ハロウィンの花嫁00


 爽やかな朝だった。天気は快晴で、昨晩から泊まりに来ている年下の恋人が作った朝食は文句の付けようもないくらい美味しい。
 仕事の支度を済ませ、数日前から用意していたとある小物を引き出しから取り出した。掌に乗った冷たく軽いそれをぎゅっと握ると次第に体温が移っていき冷たさはなくなる。大きな案件を抱えているため仕事へ向かう前に渡さなければ次はいつ会えるのか分からないな、と足早に寝室を出てリビングへ戻った。
 え、と声を漏らしたのは困惑の表情を浮かべた風見だった。こちらを一瞥した後、珍しく不自然に視線を背ける恋人からの返事をゆっくりと脳内で反復する。だが期待していた答えとは違うそれにやはり戸惑いが表れてしまう。
 ソファから立ち上がった名前の目がもう一度こちらに向けられ、そして横を通り過ぎていく。風見は咄嗟にその腕を掴んだ。

「待ってくれ。理由を教えてくれないか」
「そんなもんねぇよ」
「じゃあなんで僕を見ようとしない」

 それは決まって二人の間にある距離が変化する時に起こった。近づこうとすると名前からは拒絶の色が浮かび、離れていこうとする。ずっと一緒にいると覚悟を決めて、相手もそれを受け入れてくれた。だから風見はどこか安心していたのかもしれない。名前が何を恐れ、何を拒んでいるのか。その理由や過去を未だに全て明かされたわけではないというのに。

「話せないことなのか」
「……言う必要ある?」
「君は、いつもそうだな」
「それはお互い様だろ」

 そう返されてしまえば風見はそれ以上追及することはできなかった。例え家族であっても内密にしなければならないことのほうが多い職業だ。交際しているだけの相手ならば尚更言えないことは山のようにある。こちらの事は教えられない、だがそちらは答えてもらおう。これが仕事上のことならばはっきりと言えるがプライベートな人間関係であるなら別だ。とくに見た目とは裏腹に繊細で脆い部分を抱える恋人に無理強いはできなかった。
 掴んでいた腕を離せば名前はこちらを振り向かずにそのままリビングを出て行った。少しして玄関の開閉する音がして、部屋に静寂が訪れる。一人部屋に残された風見の掌の上には贈られるはずだった合鍵だけが残された。



 交際を始めてから風見の家で一緒に過ごす時間が増えていった。休日をただゆったりと過ごす日々もあれば、夜をともにしたこともある。店で酔ったところを名前が家まで送り届けてくれたこともあった。恋人が訪ねてくるのは決まって風見が在宅している時に限る。当たり前のことだがそれは単純に留守の家に入ることができないからだ。だから風見は名前がいつでも出入りできるようにと合鍵を用意していた。それほどの信頼を名前に対してすでに寄せている。喜んでくれるだろうかと勝手に期待していただけに「いらない」と断られてしまった時はかなりショックを受けたものだ。
 うっかりジャケットのポケットの中に入れてきてしまったそれを布の上から触れて息を吐いた。

「集中できていないようだな」

 背後からそう声をかけられ振り向きそうになるのを慌てて耐える。風見が座っているベンチと背中合わせになるように配置されているもう一つのベンチには安室透としての恰好をしている上司が座っていた。
 場所は都内のとある公園。平日と言えども人は多く、天気がいいからか芝生の上にレジャーシートを広げお弁当を食べいる家族もいる。潜入捜査を行っている降谷とこうして日中の人目があるところで接触する時は目立つ行動は避けなければならない。どこで誰が見ているかも分からないのだから、顔を合わせての会話は決してできない。

「なにか気になることでもあるのか」
「いえ、すみません」

 風見は足を組み直すことで動揺をなんとか隠した。
 しかしどこか覇気のないその声音に、姿は見なくとも部下の様子が降谷には筒抜けであった。また彼のことだろうかと脳裏に思い浮かべるのはポアロでともに働く高校生の姿。降谷は自分の部下は年下の男子高校生と交際をしている事実を把握している。その出会い以前の部下が仕事に対して真面目すぎる男であったこともだ。公安と言えども家庭を築いている者はいる。だから恋人の有無を否定するつもりはない。これまで仕事に支障が出ていなかったからこそ苦言はしてこなかったのだ。
 降谷はカモフラージュ用にと適当にスマホを弄りながらわずかに眉を寄せた。優秀な部下だと期待しているからこそ、緩んだ気持ちは引き締めなければならない。それも上司としての役割だ。

「厳しいことを言うようだが仕事に私情を持ち込むな。ひとつのミスが大きな過ちになりかねないのが僕たちの仕事だ」
「っはい、もちろんです」
「……例の件は引き続き捜査を続けてくれ」

 そう言い残した降谷がスマホを耳にあてながらベンチから立ち上がりそのまま去っていく。その気配を背中から感じとった風見は深く息を吐いた。
 風見自身、仕事とプライベートの切り替えはしっかり管理していたつもりだった。以前起こったエッジ・オブ・オーシャンでの爆発から始まった事件での出来事を思い出す。もしかしたらあの件を境に迷いが出てしまったのだろうか。仕事に対する姿勢も、優先度も、変わっていないはずなのに、それほど自分の中で名前の存在が大きくなっていたのか。合鍵を作ってしまうほどに。風見は無意識にポケットの中に手を入れてそれを握りしめた。
 それでも、と顔を上げた風見の視界にはお弁当を囲む家族の姿があった。降谷の言い分は至極正しい。厳しい言葉ではない。この道に進むと決めた人間にとっては当然の心構えだ。それを忘れてはいけない。気持ちを切り替えベンチから立ち上がった風見は幸せそうな家族から目を背けて歩き出した。



 どこかのクラスの連中がまた馬鹿なことをやっているのか新調された窓ガラスの割れる音が名前の耳に届いた。綺麗にしても落書きされるか壊されるか、窓としての役割すら果たせなくなるのだからいちいち直さなくてもいいものを。そう思いながらバイク雑誌を捲った。勉強とは余程縁のない鈴蘭生は本に囲まれた図書室など利用しない。騒然な学校内でも静かなそこは比較的他の教室よりも原型を保てている。
 ここが名前のテリトリーであった。もちろん喧嘩で勝ち取った場所であるため備品の多くが壊れているのはご愛敬だ。また職員室に近いというのもやんちゃな生徒が近寄らない理由の一つだろう。
 ツーリング記事に書かれた『一緒に走る楽しさ』という文字にふと今朝のことを思い出した。目を瞬かせ戸惑いショックを受けたような表情をする恋人の姿を。
 雑誌を机に放り投げ、パイプ椅子の背もたれに寄りかかりながら天井を見上げる。理由を聞かれて答えられなかった自分の態度はまるで拗ねた子供だった。それを情けないと思う一方で、そんな簡単なことではないという気持ちもある。ポケットからいつも持ち歩いているジッポライターを取り出して目の高さまで上げた。

「帰ってこねぇかもしれねーだろ」

 ────あんたみたいにさ。シルバーのジッポライターにはすでにこの世にはいない人物の名が刻まれていた。


 いつの間にか机に突っ伏して寝てしまっていた名前はゆったりと立ち上がり、ぐっと解すように体を伸ばした。外は薄暗くスマホで時間を確認しつつバイトが入っていなかったことに安堵する。暗い図書室を出て駐輪場へ向かいながら割れた窓から校庭を眺めた。下校の時間などという概念は鈴蘭にはない。同時に登校の時間もだ。だから暇な奴らが居残って、今まさに校庭で花火をやろうとしている生徒もいる。能天気な奴ら、と呟いて駐輪場に停めてあったバイクに跨った。
 住んでいたアパートが火事でなくなってから阿笠博士の家に居候を始めた名前はバイトのない日以外は積極的に家事を行っている。本来なら今日も夕飯を作る担当であったが家主ともう一人の同居人は子供たちを連れて外出しているらしい。夕飯はいらないというメッセージがスマホに届いていた。
 そういう事情もあって名前は阿笠邸に帰らずバイクを走らせていた。気の済むまで走ってそれからどこかで食べて帰ろうと考えていたのだ。

「あら名前くんじゃない」

 そんな名前を呼び止めたのは帰宅途中の佐藤であった。珍しく警視庁から徒歩で街中まで来ていた彼女は路肩で一時停止していた見覚えのあるバイクに気付いて声をかけたのだそうだ。


 多くの話し声が混ざりガヤガヤとした居酒屋のカウンターに座りメニュー表を眺める名前は制服姿のままだった。時間帯と場の雰囲気に合わないその装いに隣に腰かけた佐藤が申し訳なさそうな表情を見せる。

「悪いわね、こんなところで」
「いいよ。俺、居酒屋料理って結構好きだし」
「好きなの頼んでいいわよ。私の奢り」
「やった」

 目と口元を嬉しそうに緩めた名前は近くにいた店員を呼び止めてメニューからいくつか注文する。その様子に眉尻を下げた笑みを浮かべた佐藤も生ビールとつまみを数品頼んだ。今日は飲もうとしていたから車は置いてきたのだ。
 佐藤が名前を食事に誘うのはよくあることだった。今は亡き同僚との約束もあるが、一人残された子供を心配するのは当然のこと。でも身内ではないし仕事上多忙な日々を過ごしているから毎日気に掛けることはできない。だからたまに顔を合わせた時くらいはこうして食事に誘っている。なにより今となっては佐藤にとって名前は弟のような存在に近かった。

「貴方と出会ってもう三年になるのね」

 他愛ない話の途中でそう切り出したのは注文した料理が半分ほど減った時だ。佐藤が名前と出会って三年。それは松田が亡くなってからの年数を意味していた。実際に一緒に過ごした時間は一年にも満たないかもしれない。それでも少しの変化に気付けるくらいには苗字名前という人間を知っている。

「なにかあった?」
「なんで」
「浮かない顔してるわよ」

 名前に対する心配事はたくさんある。通っている高校のことや過度なアルバイト。最近ではよく事件に遭遇しているためその不安も。それでも以前と比べれば精神的な危うさは感じなくなった。そう思っていたのに今の名前からは、あの日、松田が亡くなった日を彷彿とさせる雰囲気を確かに感じた。
 優しく見守るような眼差しを向けられた名前は伏し目がちになりながら視線を逸らした。持っていたウーロン茶の入ったグラスをテーブルに置いて、水滴で濡れた指同士を擦り合わせながら口を開く。

「俺……恋人ができたんだ」

 まるで独り言のように呟かれたその告白に佐藤は驚いた。もし今この場に噂好きの婦警がいたらニヤニヤしながら根掘り葉掘り聞き出していたことだろう。それとも空気を読んで遠慮するだろうか。

「年上で、堅物で、おまけに警察官。俺、やっぱり松田さんを追いかけてんのかな」
「そんなことない。貴方はちゃんとその人だから好きになった。そうでしょう」
「さぁ、松田さんを重ねたのかも」

 自嘲気味に笑う名前に眉を寄せる。ずっと過去に、松田に縛られている姿を見てきたからこそ、大切な人ができたと聞いて佐藤は自分のことのように嬉しく思った。彼もちゃんと前に進めているのだと。なのに名前自身がそれを否定しているようだった。もし本当に過去の人と重ねているのだとしたら、それはとても辛く悲しいことだ。
 そんな佐藤の気持ちを察したのか名前は小さく笑みを零しながら冗談だと言った。もう一度水滴の垂れるグラスを持って円を描くように揺らす。中の氷がぶつかってカランと軽い音が鳴った。

「あの人全然松田さんに似てないんだ。でも同じくらい優しくてさ、同じくらい俺を大事にしてくれる。だから……」
「またいなくなるのが怖い?」

 言い淀んでしまった言葉の続きを見抜かれてしまい適わないなぁと口元に笑みを浮かべた。名前は自身の悩みや抱えているものを簡単に口にしたりはしない。相手が恋人であってもそうだ。しかし佐藤とは同じ悲しみと過去を共有している。だから話せるのかもしれない。だから解ってしまうのかもしれない。

「佐藤さんは乗り越えられた?」
「どうかしら。そう思いたいけど、事件で高木くんが無茶をすると不安で堪らなくなる。だからってこの仕事を辞めることも辞めさせることも私にはできないのよね」
「うん。俺もあの人に辞めて欲しいわけじゃない。そういうところも含めて俺は選んだから」

 顔を合わせた二人はお互いに困ったように笑った。
 そう、名前は確かに自分で選んだ。自分で選んで、真剣に好意を抱いて、交際している。そこに偽りなんてものはない。それなのに前に進むのが怖くて迷いが生じてしまった。覚悟だって決めたはずなのに。あぁ、いや違う。自分はただ風見の覚悟を受け入れただけにすぎない。相手に望んでばかりで自分はそれに甘えてずっと過去ばかり見ていた。いつか話さなければと思ってはいても、なかなか切り出すことができないのは自分が弱いからだろうか。
 グラスに視線を落として考えに耽っている高校生の姿に、佐藤は三年前に受け取ったメールのことを思い出す。すでにそのメールは削除してしまったが内容は見なくてもはっきりと覚えていた。

「貴方の気持ちを伝えてみたらどうかしら」

 松田も名前も一番大事なことを伝えられないまま永遠の別れになってしまったことを佐藤だけは知っている。だから同じような過ちは決してさせてはいけないと強く感じた。

「不安は消えないかもしれないけど、もしかしたら少しだけ軽くなるかも」

 そう言ってビールの入ったグラスを傾ける佐藤に視線を向けた名前は自分のグラスから手を放し頬杖をついた。

「佐藤さんは強いね」
「そう?」
「高木刑事のおかげかな」
「ちょっと、からかわないでくれる?」

 アルコールのせいか、それとも照れているのか。頬を染めた佐藤からジト目を向けられ名前は誤魔化す様に皿に残っていた料理を口に運んだ。決してからかっているつもりはなかったのだが、きっと周りからも同じようなことをからかい口調で言われたことがあるのだろう。名前としては松田の想い人がちゃんと幸せになってくれていることがただ嬉しいだけなのだ。

「そうだ、今度結婚式があるのよ。私と高木くんの」

 だからその話を聞いた時、すぐにでも報告しようと少し早い墓参りに行きそうになった程だった。