渋谷ヒカリエの上層階にあるチャペルには見知った顔が揃っていた。警視庁の刑事たちを始め探偵の毛利小五郎、娘の蘭やその友人の鈴木園子。そして例に漏れずコナンを含めた少年探偵団の子供たち。その中には片手にハンディカムを構えている名前もいた。カメラの画面には白いタキシードを着た高木刑事が映っている。その視線は緊張気味にチャペルの扉をじっと見つめていた。
一方で参列している側、とくに子供たちはわくわくしながら今か今かと待ち望んだ様子で扉のほうを向いている。
「小嶋くんの言うように随分と急に決まったわね。佐藤刑事と高木刑事の結婚式」
「だな。名前さんも聞いてなかったんだろ?」
「知ってたら慌てて服買いに行かねぇよ」
これまで礼装を着用したのはホテルなど畏まった場所での短期バイトでしか機会がなかった。それも支給品であったためプライベートの用事で着たことはない。幼少の頃、両親が離婚する前には何度か着せられたことはあったがそれはノーカウントだ。鈴木財閥関係のパーティーに招待された時だってそこまで上等な装いはしていない。
今回名前はシックなダークスーツをきっちりと着こなしていた。普段のイメージとは程遠いその姿は、彼という人間をよく知らない他人からすれば容姿の整った見栄えのいい青年に見えるだろう。実際には毛利小五郎から馬子にも衣裳だなと評されたようにそちらが正しい見解だ。生活費や学費をバイトで稼いでいる名前には金銭的な余裕はない。あったとしても趣味のバイクに消えていく。
しかしこのダークスーツは自費で購入したものだった。決して安くはない買い物だったがいつか迎える来たる日のためにと思い切って奮発したのだ。生憎とこういったファッションのブランドには詳しくないため、買い物好きの女子高生組に付き合ってもらったのはつい先日のこと。着せ替え人形よろしくあれこれと着せられたが最終的に選んだのは名前自身だった。
「でも丁度よかったんじゃない。一つでも正装は持っておくべきよ」
「そうそう。今後も必要になる時が来るかもしれないし」
「俺だってそうなることを願ってるよ」
何か別の意味を含ませたような物言いにコナンと哀は目を合わせて首を傾げた。しかしそれが疑問として意識に残る前にチャペル内には音楽が流れ始め、ついに扉が開いた。名前はゆっくりとハンディカムを扉へ向ける。そこには純白のウェディングドレスに身を包んだ佐藤が立っていた。参列者の中から感嘆の声があがる。画面越しではあったが一目見ただけで名前も心の底から綺麗だと思った。
モーニング姿の松本管理官にエスコートされながらバージンロードを歩く花嫁をカメラで追っていく。緊張で体が強張っている高木とは違い、堂々とした姿はより彼女の美しさを際立たせている。そんな花嫁姿の佐藤を前に目を輝かせる子供たちや、想い人の未来の花嫁を想像しては揶揄われているコナンを尻目に名前は過去の人を思い出していた。こんなに綺麗な佐藤さんを見れないなんて残念だったね、と。冗談交じりのその言葉は決して届くことはなく名前の胸の中だけで呟かれた。
「──あなたは生涯、美和子さんを守り続け、笑顔を絶やさず、幸せにすることを誓いますか?」
「はい、誓います!」
祭壇の前に並んだ新郎新婦へ神父が誓いの言葉を問い、緊張した面持ちの高木の宣言はチャペル中に響くほど大声であった。カメラで撮れているのは二人の後ろ姿だけのため、偽りのない高木の答えに対し佐藤がどう受け止めているのかは解らない。神父は次いで花嫁のほうを向いた。
「あなたはどのような時も渉さんの支えとなり、生涯愛し続けることを誓いますか?」
同様に誓いの言葉を問いかけられ、そして────花嫁の宣言が聞けることはなかった。突如としてチャペルの扉が乱暴な音を立てて開かれたのだ。扉の向こうには思い詰めた表情でナイフや日本刀などを持った四人の男が立っており、佐藤の名を荒々しく叫ぶ。男たちは、そんな奴と結婚するなら殺してやるなどと物騒なことを言いながら祭壇の前へ突っ込んでいった。いつの間にかカメラのレンズはその男たちに向けられており、まるでそうなることが解っていたかのように手振れることなく撮影されている。
そこで突然、神父が自分の顔を掴んで眼鏡と髭を剝ぎ取り、見慣れた中折れハットを被って叫んだ。
「確保ぉ!!」
それは参列者の中にはいなかった目暮であった。彼の声を合図に参列席にいた刑事たちがバージンロードを突き進む男たちへと向かっていく。そこには小五郎の姿もあり刑事たちよりも先に男たちの前へと立ちはだかった。急な出来事にも関わらずその迅速な行動に驚いたのはコナンや蘭たちだ。
乱入してきた男たちともみ合いになりながらも刑事たちは体を乗り上げて取り押さえた。しかし拳銃を持った一人の男が刑事たちの隙間から上半身を抜け出してしまう。それを目にしたコナンは咄嗟にチャペルの長椅子の上に乗るとボール射出ベルトを握り、靴に手を伸ばした。だが指先が触れた靴の感触がいつもの物と違うことにハッとなる。
「しまった! 靴がちげぇ……!」
結婚式に出席するため今日はキック力増強シューズではなかったのだ。
その傍らで突然の出来事にただ見ていることしかできなかった哀は、焦るコナンから視線を外し隣に立つ名前を見上げた。誰にでも手を差し伸べるような人ではないが、子供たちや親しい相手のためならば立ち向かうことを知っている。佐藤とはそれなりに長い付き合いであるということも哀は聞いていた。なのに名前は慌てることもなくただ今目の前で起こっている騒動にカメラを向けているだけ。それだけですでにおかしいと、少しずつ頭の中が整理されていく。
しかし哀の思考を遮るようにしてチャペルには似合わない銃声が響いた。刑事たちの間から上半身を出していた男が祭壇に拳銃を向けている。銃口の先には佐藤を庇うようにして高木が立っており、白いタキシードの左胸は真っ赤な血液が滲んでいた。
「高木くん……!」
崩れ落ちる高木を咄嗟に佐藤が抱きとめる。するとそこで「訓練終了ぉ!」という目暮の声が式場に響き渡り、その号令に男たちを取り押さえていた刑事たちが渋い表情で立ち上がった。実は、これは華やかな結婚式ではなく本番を想定した彼らの訓練だったのだ。
困惑する子供たちとは違い哀がいち早く状況を飲み込むことができたのは隣にいる名前のおかげと言えるだろう。もし訓練ではなく本当に起こった事だとしたら銃弾を受け止めていたのはこの青年だった可能性も否定できないのだから。そう思いながらハンディカムの画面を確認している名前を見上げた。
「貴方は知っていたのね」
「まぁな。俺は血の気が多いから乱入しないように、だってよ」
「それで撮影係ってわけ」
下から呆れたような視線を受けて名前は肩を竦めた。
数週間前に今回の件は個人的に佐藤から話を聞いていた。もちろん最初は二人の結婚式だと告げられ喜んだがそれも僅かなひと時だけだった。本番さながらの環境で訓練を行うため警視庁の刑事と協力してもらう毛利小五郎以外には事情を知らせずに参加してもらうこと。招待客の中に名前も含まれていること。本番である村中元警視正の結婚式には参加しない人間が訓練と知らずに介入し、本来の目的である刑事たちの訓練を妨げるのを避けること。それらの事情を説明された名前は警視庁の備品であるハンディカムを渡され訓練の一部始終を撮影していたというわけだ。
撮影した映像を眺めていた名前の表情が曇った。画面の中では暴漢を取り押さえる刑事たちの奥でぐったりと倒れている高木を抱きとめ見下ろしている佐藤の姿が映っている。その表情が青褪めているように見えた。
「どうかしたの?」
「いや……終わったみたいだしこれ返してくる」
電源をオフにしパタンと画面を閉じて向かったのは会場の隅にいる佐藤のもと、ではなかった。ちらりと見た彼女の傍には友人である宮本が付き添っている。名前にはなんとなく解ってしまったのだ。例え虚構だとしても佐藤の感じた恐怖を。見えてしまった景色を。だから今、伝えるべき言葉があるのは別の相手だと判断した。
胸元の赤い塗料を布で拭い落としている高木は視界に映った誰かの足に視線を上げた。
「高木刑事」
「あぁ苗字くんか。悪かったね、君にも手伝わせちゃって」
「別にそんなことはいいよ。それよりも」
「え、な、何かな?」
睨まれているわけではないが、すっと細められた眼光の鋭さに思わず高木はたじろいだ。何かを探るように、何かを確かめるように、名前の視線はブレることなく真っ直ぐに戸惑う高木の瞳を見つめていた。そしてその視線がゆっくりと赤く滲んだ胸元へと移っていく。
「結婚、もし真剣に考えてるなら、あんま無茶しないでやってほしい。傷つくのはきっとあんた一人じゃないからさ」
それだけを言うと持っていたハンディカムを高木に押し付けて背を向けた。訓練だから無事だったにすぎない。もしあの銃弾が本物であれば、せっかく前に進めた佐藤がまた囚われて苦しんでしまう。そんな姿を名前は見たくなかった。だから余計なお世話だと解っていても一言くらい言っておきたかった。でもきっと無駄なのだろう。警察官になる人間の正義感や義務感というものをよく知る名前は困ったような笑みを浮かべるしかなかった。
翌日。午前シフトのバイトから帰宅した名前がバイクを停車させたガレージから出てくると、丁度玄関から出てきた少年探偵団に見つかった。そして家に入る暇すら与えてもらえないまま両手を引かれどこかへと連れていかれる。また面倒なことに付き合わされるのではないかと顔いっぱいに不満気な表情を浮かべると隣を歩くコナンが苦笑した。
「飯食いに行くだけだよ」
「おまえらだけでか?」
「まさか。小五郎のおっちゃんの奢り」
「なんだよそれを先に言え」
歩美に手を引かれるがまま歩いていた名前は『奢り』という言葉を聞いて意気揚々と足を進め始める。途中で蘭とも合流し一行は待ち合わせ場所である警視庁前へと向かった。
そこで待っていた小五郎はもちろんこんなにも大人数になるとは思ってはいない。冗談じゃないと声を荒立てたが、結局、声を揃えてご馳走にあずかろうと主張する無邪気な子供たちを前に折れてしまうのはいつものことである。しかし小五郎には特別にもう一言だけ言わなければならない相手がいた。
「つーか、なんで不良高校生までいるんだよ。おまえは止める側だろうが」
「名探偵様が美味しいもん食わせてくれるっつーから。いやぁ羽振りがいいすねぇ、さすが名探偵様」
「けっ、こんな時だけ調子に乗りやがって。いつもみたいにめんどくせぇって断りゃいいのによ」
「給料日前で金ねぇし俺もゴチになりまーす」
「ったく。いいか、高いもんは頼むなよ」
不満そうに文句を言いながらもちゃんと勘定に入れてくれたことに感謝しつつ、子供と同レベルだったなと名前は少しだけ申し訳ない気持ちにもなった。だが給料日前で金欠なのは本当なのでここは素直に奢ってもらうことにする。
何を食べさせてもらうかを話している子供たちの声を聞きながら桜田門を出てぞろぞろと歩道を歩く。するとそこで一人の外国人男性とすれ違った。ただすれ違うだけならば気にすることはないが一行の最後尾を歩いていた名前は足を止めた。それは前を歩いていた哀が落とし物に気付いて外国人男性に声をかけたからだ。
「あ、ねぇ! これ落としたわよ」
男性のポケットから落ちたであろうメモを拾って歩み寄っていく小さな背中を視線で追う。膝を曲げてメモを受け取った男性の口元が言葉を紡いでいるところを見るに哀と二言三言会話をしているようだ。生憎と声までは聞こえてこない。踵を返した哀が皆の元へ戻ってこようとしたその時、外国人男性の持っていたタブレットから電子音が鳴り響いた。
「っ哀!!」
名前は反射的に足を踏み出し手を伸ばす。だが音に反応し立ち止まってしまった哀へとその手が届く前に大きな爆裂音とともに衝撃が全身を襲った。一瞬の熱さの後、爆風で吹き飛んだ体は歩道と車道を隔てる植え込みに受け止められた。
「名前お兄さん!」
「灰原!」
悲鳴に近い歩美の声が自分を呼ぶが、直後に聞こえた焦るコナンの声に名前はハッと目を開いた。先ほどまで哀が立っていた場所を見るが、そこにいたのは激しい炎に包まれて倒れている男の姿のみ。哀はどこにいる、と顔を左右に動かすがその姿はどこにもない。ふと視界の端で植え込みを飛び越える小五郎の姿を捉えた。すぐに崩した体勢を整え立ち上がると車道を振り返る。目の前には車が急停止をしてしまい車道にいるであろう二人の姿が見えない。大型トラックがクラクションを鳴らしながら急ブレーキをかけている。まさか、と顔を顰めた名前が植え込みを飛び越えた時、鈍い音が耳に届いてトラックが止まった────。
警視庁前で起こった突然の爆発。男を包んでいた炎はすでに鎮火されたがあたりは未だ騒然としていた。報道陣や野次馬が警視庁前に集まっているからだ。担架に乗せられ救急車へ運ばれていく小五郎から視線を外した名前は事情聴取を受けている哀へと顔を向ける。小五郎の咄嗟の行動のおかげで彼女に目立った怪我はなかった。だが、その事実に安心はしたものの素直に喜ぶことはできなかった。
そんな複雑な気持ちを抱いている名前に、哀から爆破前の外国人男性との会話を聞いたコナンが近寄っていく。
「大丈夫。組織の連中の仕業じゃなさそうだよ」
そう伝えたのは、彼女が巻き込まれたことで自分と同じように組織が関係しているかどうか疑いを持っているだろうと考えたからだ。話を聞いた限りでは少なくとも組織が彼女を狙ったわけではない。だからこれを聞いたら安心して険しい表情も和らぐかと思っていた。
「そうか、ならいい」
しかし表情は変わらず、返事の割にはどこか苛立ちを滲ませる声音をしていた。一瞬目を瞬かせたコナンだったがすぐに先ほどの出来事を思い出し、理由は別にあるのだと思い至る。
あの瞬間、爆風で車道まで吹き飛ばされた哀を名前が助けるのは物理的に不可能だった。彼自身同じように爆発の衝撃をその身に受けていたのだから仕方のないことだ。誰も彼を責める人はいない。それは本人も解っていることで、だからこそ不甲斐ないと感じているのだろうと察することができた。もとより、薬で小さくなってしまった少女のことは自分の命を懸けてでも守ろうとする人だとよく知っているからこそ解ってしまう。
今だって報道カメラに少女の姿が映らないような位置で立ち塞がっているのだから。コナンは敢えてそれ以上言葉を続けることはしなかった。
現場検証を行っている目暮たちの元へとコナンが向かった後、名前は事情聴取を終えた哀に歩み寄った。そして目線を合わせるように地面に片膝をつくと、コンクリートの塀に腰かけた少女は呆れながらも穏やかな微笑みを浮かべた。
「なんて顔してるのよ」
「男前だろ?」
「馬鹿ね。貴方が責任を感じることじゃないわ」
「解ってる。でも次は、必ず護る」
真っ直ぐに向けられた言葉に哀は目を細めた。電子音が鳴り響いてタブレットが爆発する直前、しっかりとその耳には名前の声が届いていた。必死に手を伸ばす姿を瞳が捉えていた。その事実だけで充分なのだ。むしろ身を挺して守ってくれたのが彼でもし打ちどころが悪かったら、と想像するだけで哀にとっては恐怖だ。だがそれを伝えてもきっと名前の意志は変わることはない。そして自分も心の片隅でそうあってほしいと望んでしまっている。
コナンへ向ける信頼感とはまた別に、名前から与えられる安心感がすでにその身に染みこんでいた。
「痛いところはないか」
「平気よ。貴方はどう? 首の後ろ、ちょっと血が滲んでるわ」
「あー、枝で引っかいただけだ。問題ない」
「ちゃんと消毒しなさいよね」
「はいはい」
改めて哀に怪我がないことを再確認し安堵の息を吐いた名前はようやく強張っていた顔の力を抜く。と、そこに事情聴取を終え報告に行っていた佐藤が戻ってきて声をかけられた。
「名前くん、ちょっといいかしら」
「……なにかあった?」
どこか困惑している様子に眉を寄せながら立ち上がる。すると躊躇うように一枚の小さな紙を差し出された。形やサイズ感からどうやら名刺のようだ。どうしてそんなものを自分に見せるのかと疑問を抱きながら一歩近寄って印刷された文字に目を通し、一瞬だけ呼吸を忘れた。そこにはこう書かれていた。捜査一課強行犯三係──松田陣平、と。
「被害者の荷物から出てきたの。ロシア語を話す外国人男性に覚えはあるかしら」
「……悪いけど記憶にないよ。松田さんロシア語なんて喋れなかったし知り合いにはいなかったと思う」
「そう、よね……」
三年前に亡くなった松田の名前がこうして目の前にある事実に二人は動揺を隠せなかった。引き出しの中から出てきたとか、かつての仕事仲間が持っていたとかならここまで驚くこともなかっただろう。
知人の中で一番松田を知っているであろう名前でも被害者との繋がりは解らないまま。そのことが多少なりとも佐藤に焦りを生んだ。それが表に出てしまったのか、聴取は終わったからもう帰っても大丈夫だとだけ言い残して踵を返すと手首を掴まれた。
「待って、佐藤さん。俺にも手伝わせて」
これまでいくつもの事件に名前は関わってきた。しかしそのほとんどが不可抗力なものだったり、子供たちを助けるためのものだった。逆を言ってしまえば、子供たち──主に哀が関わっていなければ自分から首を突っ込むことはない。その為、今、彼の申し出を断るべきなのだ。普段と同じように危ないからと拒む姿勢を見せなければいけない。それなのに佐藤には名前の言葉が救いの手に見えてしまった。
佐藤が知っているのは仕事上での松田だ。それもたった一週間だけの。だからよく覚えている。一方で捜査一課に転属してくる以前のことやプライベートなことは又聞きでしか知らなかった。しかし名前はその逆だ。佐藤の知らないことを知っている。もしかしたら今回の事件に関係していることも何か覚えているかもしれない。
そんな僅かな希望でさえも必死に掴みたい心境になっていた。
阿笠邸に子供たちを連れ帰ってきてすぐに愛用のバイクをガレージから引っ張り出した。昼飯の対応を博士に任せて警視庁へ戻ろうとしていたのだ。だが、門の前で仁王立ちしていた哀がそれを引き留めた。
小さな手に引かれて家の中へと戻ってきた名前は問答無用にソファに座らされると膝の上には救急箱が乗せられる。箱の中から消毒液とガーゼ、そして絆創膏を取り出した哀はソファの上に立ち、目線の高さになった後ろ首を隠すように伸びた襟足の髪を優しく払った。爆風で飛ばされた体を受け止めた植え込みの枝によって首の後ろにはいくつかの擦り傷や切り傷があった。
「少しは冷静になりなさい」
そう声をかけながら消毒液を染み込ませたガーゼで傷口を撫でるように押し当てる。哀は名前にとって松田がどういう存在なのかを知っていた。自分が姉の話を打ち明けたのと同じように、彼もまた過去の思い出を語ってくれたのだ。そのおかげか、いつもと少し様子が違うということにも気付くことができた。
「事件に首を突っ込むのは工藤くんだけにしてもらいたいわ」
「俺は危ない橋を渡ろうとはしない」
「どうかしら」
少しだけ血の滲んだガーゼを綺麗なものに取り換えてもう一度傷口に触れていく。キッチンからは子供たちが博士を急かしている声が聞こえてきた。二人の会話はそんな賑やかな空間で静かに交わされている。
「覚えてる? 貴方、恋人の生死が定かじゃなかった事件には関与しようとしなかったのよ」
ガーゼを離し絆創膏を貼るとその上から指先でそっと傷に触れた。
自分ではどうにもできないことがある。それを哀も名前も知っている。それでもじっとしていられないのは知りたいと思う欲求があるから。知らなければならないという使命に似た何かがあるから。哀にとっては姉がそうであるように、名前にとっては松田がそうなのだろう。生きている人間を追うことと死んでしまった人間を追うのは、きっと同じじゃない。だから心配なのだ。
「責めてるわけじゃない。私はただ……いえ、なんでもないわ」
ソファから降りて救急箱に消毒液などを仕舞った哀は箱を持ってさっさと背を向けてしまう。その後ろ姿に名前はうなじに貼られた絆創膏を撫でながら目を細めた。そしてソファから立ち上がると心優しい女の子の頭にそっと手を乗せる。
「ちゃんと解ってる。無茶はしねぇ」
いつもであれば子供扱いしないでと振り払っているところだ。しかし哀は大人しくその手を受け入れた。離れていく温もりと、遠ざかる足音にようやくゆっくりと振り向く。すでに名前の姿はなく、バイクのエンジン音が耳に届いた。いつの間にか救急箱を持っている手に力が入っていることを自覚する。
「ったく、全然解っちゃいないわよ」
漏らした笑みに含まれた切なさに似た感情に哀は気付かない振りをして、賑やかな子供たちの輪に入っていった。