今日も今日とて伊地知は多忙に追われていた。二台のスマホを巧みに使い分けながら次々に業務を処理していくも、それを覆すかのようにあれやこれやと仕事を振られてしまっている。もちろん五条からである。最強と呼ばれる男からの突拍子もない要求に応えられる補助監督は少ない。むしろ伊地知だけと言っても過言ではないはずだ。だからこそこうして自分に仕事が集中してしまっているのだが、そのことに文句を言っても何も変わらないことは既に経験済みである。
「伊〜地〜知〜?」
「ひぃ! すみませんすみませんすみません!」
「次やったらデコピンするから。全力で」
「ぜんっ……それって私死ぬんじゃ……」
「死ぬ気で仕事、しようか」
「は、はい!!」
体感ではあるが、なぜかここ数日のところ五条からの無茶振りがやけに多い気がしてならなかった。やるべきことが重なり起こってしまった小さなミスにも敏感で何度泣きそうになったことか。いや、むしろ泣いたけれども。とはいえ呪術界と言えども社会人であることには変わりないのだ。ミスを犯した自分が悪いのだと言い聞かせながら応接室のドアを閉めた伊地知は背中を丸めてとぼとぼと廊下を歩き出した。
仕事が増えるのは仕方がないと受け入れられる。呪霊はこちらの意思とは関係なく生まれてしまうのだから。人命が関わっている以上真剣に取り組まなければならないのは百も承知している。しかし、五条の無茶振りはなにも仕事に収まるものばかりではない。そこが伊地知にとっては一番の困りどころであった。
無意識に溜め息を吐いて廊下の窓から見える夕暮れに目を向ける。なんとか日が暮れる前に解放されてよかったと、まだまだ事務仕事は残っているが一時の安堵を味わう。その時、背中を軽く叩かれた。
「お疲れ様、伊地知くん」
「あ、苗字さん。お疲れ様です」
振り返ると紙袋を二つ持った苗字が後ろに立っていた。予定通り出張任務から帰ってきたのだろう。ぼんやりとそう思いながら、窓から差し込む夕日に照らされる髪の毛一本一本がまるで輝いているかのように見えて思わず見惚れてしまった。それから表情に疲れがないことに安心する。
伊地知がまるで告白のような言葉を伝えてから苗字の精神は安定してきているように思う。自惚れているわけではないが、少しでも自分が影響を与えているのだと考えると嬉しさが込み上げてくる。我ながら単純な男だなぁと苦笑していると、こちらに向けられている苗字の表情がだんだん険しくなっていった。
「目の下にクマができてる。また五条さんに無理難題を押し付けられたね」
「平気です。これも、仕事ですから」
「無理なものは無理とはっきり言わないと、そのうちもっと無茶な要求をしてくるよ」
ごもっともな意見にうっと言葉を詰まらせる。だが相手はあの五条なのだ。無理だと言っても無意味なことは誰もが理解していること。そもそも半ば押し付けられるように用件を言い渡されてしまうのだから断る隙などないに等しい。それが現実なのである。そんな伊地知の胸中を察してか苗字は困ったように眉尻を下げた。
「ちょっとこっちに来て」
手を取られ促されるまま連れられたのは共有スペースにある休憩所だった。そこにある長椅子に座らされ目の間に立つ苗字を不思議そうに見つめていると、ふわりと抱き寄せられたのだ。女性と見紛う小柄で愛らしい外見からは想像できないほどその肉体は鍛えられている。顔に触れた胸元も、自分のようにただ真っ平らなのではなく筋肉の弾力を服の上からでも感じた。そして鼻を刺激する苗字の匂いに頬の熱が急激に高くなる。
「あ、の……苗字さん?」
「君は真面目で優秀だから、頑張りすぎているんじゃないかと心配になる」
驚きで思考が停止している伊地知の後頭部を苗字はゆっくりと、壊れ物を扱うように優しく撫でた。前髪にも眼帯にも隠されていない左目が愛おしげに細められている。しかし残念ながらその表情を見ることが今の伊地知には無理であった。
「こうすることしかできない俺を許してね」
まるで自分には何もできないといったその言葉に首を軽く振って否定を示す。五条という男の自由奔放さを止められる者が果たして存在するのだろうか。少々辛辣な対応をする七海や家入たちでも無理なのだ。だから伊地知が五条にこき使われるのもイジられるのも、苗字が責任を感じることではない。むしろ「伊地知くんで遊ばないでください」と助け船をしてくれたことが多々あり感謝しているくらいだ。今こうして労ってくれていることも心の救いになっている。
「伊地知くんは頑張っているよ。だからちゃんと、息抜きはしてほしい」
不意に苗字の声が先ほどよりも近くで聞こえた。気づけば頭部に触れている温もりも撫でている手だけではなくなっている。吐息が自身の黒髪を揺らしたのを感じ、目を見開いたままゴクリと唾を飲み込んだ。心臓は大きく高鳴り全身が脈を打っていた。
そうだ。あの日、あの部屋で伊地知は想いを伝えた。まるで告白のよう、ではなくあれは紛れもない告白だった。そして返事はまだ貰っていない。他人からこんなにもまっすぐな好意を向けられたことがないから混乱している、とあの時苗字は頬を染めながら言っていた。だから少しだけ待ってほしいとも。忘れたわけではないと思いたい。だからこそ自分にとって今の状況はただただ生殺しなのである。ずっとこうしていてほしい気持ちをぐっと抑え、片手で相手の背中にそっと触れた。
「こういうことを安易にされてしまうと……私、期待してしまいますよ」
「っ……」
すると頭を撫でていた手がぴたりと止まった。それから一寸沈黙が広がり、一歩、小柄な体が後ろへと下がる。温かな胸元から離れたことに少し寂しさを感じながら顔を上げると、苗字は眉尻を下げながらじんわりと頬を染めていた。それとも赤くなっているのは夕日のせいだろうか。どちらにしても、その反応がとても可愛く見えてニヤけそうになる口元を咄嗟に抑えた。
「ごめん。俺も、伊地知くんの疲れを癒してあげたくて、つい」
「いえ、ありがとうございます。なんだか疲れが取れたように思います」
「本当に君は優しいな。でも、軽率な行動は控えるよ」
別に控えなくてもいいんですが、なんて口が裂けても言えるわけがない。こういうところが伊地知の尊敬する大人なのだから。それでも仕事のストレスがスッとなくなったように感じたのは事実で、やはり勿体無いような気もする。あの時、誰かに温もりを求めた苗字の気持ちも同じことをしてもらったことでよく解った。だがここで「もっとお願いします」なんて言ってしまえばきっと困らせてしまうのだろう。
頬から熱が引いた頃合いで苗字が足元に置いていた紙袋の存在を思い出した。
「そうだ。これ仙台出張のお土産。補助監の皆で食べて」
「いつもすみません。皆さん喜びます」
二つあるうちの片方を手渡され、椅子から立ち上がり礼を言いながら受け取った。中に入っていたのは仙台名物のお菓子の箱が四つ。苗字は土産物に冒険はしない。いつも定番のものか、お店で一番オススメされているものを買ってくるのでハズレがない。どこの誰とは言わないが「それあんまり美味しそうじゃないけど面白いから買ってみたんだ。試しに食べてみてよ。もし美味しかったら僕も食べるからさ」と土産物で博打をする人もいるので大変ありがたいことだ。
そう感謝を噛みしめている伊地知にもう一つの紙袋が渡される。こちらも補助監督たちへのお土産だろうかと思ったが先ほどよりも随分と軽い。中に入っている包装された箱も一つしかない。なんだろうかと視線を向けると苗字が照れたようにはにかんだ。
「すごく美味しかったから食べて欲しくて買ってしまったんだ」
「え、それって、まさか私にですか」
「うん。これは君にだけ。特別」
上目遣いでそう言い、黒いマニキュアが綺麗に塗られた人差し指がぷっくりと柔らかそうな口元に添えられた。ふと、キスをしてしまったあの日のことを思い出す。
「他の皆には内緒だ」
なんてことだ。そんなことを言われたらやっとのことで落ち着かせた心臓がまたうるさく鳴り響いてしまうではないか。これでは当然期待だってするに決まっている。今なら抱き締めて唇を塞いだって許されるのではないかと勘違いしてしまうレベルだ。もちろんちゃんと理性は働いているからそんなことはしないが、もう伊地知の思考回路は限界寸前であった。