遠方にある廃校となった学校の校門前に名前は立っていた。
「"闇より出でて闇より黒くその穢れを禊ぎ祓え"」
ついにこの日が来てしまったのかと帳を下ろしながら思う。心の準備ができていなかった訳ではない。もしそうならもっと気持ちは乱れていたはずだ。名前はちゃんと物事の優先順位を理解している。己の私情など比べる価値もないのだと頭では解っていた。それでも心のざわめきはどうすることもできない。
日本全国で発生する呪いによる事象に対して呪術師の数は少ない。だからこうして術師が県を跨いで任務に当たることはごく普通のことだ。今回の任務は呪霊の調査及び討伐である。なんら特別なことではない。いつも通り仕事を遂行すればいいだけ。しかし名前の胸中は決して穏やかとは言えなかった。今回任務を共にするのが隣に立ち並んだ級友だからだ。
「情報通り数が多いですね」
「二手に別れよう。問題は?」
「ありません」
一級が揃って就くような難しい内容ではない。自分と、おそらく二級の術師がいれば事足りる程度だ。でも仕方がない。呪術師はいつだって人手不足なのだから。たまたま空いていたのが七海だったというだけのこと。
とにかく今は仕事に集中しようと広い校舎を見渡した。灯りのない薄暗い校舎に蠢く無数の呪霊。だがそのほとんどが低級だ。事前の情報にない特級呪霊でも出ない限り、今ここにいる二人ならばすぐに片付くだろう。
「俺は右から」
「私は左から。不測の事態が起きた場合は」
「すぐに合図を送る」
つい昔の癖で長身の男を見上げるとレンズ越しに視線が合ったような気がした。しかしそれ以上は何も言わず二人はそれぞれ校舎へと入っていく。お互いにプロなのだからやり取りに無駄がないのは当然だ。それでも、と名前は遠い日の記憶を思い出した。灰原を含めた三人でよく任務に赴いていた日々を。
あの頃は今よりもずっと弱くて三人で互いの短所を補いながら戦っていた。そういえば人生で初めて沖縄の地に足を踏み入れたのも高専での任務だった。観光なんてしている余裕はなかったから、今度は遊びに来ようと灰原が言っていた。それに七海がどうせなら海外にしましょうと返して、それいいねと灰原と二人で笑ったんだ。それから自分たちとは釣り合いの取れていない過酷な任務を充てがわれ、一人が欠けてしまった。
呪霊の弾ける音とともに静寂が訪れた。がらんとした教室は机と椅子が散乱し戦闘の痕を残している。汚れてしまった珠数をハンカチで拭いてから手首に巻き直す。呪霊が残っていないか確認しながら廊下を歩いていると反対側から七海が姿を現した。どうやらお互いに怪我もなく任務は完了したようだ。
宿泊するホテルへと着く頃にはもう外は暗く、部屋へ入るなり七海はすぐにバスルームへと向かった。本来ならシングルを二部屋取っていたはずなのだが何かの手違いで予約されていたのがツインルームだった。空いている部屋がないかフロントに尋ねようとしたのだが、余計な出費は避けたいという七海の申し出に意を唱える暇もなくチェックインされてしまったのだ。バスルームから聞こえるシャワーの音に耳を傾けながら名前は電話をかけていた。
「──報告は以上。予定通り明日の便で戻るよ」
『承知致しました。ご報告していただいた内容はこちらでまとめて上に提出しておきます』
「ん、よろしく」
『それでは、……あの、差し出がましかったらすみません。少々声に張りがないようですが、何かありましたか?』
電話向こうから聞こえるこちらを気遣う伊地知の声。後輩に心配をかけてしまったことを情けなく思いながらも、気にしてくれているという事実が嬉しく知らずのうちに笑みを浮かべていた。あぁ今すぐ逢いたいと、そう強く感じた。
「大丈夫。ありがとう、心配してくれて。でもそうだな……いや、今は電話で我慢だね。声を聞かせてくれる?」
『えっと、何を話しましょうか。あ、先日苗字さんから教えていただいたお店のハンバーガー、とても美味しかったです。やはりチェーン店のものとは違いますね』
「食べてくれたんだ。誘ってくれたら一緒に行ったんだけどな」
『そ、うですよね。誘います。今度。絶対に』
「うん、楽しみにしてる」
そこでベッドの軋む音がして振り返る。濡れた髪をタオルで拭きながらベッドに腰掛けている七海がいた。いつからシャワーの音は止んでいたのだろう。なんとなく気まずい雰囲気を感じ取った名前は早々に通話を終えた。備え付けのテーブルにスマホを置いて自分もシャワーを浴びてさっさと寝てしまおうと七海の前を通り過ぎる。すると手首を掴まれてしまい心臓が大きく跳ねた。
「伊地知くんに迷惑をかけているんじゃないですか。一級呪術師が相手では彼も断れないでしょう」
再会してから仕事上の会話しかしてこなかった。それ以外のことをずっと避けてきた。名前も七海も。だというのに漸く口にした言葉は懐かしい思い出を振り返るものでも、会っていなかった時間を尋ねるものでもない。名前の行動を咎めるものだった。伊地知に頼るなと遠回しに言われたのだと。少なくともそう受け取った。
「俺は、誰にも、甘えてはいけないっていうのか」
「そうではありません。周りをよく見れば、他にいますよ。アナタを──」
心臓が冷え切っていく。七海の声が遠のいていく。孤独になろうとした。でもなれなかった。五条の言う通り、弱いから誰かに頼らないと生きていけない。
「──彼を、私や灰原の代わりにしていませんか」
「……代わり?」
スッと耳に入ってきたその言葉に七海へと視線を向けた。切れ長の鋭い目がこちらを捉えている。その瞳に浮かんでいるのは失望か。それとも軽蔑か。手首に巻いた珠数が軽い音を立てた。掴む手に力が込められたせいだ。名前にはどうして七海が怒っているのか理解できなかった。
「違う、代わりになんかしてない。だって灰原はもういないんだ」
二人の代わりなど何処にもいない。そんなことはずっと前から重々承知していた。灰原が死んでから卒業までの間に幾度も七海と任務をこなし、背中を預けられるのはもう彼しかいないのだと。だがそう思っていたのは自分だけだった。どうして七海が怒るのか。怒りたいのはこちらのほうだ。
「逃げたのは七海じゃないかっ」
腕を振り払い名前はバスルームに逃げ込んだ。言うつもりはなかった。言うべきではなかった。吐き捨てた言葉は本音だったのかもしれない。ずっと心の奥底でそう思っていたのかもしれない。頭からシャワーを浴びながら目を閉じる。浮かぶのは驚いた七海の表情。どこか悲しそうだった。傷つけてしまったのだと、冷静になっていく頭の中で後悔が渦巻く。
部屋に戻るとすでに七海は眠っていた。それに安堵してしまった自分が不甲斐なく、湿った髪を乾かさないまま名前はベッドへ横になった。
予定通り任務を終えた二人の一級呪術師を乗せた車内の雰囲気は控えめに言って最悪だった。空気がとてつもなく重い。空港でお疲れ様ですと声を掛け合ったきり無言がこの場を支配している。二人の間に何があったのか想像するだけで胃に穴が空きそうだ。伊地知は何度か声を掛けてみようと試みたが二人から放たれるプレッシャーに負けて閉口してしまう。こういう時ばかりは五条の気まぐれな明るさが羨ましい。
車が市街地に入って暫く、窓の外へと視線を向けていた七海が運転席に座る伊地知へと顔を向けた。
「伊地知くん、車を止めてください」
「ここで、ですか」
「私はここで降ります。少々寄りたい場所がありますので」
「わかりました」
路肩に車を止めると、時間がかかるから待たなくていいと言い残して七海は降りていった。再び車を走らせながらバックミラー越しに苗字の様子を伺うと眉を寄せて睨みつけるように窓の外を見ていた。いや違う、あれは苦しげな表情だ。
果たして今の自分は彼に何をしてあげられるのだろうか。昨晩の電話で話題にしていたお店に誘うのもいいかもしれない。気分転換にはなるはすだ。それよりも仕事を調整して休みを取ってもらうほうがいいだろうか。七海が復帰してからというもの特に働き詰めだった。忙しくしていれば気が紛れたのだろう。休息は大事だ。体にとっても心にとっても。しかしそれは今この場で自分にできる最善の選択なのか。
高専に到着して車を停めた途端、シートの後ろから腕が伸ばされ伊地知の首元に回された。視界の端に苗字の頭が見える。手は震えていた。もう一度、今自分にできることを考える。
「部屋までお送りさせていただいてもよろしいですか?」
少し間を空いて僅かに反応が返された。
苗字の部屋は無駄な物が置かれていないシンプルな和洋室だ。休息のためのベッド、食事のためのテーブル、娯楽品の類はなく家具も必要最低限の物のみ。前回足を踏み入れた時は観察する余裕もなかったが、改めて見ると少し寂しい印象を受ける。そうして部屋の中を見渡しているとベッドへと浅く腰掛けた苗字に軽く手を引かれた。触れた指先が冷たい。
「ずっと、置いて行かれたと思ってた」
独り言のように小さく呟かれた言葉も、静かな部屋の中では十分に耳へ届いた。誰に、と話を遮ることはせず、手を引かれるまま苗字の両足の間に立つ。俯いたままの頭が緩やかに傾き、伊地知の鳩尾に凭れかかる。
「だから一人で頑張ろうって。でも、やっぱり怖くて。俺は弱いから誰かに一緒にいてほしい。一緒にいてほしかった。手を離したのは俺じゃない。なのに、どうして責めるの。俺は……どうしたらよかった?」
だんだんと震えていく声。こうして心の内をここまで露わにする姿は初めてだった。怒り、悲しみ、そして虚しさから震える背中をゆっくりと落ち着かせるように撫でる。この時、伊地知は不謹慎にも愛おしいと感じていた。憧れ、尊敬している先輩の情けないと言ってもいい姿を前にしても、込み上げてくるのは失望ではない。この人を支えたいという強い想いだった。
暫くして体を離した苗字の表情は申し訳なさで溢れていた。目尻は泣いたせいか少し赤みを帯びており、伊地知は無意識にその目元を親指で撫でた。細められた左目に心臓が鳴る。
「七海の言う通りかもしれない。俺は伊地知くんに甘えすぎている」
「そんなこと、ありません」
まるで零れ落ちるように口から漏れた声に否定を返すと緩く顔を横に振られた。
「ごめんね伊地知くん。俺の我儘に付き合わせてしまって。優しさに、付け込んだりして。頼りない先輩で、ごめんね」
泣きそうな表情で精一杯の笑顔を見せようとする苗字の姿に思わず眉間にシワを寄せた。本当はこんなことを言わせたくはなかった。冷たくなったとか人付き合いが悪くなったとか周りが口にしているのをよく耳にしたが、この人はずっと変わらないのだ。変わらなければいけなかっただけで、ずっと変わっていなかった。
右目を覆い隠すように伸ばされた前髪を横に梳いて、涙で濡れてしまった眼帯に触れる。
「これ、取ってもよろしいでしょうか」
「見ても気分のいいものではないよ」
困ったように眉を寄せられるも、耳に引っ掛けられた眼帯の紐を指でなぞってから外す。普段は隠された右目が晒された。細かい切り傷の痕が幾重も目の周りに刻まれている。それでも眼球には傷一つない。左目とは異なる瞳の色。虹彩に浮かぶ動く模様。苗字自身はこれを忌み嫌っているけれど、術式により巣喰っているモノを知っていてもなお伊地知にはとても美しいと思えた。
「違います」
左右の異なった眼が向けられ、なにが違うのかと問いかける。
「付け込んだのは、私です。自分にだけ弱った姿を見せてくれる、頼りにされている、と。優越感に浸っていました。私なんかでも貴方を支えることができると、傲慢にもそう思っていたんです。だから謝るのは貴方ではなく私です。すみませんでした」
床に膝をついてベッドに腰掛ける苗字の顔を下から覗き込むようにしてそう告げると、見つめた瞳が軽く揺れた。あぁ、泣かせてしまう。自分の善意が、好意が、感情を揺さぶってしまっている。だが、これが今の伊地知にできる最善の選択だった。
レンズの奥にある真剣な眼差しから逃げるように苗字が顔を俯かせる。そのせいで横に梳いた前髪がはらりと流れてまた目元を隠した。
「いいんだよ。俺に、優しくしなくていいんだ。君は悪くないよ。心が弱い俺が悪いんだ。ねぇ優しくしないで。お願いだから。自分勝手なことを言ってるのは解ってる。これまで散々甘えといて虫のいいこと言うなって。でも優しくされたくない。でないと、ずっと甘えてしまう。七海にまた、もっと周りを見ろって怒られる」
優しくしないで。その言葉とは裏腹に胸元に押し付けられた手は縋っているようで弱々しいものだった。
「……七海さんは関係ありません。私は構いませんよ。構わないんです。貴方がどれだけ頼ってきても受け入れさせてください。優しくさせてください。もっと、優越感に浸らせてください」
俯いた顔に、頬に触れると濡れていた。そっと顎を上げると本人が自覚している通りひどく情けない表情をしている。なんて愛おしいのだろうか。呪術師とは強い人ばかりだと思っていた。死を覚悟して呪霊を祓う心の強い人。現に自分の周りにいる術師たちは頼もしい人が多く、苗字もその中の一人であった。だが気付いてしまった。知ってしまった。誰かが支えてあげないと強くいられない人がいることを。
伊地知は眼鏡を外した。ぼやけた視界も距離が縮まれば関係ない。
「貴方の傍にいさせてください」
両手で包むように触れた頬はじんわりと熱を上げ、紅潮していった。