続・伊地知と一級呪術師01


 補助監督の伊地知潔高という青年は素直で誠実な後輩である。高専時代、一学年下の彼とは何度か任務を共にしたことがあった。その頃から呪術師には向いておらず内外ともに生真面目な印象を第三者に抱かせた。生真面目だからこそ術師に向いていないとも言える。呪術師なんてものは頭のネジが一本抜けているか、余分に刺さっているか、どこかおかしくないとやっていられない。補助監督に方針を切り替えたのは己という人間をよく理解している賢い選択だ。
 そんな後輩に大変迷惑をかけていることは重々理解している。彼のおかげで精神的にも少し落ち着きを取り戻した今、何かお礼ができないかと考えていた。そう。例えば休日を利用して日帰りの温泉に連れて行ってあげるなど。運転するのは伊地知のため連れて行くというニュアンスは少し違うかもしれないがあくまでもこれは例えばの話だ。

「休暇、ですか? そうですね、最後に頂いたのは半年前になります」
「半年って、そんなに」
「ここ数ヶ月はとくに忙しかったですから」

 眉尻を下げて困ったように笑う伊地知に申し訳なさが一層募っていく。多忙を極める相手に縋り付いてしまった自分が情けない。どれだけ自分のことしか見えていなかったのか。考えていなかったのか。改めて痛感させられた。

「苗字さんが気にすることではありませんよ。前にも言いましたが、私は貴方に頼られて本当に嬉しかったんです」
「……ありがとう。そう言ってくれると助かるよ」
「私も謝罪されるよりお礼を言われた方が気分はいいですから。それに仕事が忙しいのは主にあの人のせいなので……」
「俺からも伊地知くんに無理をさせないよう言っておくから」

 気持ちが顔に出ていたのか先手を打たれてしまった。こうしてまた気遣われては世話ないなと自嘲しながら、次の仕事があるからと急いで去っていく伊地知の背中を見送った。
 確かにこの数ヶ月は仕事量が増えていた。だが名前に回ってくる仕事は同じく一級である七海が戻ってきたことで分担されており、個別の仕事量としては以前から少し増えた程度。しかし呪術師と同じように補助監督も人手不足なのが現実だ。事務仕事とはいえその範囲は広い。窓から得た呪霊の目撃情報を元に調査をし、周辺の状況を把握し、自治体への手続きを行う。その上で術師のサポートも含まれている。忙しくないわけがない。呪術師の仕事がスムーズに行えるのも、偏に補助監督たちの助力があってこそなのだ。
 それ故か、休日に何かしてあげようと考えていたけれども蓋を開ければ彼にはその休日すらもなかった。先輩である五条のようになれとまでは言わないが、少しは仕事以外のことにも目を向けたほうがいいのではないか。そこまで思考を進めて気付く。その真面目さに自分は甘えていたのだと。

「随分悩んでるね〜。僕でよかったら相談に乗るけど?」
「遠慮しておきます」

 伊地知と別れてから共有スペースにあるソファで考えに耽っていると、いつの間にか隣には五条が座っていた。なんの前触れもなく現れる先輩の姿に名前が驚くことはない。それこそ高専に入りたての頃は毎度びっくりさせられていたが、幾度と繰り返されれば嫌でも慣れるというもの。五条も後輩からの冷めた対応にはもう慣れっこの様で「学生時代はあんなに可愛かったのに〜」と態とらしく口を尖らせている。

「じゃあさ、七海はどう? あっちでコーヒーブレイクしてたよ」
「……嫌です」
「まだ拗らせてるの? 飽きないねぇ二人とも」

 口元は笑っているが呆れたように肩を竦める五条から視線を逸らした。
 本音を言ってしまえば名前は五条をあまり得意としていなかった。第一印象が頗る悪かったせいなのかもしれない。高専に入学してから初めて出会った時、眼帯に隠された右目を見て「気持ち悪っ」と吐き捨てられたことがあったのだ。両親にも同様の言葉を何度も言われ続けてきたせいか、そのトラウマが蘇りずっと五条を避けていた。そこで先輩後輩としての仲を取り持ってくれたのが夏油であった。五条が見たのは右目そのものではなく、そこに刻まれた術式だったこと。その術式が不完全で中途半端なものだったこと。それに対して暴言を吐いたのであって名前に対しての言葉ではなかったこと。誤解と呼ぶには当時の五条の態度はあまりにも良くなかったが、一応、それなりの先輩後輩の関係には進めた。そして現代に至る。
 おそらく五条自身も後輩が自分を苦手と思っていることには気が付いているのだろう。だからこそ暇を見つけては構うのだ。

「それで、伊地知のなにで悩んでるの」
「伊地知くんのことだなんて一言も」
「いいよいいよ否定しなくて。だってオマエが悩む相手なんて七海か伊地知くらいなもんでしょ。七海に相談するのが無理じゃなくて嫌だってことは相手は七海じゃない。小さな子供でも解けちゃう謎だよ」
「分かり易くて悪かったですね」

 気分屋で素っ気ない様に思えて五条は人をよく見ている。悩んでいる相手を見抜かれている時点でこれ以上隠していても仕方がない。そもそも原因に関わっている人物なのだから、いっそここで文句の一つでも言っていいのではないだろうか。名前は小さく息を吐いた。

「伊地知くんを誘いたいんです。でも休みがないと言われて」
「やぁだもう苗字ってばえっちー」
「すみません、言葉が足りていませんでした。伊地知くんを食事やお出かけに誘いたいという意味です。残念ながら五条さんのような下品な考えは持ち合わせていません」
「ひどい言い様。ていうか”誘う"の意味解るんだ〜。このむっつりさんめっ」

 真面目に相談に乗る気がないのは最初から解りきっていたことだ。口元をだらしなく緩めながら人の頬をつつく五条の手を叩き落としたいところだが、その肌に触れることなく終わるだろう。名前は不快を顔全体に表した。顔の半分を覆い隠すマスクの上からでも、その両目が楽しそうに細められているのが容易く想像出来てしまうからだ。

「ニヤニヤしないでください。五条さんに話した俺が間違いでした。とにかく、伊地知くんには休みがありません。どうにかしてください」

 執拗に頬をつついてくる指先から逃げるようにソファから立ち上がる。揶揄いの言葉を挟まれないよう言いたいことだけを雑に吐き捨て名前はその場を後にした。もっと言わなければならないことはあったが、あのまま五条のペースに流されてしまうのは精神衛生上良くない。真剣に悩んでいる時に余計なストレスをかけられるのは迷惑でしかないのだ。
 結局一人では悩み事の解決策は出せず、少しでもまともな意見が貰えないだろうかと小さな希望を抱いて家入の元へと向かった。



 先日、休日の有無を聞かれ改めて自分が働き詰めであることを自覚した。どうりで疲れが溜まっているわけだ。今日までの数ヶ月忙しさが増していたのは事実。その中で苗字の精神的な不調が起こったのも事実。しかし自分がそれを迷惑だと思っていないことも確かな事実である。休日がなかったことと疲れていることの理由に苗字は関係していない。のだが、そのことを本人に伝えても言葉とは裏腹に納得できないといった表情を浮かべていた。一方の伊地知も言葉の上では気にしなくていいと伝えたが、負目からくる感情であっても自分にのみ向けられるそれに多少の喜びを覚えていたのもまた事実であった。
 そして休日を迎えないまま次の現場へ向かう車中の助手席には苗字が乗っていた。今回の伊地知の仕事は苗字の任務のサポートだ。事前調査は済んでいるため仕事の内容は討伐のみ。呪霊の特性や階級、数から念のため予定として期間は二日間となっている。暫く車を走らせ現場に到着すると苗字がスマホを弄り出した。乗り物に酔いやすいためか移動中は電話以外で触ることはないスマホの画面をなにやら真剣な面持ちで見ている。緊急の連絡でもあったのだろうか。いやそれなら電話がかかってくるはず。と、一人その様子を窺っていると不意に苗字の視線が伊地知へ向けられ驚く。

「仕事の予定を教えてくれる?」
「っ、はい、少々お待ち下さい。えー、苗字さんのスケジュールは──」
「俺のじゃなくて、伊地知くんの」
「私の、ですか?」

 なぜ今そんなことを聞くのかと意図が読み取れないままタブレットを操作してスケジュールを確認した。補助監督間で共有しているスケジュールアプリには呪術師を含めた高専に属する個々人の仕事内容などが記載されている。リストの中から自分の名前を選び表示されたカレンダーに目を通す。今日明日は苗字との任務で、その後は別の呪術師のサポートや細かな事務処理、さらにその先も同様の予定が組まれている。こうして見ると本当に自分のスケジュールは仕事だけで埋まっていた。もしかしたら無意識に現実から目を背けていたのかもしれない。ひとまず今後の予定を苗字に伝えると視線を斜め下に向けて考える仕草を見せた。

「ということは俺のサポート中、伊地知くんは他の仕事が入らないんだね」
「そうですね」
「この二日間ずっと」
「はい」
「周辺への警戒は済んでいるし、不測の事態のために現場で待機ってことかな」
「そういうことになりますね。あの、なにか不都合なことがありましたか?」

 あまりの確認の念の入りように、まさか自分のサポートなど不要なのかと不安に駆られる。確かに苗字は補助監督に頼らずとも帳を下ろすことができる術師だ。今回の仕事も一級呪術師がいれば事足りる。そう、彼一人いれば問題ないということだ。つまり自分は邪魔だと遠回しに言われているのではないか。と、勝手に思考を巡らせ誤った答えに辿り着こうとしている伊地知に気付いたのか、すぐに苗字が首を横に振って否定を示す。それでも困ったように眉尻を下げていれば、仕事頑張ろうか、と笑顔を向けられた。
 その後、下ろした帳が消えたのは日付を跨ぐ前のことだった。
 今回の呪霊の持つ領域は特殊で、領域の内と外では時間の流れが違う。それを加味した上での二日間であったにも関わらず、驚くことに苗字は一日で片付けてしまった。事前に報告されていた内外の時間差で簡単に計算してみると、おそらく呪霊と戦っていた時間は一時間もないのだろう。戻ってきた苗字も「もう夜なんだ」と驚いていたくらいだ。その手にボロボロになってしまった眼帯を握っていることから嫌っているはずの術式を使ったのだと解る。それほどまでに厄介な相手だったのか、それとも他になにか理由があったのか。答えは翌日、伊地知が身を以て体験することになった。

「あの、まだ状況がよく飲み込めないんですが……」
「伊地知くんにはこれから『疲労回復90分コース』を堪能してもらう」

 翌日、上への報告はまだしないでほしいと言った苗字に連れられてやってきたのは都内のマッサージサロンだった。外観からして普段立ち寄ることは決してないだろう洒落た店を前に伊地知は戸惑う。手を引かれるまま店内に足を踏み入れると、品のいい笑顔を浮かべる綺麗な女性に出迎えられた。すでに予約済みだったのか受付ではスムーズな手続きが進んでいき、さすがの伊地知も慌てた。

「苗字さん、一応まだ勤務中ってことになっていますし」
「仕事はきっちり終わらせたし、誰かに見られているわけでもない。お願いだ伊地知くん」
「うっ……」

 こちらを見上げてくる整った美しい表情に言葉を詰まらせた。苗字からの”お願い”に弱いと気付いたのはつい最近だ。高専の頃にも何度かその言葉をかけられたが意識したことはなかった。元より人からの頼み事は断れない性分である。相手が好意を抱いている相手ならば尚更断るという選択肢は無いに等しい。

「君には助けられたから、そのお礼だと思ってほしい。仕事のこともお金のことも気にすることはないよ」
「本当によろしいのでしょうか」
「いいよ。疲れを癒しておいで」

 そこまで言われてしまうと断るのも失礼にあたる。伊地知は苗字からの心遣いをありがたく受け入れることにした。受付の女性から問診票を渡され、特に疲れている部位を書き込んでいるとあることに気付く。一人分の予約しか取っていないのでは、と。思わず隣にいる苗字に視線を向けると、知らない人に体を触られるのは苦手だからと耳元でこっそり教えられた。
 アロマの香りが漂う部屋にあるマッサージベッドへうつ伏せになりながら、自分だけ贅沢な体験をしてしまっていいのだろうかと思う。背中と肩を重点的に指圧されながら、心地よさと申し訳なさがせめぎ合った。しかし溜まっていた疲れも相まってか次第に意識がぼんやりとしていく。眠りに誘われながらも伊地知は昨日のことを思い出した。念入りにスケジュールを確認していた苗字。もしかしたらあの時スマホで見ていたのはこのマッサージサロンのことだったのかもしれない。自分のためにここまでしてくれるなんて、と感動して涙まで出そうになる。ふと汚れた眼帯が脳裏にチラついた。まさか嫌いな術式を使ったのはこのためだったのかとも思ったが、さすがにそこまでは考えすぎだろうか。そこで伊地知の意識は眠りに落ちた。
 90分のコースを終えて一人店を出た伊地知は近くの喫茶店で待っていた苗字と合流し何度もお礼を言った。

「本当は俺が疲れを解してあげたかったんだけど、こういうのって素人がやると余計に凝るって聞いたから」
「とても体が楽になりました。いつの間にか寝てしまったようで、頭の中もスッキリしました」
「よかった。今日は美味しいものを食べて、それから仕事の報告をしよう」
「っはい!」
「さ、伊地知くんの食べたいもの食べに行こうか」

 そう言いながら微笑む苗字の右目には新品の真っ白な眼帯が覆う。
 私のために術式を使ったのですか、とは聞けなかった。多分気を遣って素直に答えてはくれないだろう。それに違うと言われたら言われたでちょっとだけショックを受けそうだ。だから聞かないでおこうと心の中にそっと仕舞った。今はただ、苗字から与えられる優しさが嬉しくてたまらない。それだけで十分じゃないか。それだけで十分、幸せだと思えるのだから。伊地知は目の前を歩く小柄な先輩の背を見つめながら慈しむように微笑んだ。