ソテツの特権


 意識が遠のく感覚は既に何度も経験していた。じわじわと視界が黒く塗りつぶされ手足の感覚が薄れていく。
 ──またか。
 ミシンのフットコントローラーから足を退かし、力の入らない体を無理矢理奮い立たせイスから立ち上がった。フラつく頭を片手で押さえながら部屋の片隅にあるソファを目指す。
 だがそこからの記憶はない。自分がちゃんとソファへ横になることができたのか、それとも床に伏せてしまったのか。
 
 答えが分からぬまま名前は目を覚ました。
 ぼやけた視界が映し出したのは打ちっぱなしのコンクリートではない、小洒落た照明の飾られた見慣れた天井だった。鼻を掠めるのはある男の匂い。当たり前だ。今名前が横になっているのはその男のベッドなのだから。
 寝起きの頭でも今回倒れた原因は理解できている。寝不足と栄養不足だ。いつもと変わらない。
 柔らかなクッションから名残惜しくも頭を離し、上体を起こした名前は自分が下着以外の服を身に纏っていないことに気付いた。名前の就寝スタイルを知っている男が気を利かせて脱がしたのだろう。

「よぉ。起きたか」

 耳に届いた心地よい低音の声はいつも名前を安心させた。
 眼鏡を通していない視界では男──ソテツの顔をはっきり見ることはできないが、どんな表情をしているかはその声を聞けばだいたい分かってしまう。

「私はソファまで辿り着けていたのかな」
「ギリギリな」

 差し出されたカットソーを受け取り遠慮なく着込むが、体格差のせいか名前にとってはサイズが大きすぎる。冷たい床に素足で立てばカットソーの裾はちょうど下着を隠した
 まるでその服の下にはなにも身につけていないようにも見える姿をソテツは割りかし気に入っているのだ。生娘のように恥じらいの一つでも見ることができるなら満足なのだが名前は気にする様子もなくそのままベッドへと腰を落ち着かせた。

「やはり、一番先に気付いたのは君だったのか?」
「あぁ。そろそろヤバいだろうとは思ってたからな。様子を見に行って正解だったぜ」
「君には面倒ばかりかけているな……私もいい加減、自己管理くらいちゃんとしなければならないね」

 幼い頃から集中すると自分の事を疎かにしてしまうことについて自覚している名前であるが、周りに甘えるばかりで直せないでいた。今もソテツという存在が近くにいることで、自身が思っているよりもずっとその存在に甘えてしまっている。
 ──危ないと分かっているのに、私は離れられない。なんて自分勝手なのだろうか。
 だからこれ以上、距離を縮めることはしない。そう名前は決めていた。その想いを知ってか知らずかギシッとベッドを軋ませてソテツが隣に座る。

「俺は別に、ずっとお前の面倒見ても構わねぇよ」

 名前の顔を覗き込むようにして身を寄せるソテツの表情はいつもと変わらない。まるで相手を試すような微笑を浮かべ、口調はどこか優しげだ。鼓膜を震わせる低い声音が名前を癒した。

「お前の世話を甲斐甲斐しくできるのは俺の特権だからな」

 そして、同時に不安と恐怖をも駆り立てた。甘美な言葉の裏に隠れている”無関心”にはずっと前から気付いている。彼の言葉を素直に受け止めてばかりいてはいつか身を滅ぼすことを名前は心に刻んで忘れない。

「思ってもいないことを口にするものじゃないよ」

 名前はソテツの言葉を本気にしない。それはソテツも知るところだ。
 二人の間には一本の白く濁ったラインが引かれている。ギリギリのところに立ち合いながら、触れられる距離にいながら、お互いにそれを超えることは決してない。