アトリエのソファでまったりと貧乏王子のバイト話を聞いていた名前は、隣に座る真珠が急に黙ってしまったことを不思議に思い、太ももに肘を乗せるようにして顔を覗き込んだ。
「あのさ、名前……聞いてほしいこと、っていうか……お願いがあるんだけど……」
「なに?」
「えーっと……」
いつも元気いっぱいな彼は口ごもりながら膝の上に両手を乗せて遠慮がちに明るいオレンジ色の瞳を向けてきた。
あまり見ることのないその様子になにか深刻な悩みだろうか、と相手の気持ちを落ち着かせるために柔らかな表情を浮かべて言葉を待つ。
「キス、させて?」
待った末に発せられたこの返答にはさすがの名前も驚いて目を瞬かせた。口にしたのが黒曜や晶であったなら笑いながら部屋から追い出しているところである。
だが相手は悩み多き思春期時代をほんの一、二年前まで過ごしてきた大人の階段を駆け上っている最中の青年だ。
そんな彼を揶揄う程冷たい人間ではない名前は、真っ直ぐに向けられる瞳を受け止めて優しく微笑んだ。
「どうしたんだい、急に」
「実は昨日、晶たちと誰が一番キスするのが上手いかって話になってさ」
「小学生か……」
発端があまりにも下らなすぎるが真珠は真剣に悩んでいるようなのでそれ以上何も言うまいと一旦口を閉じる。
「おれってアイドル目指してたからさ、そういう経験ってあまりないんだよね。だから、どんな感じなのかなーって気になっちゃって」
アイドルの恋愛はタブーとされている世の中だ。真珠がいつからアイドルを目指していたのか名前の知るところではないが、今まで敢えてそういったことを避けてきたのかもしれない。
名前自身、学生時代は恋愛なんてものはしてこなかったしキスやそれ以上の行為も大人になってから経験したこと。
だからまだ二十歳にもなっていない彼の経験値が低いのは別に恥ずかしいことでもなんでもない。これからいろいろと経験していけばいいのだ。
前向きで明るい真珠の性格を考えれば名前と同じ結論に辿り着くであろうと思ったが、おそらく晶や黒曜あたりになにか言われたのだろう。
「状況は分かった。でも、そんな貴重な体験を私に費やしてしまっていいのかな」
「いいよ! 名前綺麗だし!」
「あまり理由になってないような気がするんだけど……まぁ、しょうがないか」
「ほんと!?」
勢いよくソファから立ち上がって驚きながらも嬉しそうな反応をする真珠を見上げながら困り眉をちょっとだけ下げて笑う。
名前は彼のことをとても可愛く思っている。純粋で素直な性格もそうだが、時々カスミと一緒に部屋を掃除しに来てくれる優しい心遣いに好感を持っていた。
何よりも真っ直ぐに慕ってくれるところが心地いい。
一方、緊張の面持ちで目の前に座っている名前の肩をぎこちない動作で掴んだ真珠は、布一枚隔てた温もりを掌いっぱいから感じ取り心臓の鼓動を早めた。
「ね、ねぇ……恥かしいから目瞑っててくれない?」
「はいはい」
小さく笑みを零した名前はかけていた丸眼鏡を外してから瞳を閉じる。
騒がしい鼓動の音を落ち着かせるために静かに深呼吸をした真珠は意を決して端正な顔を見下ろした。普段色の入ったレンズをかけていてよく見えない名前の目元がオレンジの瞳へと鮮明に映る。
目の下には薄っすらと隈ができておりあまり睡眠が取れていないことが分かるし、右目の下にある泣き黒子が色っぽい。
そのまま形のいい鼻筋を通り視線を下げていくと閉ざされた唇が視界に入った。女の子のぷっくりとした柔らかそうな唇とは違って薄い。
ゆっくりと慎重にその唇に近づいていく。もう少し、あと少し。
心臓の音がすぐ耳元で鳴っているのかと錯覚するほどうるさい。
目を瞑ってなにも見えない視界の中で少しずつ真珠の顔が近づいてくる気配を感じていた名前だったが、口とは別の思わぬ場所に触れた温もりに瞼を上げた。
「あーやっぱ恥かしいから無理!! ごめん名前!!」
「謝る必要なんてないさ」
真っ赤になった顔を両手で押さえながらソファに腰を落とした真珠が口付けたのは唇ではなく瞼であった。あと僅かでキスできる直前になって好奇心よりも羞恥心が上回ってしまったようだ。
「真珠、自分のペースでゆっくり大人になるといいよ」
恥ずかしさに俯く真珠のセルリアンブルーの髪を撫でて顔を上げさせた名前は、前髪を上げている彼の額にキスを贈った。