めることだってある。誰かに、縋りたくなる時もある。それは決して悪いことではない。なのに彼自身がそれを求めるのはまるで悪い行為だと思っている。伊地知は苗字を尊敬していた。小柄だけれどもその背中は大きく、呪術師のプロとして責任感を強く持っている。だが、縋るように回された腕は弱々しく、触れた背は小さかった。
 それでも尊敬の意を失ったわけではない。また別の何かが湧き上がってきている。それがなんなのか、まだ確信を持てずにいた。
 苗字からの突然の電話をもらってから数日後。彼の任務担当となっていた伊地知は討伐完了の連絡を受けて迎えに行った。いつもであれば助手席に乗る苗字が珍しく後部座席に乗り込んだ。俯いたままドア窓に頭を預けて一言も喋らない。怪我をしているようには見受けられないが、どう見ても様子がおかしい。送りの時は少し疲れていそうだなと感じた程度だったが、呪霊との戦いで溜まっていたものが一気に出たのかもしれない。こちらから声をかけていいものか悩んでいるうちに車は高専へと着してしまった。

「到着しました」
「……ありがとう」

 返答はあったが車を降りる気配はない。ミラー越しに苗字さんの姿を見ると体勢はずっと変わっていなかった。

「本当に大丈夫ですか。体調が悪いようでしたら暫くここで休んでいって構いませんので。それとも家入さんに連絡致しましょうか」
「……伊地知くん、後ろに来てくれるかな」
「わかりました」

 運転席から降りて後部座席へ乗り込むと、二人の間にできたスペースを軽く叩かれた。もっと寄れということだろうか。ご要望通りに間を詰めて座席の真ん中に移動すると肩に温もりが触れる。ドアに寄りかかっていた苗字の体が伊地知へ凭れかかってきたのだ。首元をさらりと髪が掠めて擽ったい。
 いつもとは違う接触の仕方に驚いたがそのままじっとする。今日はなにも吐き出さないのか苗字は目を瞑ったまま黙っていた。余程疲れているのだろう。顔色があまり良くない。それと、睫毛が長いなと少し場違いなことを思った。車内は沈黙に包まれている。耳を澄ませると呼吸の音がかすかに聞こえる程度だ。まさかこのまま寝てしまったのではないか。そう懸念し始めたとき太ももの上に乗せられた伊地知の手に苗字の手が重ねられた。心臓が大きく跳ねる。

「伊地知くん。俺の、部屋に来ない?」
「苗字さんの、部屋、ですか」
「そう。一緒にご飯を食べて、それから、一緒に寝てほしい」
「あ、ご飯いいですね。苗字さんと食事するの初め、て…………え、寝っ、はぁ!?」

 頭をがつんと殴られたような衝撃が襲った。いや比喩ではなく実際に驚きで思い切り体を引いたら後頭部をドア窓に打ち付けてしまったので痛みは現実だ。しかし突然の申し出に脳がパニック状態すぎてその痛みも気にしてはいられない。大丈夫か、と声をかけられ慌てて姿勢を戻したが緊張で肩が強張ったままだ。そんな伊地知に気付いた苗字は少し困ったような表情を浮かべ小さく笑った。

「期待させてしまったようで悪いんだけど、本当に、ただ、一緒に寝てほしいだけなんだ」

 だからそう肩を張らなくてもいいとでも言うように、肩から背中にかけて優しく撫でられる。そりゃあ手を触れられてあんな誘い文句を言われたら自分でなくても勘違いをしてしまう。苗字にはもっと自身の顔が綺麗であることを自覚してもらいたい。だがそれを本人に伝える勇気は伊地知にはなかった。
 背中に触れていた温もりが離れていくのに釣られ、視線を横に向ける。密着するほど近かった二人の距離は少しだけ離れてしまっている。

「最近夢見が悪くて、人肌が恋しくて、それで前に君に電話をした夜は不思議とよく眠れて、だから────どうかしてる。こんなことを君に頼むなんて。ごめん。聞かなかったことに、」
「あの、苗字さん」

 二人の時間が増えるたび、徐々に表情を見せるようになってきた。まだまだあの頃のような心が満ちた笑顔はないけれど、それでも冷たい印象を抱かせることはもうない。悩み苦しんでいる姿を見るのは心苦しい。そう思う一方で、まるで許しを請うような切なく歪む表情を、とても美しいと感じた。

「キスをしてもいいですか」

 自分は何を言っているのだろう。こんな時に、こんな状況で、なにを口走っているのか。弱っている人に対してなんて馬鹿げたことを。咄嗟に口元に手をやって己の言動に困惑して下に向けていた視線を戻した。眼帯に隠されていないほうの左目が瞬いている。驚くのは当然だ。視線が合うと苗字は目を斜め下に向けて一寸の間瞼を閉じた。そしてゆっくりとその瞳が伊地知を捉える頃には、ほんのりと頬が色づいていた。
 シートに着いた手が、指先が、触れ合う。重なった唇はひどく冷たかった。自身の顔が熱を持ちすぎたのかもしれない。

「まだ、いいって言ってない」
「す、すみませんっ」
「謝らなくていい。君になら、いいと思ったから。伊地知くん……次は、眼鏡を外して」

 照れたように少しだけ微笑んだ苗字が車を降りていく。ぼんやりとその後ろ姿を見つめながら、次があるのかと一人呟く。急激に上がる体温。じんわりと滲んだ汗で鼻筋を滑った眼鏡の位置を直して、慌てて後を追うように車を降りた。
 翌朝、目の下にクマを作る伊地知とは対照的にすっきりとした様子の苗字は感謝の言葉を述べたのだった。