手にしたオモチャを右へ左へ動かせば、先ほどまでそっぽを向いていた小さな生き物たちが反応する。じっと獲物を狙うように静かに目線だけが絶え間なく動く。時に素早く、時にゆっくりと、緩急を付けながら細い棒の先についた鳥の羽根っぽいものを揺らした。そろそろ食いつく頃合いだろうか。焦らすように目の前まで近づけて、それから離していく。すると小さな生き物は腰を上げて今にも飛び掛かる姿勢をとった。来る。狙いを定めるその視線にグッと唇を閉じた。しかし期待を裏切るかのように小さな生き物──猫はゴロンと床に寝そべってしまったのだった。
今日、伊地知がいるのは都内にあるとある猫カフェだった。仕事というわけではない。驚くことに昨日突然に五条から休暇を与えられたのだ。もちろん休みを貰えるのは嬉しい。しかしあまりにも多忙な日々を送っていたせいか、休日をどのように過ごしたらいいのか図りあぐねていた。本来ならば惰眠を貪ってしまっても構わないというのにいつもと同じ時間に起床し、気付けばノートパソコンに向き合って事務処理をしていたのだ。ならばなぜ猫カフェにいるのかと聞かれたら、それは隣に座る苗字の計らいによるものだった。
『伊地知くんは猫好き?』
『猫ですか? 好きですよ。可愛いですよね。苗字さんも好きなんですか?』
『あまり懐かれないけど好きだと思う。それで良ければ一緒にどうかな、猫カフェ』
貴重な休日だというのにうっかり仕事をしてしまったと少々後悔しながら昼食をとっているとそんな電話をもらった。どうやら五条から休暇のことを聞いたらしい。また家入にはおすすめのお店などを尋ねていたようで猫カフェも彼女からの案の一つだと話す苗字が再度「どうかな?」と問いかけてくる。もちろん伊地知は二つ返事でその誘いを受け入れた。
猫にそっぽを向かれてしまい手持ち無沙汰になってしまった伊地知は隣に座っている苗字へと顔を向ける。胡坐をかいた彼の足の上では一匹の猫が寛いでいた。懐かれない、と少し残念そうに言っていたがその心配も杞憂だったようだ。
「この猫、ちょっと伊地知くんに似てる」
そう言って喉元を指でくすぐるように撫でると猫はゴロゴロと喉を鳴らした。とても気持ちよさそうで正直羨ましい。
「似てますか?」
「ちょっとだけ。ほら、こことか」
苗字の指が猫の額を優しく撫でた。所謂ハチワレと呼ばれる鼻筋を境に斑が左右に別れている白黒猫。つまりセンター分けしている髪型が似ているということだろうか、と自分の前髪に触れる。すると冗談だよ、と小さく笑われてしまった。無意識に不満そうな表情を浮かべてしまっていたようで恥ずかしい。
「やっぱり俺は猫に好かれないみたいだ」
「まだ一度も膝の上に乗ってきてもらえない私よりはいいと思いますけど……」
「伊地知くんの近くには寛いでる子がたくさんいるだろう。君が危険じゃないと解っているから安心しているんだ」
そう言われて初めて猫たちが苗字と距離を置いていることに気付いた。きっと感じているんだろうね、という呟きに思わず前髪と眼帯に隠された右目へと誘われるように視線が向く。おそらく猫に限らず動物は本能で呪霊の存在を察している。人間以上に視えている個体も多いのだろう。だからここにいる猫たちも苗字の右目にいる"それ"に警戒して近付いてこない。なぜもっと早く気付かなかったのか。猫にそっぽを向かれて残念がっている場合ではなかった。
「苗字さん、そろそろ──」
「でも、この子だけは怖がらずに触れることを許してくれた。それが嬉しいんだ。だから伊地知くんに似てるって思ったのかな」
店を出ましょうか、と続くはずだった言葉は声に出すことなく飲み込まれた。苗字の視線はずっと猫に向けられている。だからじんわりと熱を孕む伊地知の頬には気付かない。おそらく意識しての発言ではないことは解っている。もしかしたら自分が考えているほど深い意味はないのかもしれない。たった一匹の猫に好かれることが嬉しい。それだけなら微笑ましい出来事で片付く。だが、その猫は自身と似ていると言われた。つまり伊地知の好意は苗字にとって嬉しいことだと受け取ってしまって構わないのではないか。むしろすでにそう受け止めてしまっている自分がいる。
ふと膝に重みを感じて我に返ると一匹の猫がちょこんと座っていた。オモチャ遊びの途中で飽きてしまった子だ。撫でようと近づけた手に体を押し付けて擦り寄ってくる姿が愛らしく口元が緩む。確かにこれは嬉しいと思う気持ちが解る。やはり自分は考えすぎていただけなのかもしれない。そう思い直して柔らかな毛の感触を楽しんでいると苗字と目が合い微笑まれた。
「可愛いな」
もちろんそれが猫に向けられたものと理解している。それでも、可愛いのは貴方のほうですよ、と危うく口に出してしまいそうなところを柔らかな肉球によって防がれた。
それから後続に予約が入っていないのをいいことに延長に延長を重ね、たっぷりと二時間ほど猫に癒された二人は店を出た。名前はスマホの画面に表示された時計に目をやる。空は明るく夕飯の誘いをするにはまだ時間が早い。今日用意していた予定は猫カフェのみで、この後のことは全く考えていなかった。そもそも伊地知の休暇を知ったのも昨夜のことなのだ。任務が終わる頃合いを見計らったかのように五条から「伊地知に明日休みやったから。よろしく」と一方的に伝えられてしまった。だから慌てて家入にどこかいい場所はないかと電話をしたり、ネットでいろいろ調べたりして、ようやくこの店を予約した。
もう少し早く知っていれば伊地知のためにもっと何かを用意できたかもしれない。そう思いながら隣に立つ後輩を見上げた。仕事中に見かけた時よりも和らいだ表情をしている。急ごしらえではあったが猫カフェの選択は間違っていなかったようで気付かれないように一人安堵した。
「この後の予定は決めてないんだ。せっかくの休日だし疲れさせるわけにもいかないから、もう帰ろうか」
無理に連れまわしては本末転倒だろうと思いそう言えば、「えっ」と少し驚いた様子で視線を向けられる。お互いの目線が重なると、次第に顔を赤らめた伊地知が慌てて顔を反らした。
「伊地知くん?」
「すみません、私はてっきり……今日一日苗字さんと過ごせるものと……」
声量がだんだんと小さくなっていくせいか言葉尻がよく聞こえなかった。心配になり見上げていれば暫く何やら悩んでいた伊地知が意を決したように唇を引き締め再び目線を合わせてくる。その不意に向けられた真剣な面持ちに心臓が波打った。
「よろしければ、もう少しだけ貴方と一緒にいたいです」
それは名前にとって願ってもない申し出だった。元々誘いをかけたのは自分なのだ。たった一つの行先だけを目的として声をかけたのに、終わってしまえば次のことを考えていた。それどころか夕飯の誘いをしようとしたのだから始末に負えない。そう、名前には断る理由がなかった。
だからといって多忙な日々を送る伊地知に与えられた貴重な休日を無駄に過ごさせるわけにはいかない。計画性のない行動は却って疲労を与えてしまう可能性も高い。そこで一つの解決案を思いついたのだが、今度は自分が頬を赤らめる番が来てしまう。普段ならばとくに気にすることはないのだが、今現在向けられている表情のおかげで変に意識していた。このまま黙っていてはまた気遣われてしまうと、少しでも緊張を紛らわせるため視線を俯けながら口を開く。
「じゃあ……伊地知くんの家、行っていい?」
返事はなかった。その代わりに優しく手を引かれ、耳を真っ赤にした伊地知の後ろ姿を見ながら横断歩道を歩いていった。
高専にある自分の部屋へ招いたことは幾度かあるが相手の家にお邪魔するのは初めてであった。基本は整ってはいるがテーブルの上に散らばっている資料やすぐに作業ができるように開いたままのノートPC。本棚には哲学書などの書物が並んでいる。部屋を見ればそこに住んでいる人物の性格が伺える。そのためかここへ来るまで感じていた緊張はなくなり不思議と名前は落ち着いていた。
逆に緊張を高めていたのは伊地知のほうで、午前中に行っていた事務処理をそのままの状態で出掛けたことをすっかり忘れていたのだ。おまけにゆっくりと寛げるソファなどがあるわけでもない。それに気づいて慌てて来客用の座布団を押し入れから取り出したものだ。急いでテーブルの上の物を片付けてから、運良く冷蔵庫の中にあった飲み物を用意して一息。
「お礼が遅れてしまってすみません。今日は誘っていただきありがとうございました。やはり小動物はいいものですね。すごく癒されました」
「伊地知くん、最後のほうは猫たちに囲まれていたね」
「まさかあんなに触れ合えるとは思っていなかったので嬉しかったです」
テーブルを挟んで向かい合った二人は猫カフェでのことを思い出して笑みを零した。しかし本当に嬉しそうにニコニコとしていた伊地知だったが、一口飲み物を飲んだ後どこか困ったように眉尻を下げた。
「ですが私ばかりいろいろとしてもらって、なんだか申し訳ないです」
対面に座る後輩のその優しさに名前は一度目を伏せ、それから前髪に隠れていないほうの左目でしっかりと相手を見つめた。
「俺はね、君を甘やかしたい……癒したいんだ。俺がそうしたくてしてる。伊地知くんのために何かがしたい」
そして膝に乗せていた手をゆっくりと、コップを持つ伊地知の手へと重ねる。触れた瞬間に少しだけ心臓が締め付けられるような感覚があり、次第に温かな体温に安らぎを覚えていく。きっと皆は大したことじゃないと言うだろうが、名前はあの日、確かに助けられた。彼がいなければいつまでも一人でずるずると過去を引きずったままだった。だから無条件でなんでもしてあげたくなる。
「君に触れていると安心する」
手のひらから伝わる温もりに目元を細めた。
その微笑みを真正面から受けた伊地知は思わず言葉を失った。見惚れてしまったのもある。だがそれ以上に目の前にいる想い人から発せられた言葉に思考が停止してしまったのだ。健気なことを口にして無防備に微笑む姿に愛おしさが込み上げる。
「貴方を、抱きしめてもいいですか」
気付けば伊地知はそんなことを口走っていた。だが撤回するつもりはない。
眼鏡の奥から向けられるまっすぐな瞳から目を離すことができない名前は考えるよりも先に小さく頷いていた。手元から離れていく体温を惜しみながらも、テーブルを回ってくる様子を目で追っていく。すぐ傍に座り、膝に乗ってほしいと促す相手に戸惑うも名前は頼まれるがままに膝を立てた。細身の体に手を添えてゆっくりと膝の上に腰を下ろす。
「これで、いい?」
「はい」
テーブル越しに向き合うのとはわけが違った。抱きしめるのではなかったのかと未だに戸惑いがなくならないまま、するりと頬を撫でられる。そのまま頭の後ろと腰に手を回され抱き寄せられた。一瞬、キスをされるのかと。そう思った途端に撫でられた頬に熱が集まる。
「これじゃあ、まるで俺が甘えているみたいだ」
「そんなことありませんよ」
時々、伊地知は大胆な行動をとる。控えめになりすぎるのも困るが、予告なしにこういうことをされるのも困るものだ。しかしそれを嬉しいと思う自分もいて、それがまた困る。そんな名前の雰囲気を感じ取ったのか、伊地知の手が優しく後ろ髪を撫でつけた。
「こう考えてみてはいかがでしょうか。貴方が私に甘えてくれることが私にとっての癒しだと」
「あまりにも俺に都合が良すぎないかな」
「そう思うのは案外貴方だけかもしれませんよ」
何度も慈しむように頭を撫でられる。腰に回された手は離さないと言わんばかりに強く、二人の体はぴたりと密着している。互いの脈動が伝わり合うほどに近く、香るのは相手の匂いだけ。不思議と満たされていると感じる。耳元にかかる吐息がくすぐったくて身じろぐと、それを追うようにして伊地知の頭が動く気配がした。
そして──
「好きです。貴方のことが」
と囁かれた。少し掠れた、絞り出したような声音で。また胸が締め付けられるような感覚が襲う。なぜだか目の奥がじんわりと熱くなり泣きそうにもなった。