カスミ


 アトリエを訪れるのはなにも掃除するためばかりではない。運営から預かった公演スケジュールの紙を手に、数日前に掃除を済ませ比較的綺麗な部屋へ足を踏み入れた。
 部屋の主は作業の手を止めて休憩中らしく、差し入れされたであろうおにぎりを頬張っている。

「今大丈夫スか?」
「五分だけならいいよ」
「了解ッス」

 最後の一口をよく噛んで飲み込んでからスケジュールの紙を受け取った名前が、指に付いた塩を舐めとった。その時キラリと光るものがカスミの目に止まる。
 スターレスでピアスをつけている人は珍しくはない。むしろメンバーの半数は耳に穴を開けている。
 だがカスミが実際にそれを目にしたのは初めてかもしれない。

「名前さんって舌にピアスしてるんスか?」
「ん、知らなかったっけ」
「初知りッスよ〜。あの、良ければ〜なんスけど……見せてもらってもいいッスか?」
「別に面白いものじゃないよ」

 名前は困ったように笑いながらも控えめに口を開けて舌を出した。抵抗なく自分の舌を見せることができるのはピアスをつけるようになってから「見せて」とお願いされたことがあるからだ。
 だからこそ戸惑いを感じたのはカスミのほうであった。
 作業用のイスに座ったままこちらを見上げるようにして顔を上げ、なんの躊躇いもなく舌を出す名前の姿にごくりと唾を飲み込む。脳内では良からぬ妄想たちが駆け巡った。
 ダメだと分かっていながらも、抑えることができないカスミの両手が体温の低い名前の頬を包み込むように触れる。舌の上にある小さなピアスが部屋の照明を反射して輝き、誘惑にも似たそれに誘われるまま至近距離まで迫った。
 
「舌、引っ込めちゃダメッスよ」

 熱い息を吐きながらカスミの舌先が名前の舌の上にあるピアスを撫でた。外気に触れていたそれはひんやりとしていたが、感触を楽しむように何度も舐めると次第に舌と同じ温度まで上がってくる。
 だんだんと引っ込んでいってしまう舌に一度顔を離した。だが艶かしく濡れる唇を前に理性を保てず、今度はその口を塞いだ。
 時々少し名前の唇を食むようにして音を立てながら、繰り返し、何度も触れるだけのキスを落とす。
 名前の頬を包んでいた手が、指が、するりと滑って耳につけられたピアスに触れる。擽るようにして耳たぶへ触れると悩ましい声が漏れる彼の薄く開いた唇を塞いで舌をねじ込んだ。
 唾液で濡れた舌が絡みつく音を耳にしながら、カスミは前髪で隠れた目を細めた。頬が熱く、自分が欲情していることを自覚する。
 しかし呼吸を忘れるくらいの深いキスはカスミの舌を甘噛みした名前によって終わりを告げた。

「カスミ、……」
「っはぁ……なんスか」
「五分、経った」
「もう少しだけ、」

 浮かれた熱はそう簡単には下がらない。名前の色白の頬だって向けられた欲に対し紅みを帯びている。
 その頬を親指で撫でてまた口付けを交わそうとするも、二人の間に名前の手が壁となって現れカスミの行為を阻んでしまった。

「時間厳守はサラリーマンの基本だろう?」

 確かに五分だけと言われ了承したのは自分だ。五分前の自分はまさかこんなことになるなんて知らなかったのだから、今更後悔しても仕方がない。
 不満は残るが社会人として一度口にしたことを曲げてはいけないな、とカスミは乾いた笑い声をあげながら体を離した。

「名前さんは厳しいッスね」
「私は優しいほうさ。キスを許したのだから」

 作業台に肘を付いた名前は濡れた唇を親指で拭うとそれを舐めとった。その仕草が雄を刺激するとも知らずに。

「やっぱりもう一回だけいいッスか?」
「しつこいぞ」

 イスの肘掛に手をついて再び迫ってくるカスミの前髪で隠れた額を、苦笑した名前は容赦なく叩いたのだった。