この日、隠し刀は珍しく外出もせず長屋の裏にある菜園を整えていた。各方面から頼み事をされる性分のため長屋に帰らない日も珍しくない。そうして数日振りに戻ってくると育てている作物の周りには決まって雑草が生えているものだ。ロバート・フォーチュン曰く雑草は作物に必要な栄養を奪ってしまうため取り除かなければならないとのこと。種を巻き、適当に水をやれば勝手に育つだろうと考えていたが植物を育てるというのは中々に骨が折れるものだ。
菜園を綺麗にし、ついでに充分に実った作物を収穫してから室内へと戻る。後ほど調合をしようと一旦薬棚にそれを仕舞ったところ見慣れない小瓶が棚に置かれていることに気付く。はて、誰かの忘れものだろうかと軽く頭を傾げたがすぐに自身が貰い受けたものだと思い出す。
────あれは菜園で新しい種の作物を育てる挑戦でもしてみようとフォーチュンを頼りに小石川植物園を訪れた時のことだ。気候ごとにどの植物が育てやすいかという為になる話から始まり薄雲太夫への懸想を相談されたりと雑談を楽しんだ後、日ノ本では珍しい植物の種を貰い受けた。その帰り際だ。
「丁度いいところに来た。貴方に試してほしいものがある」
小石川植物園を去ろうとすると毒と薬学に長けるアレクサンドリア・モローに声をかけられた。その手には小瓶が握られており、こちらへ差し出してくる。
「それは?」
「この国の薬草と生物を使った試作品だ。なに、死にはしない。一種の活力剤のようなものだ」
小瓶を受け取り軽く振ってみると中には液体が入っているのだと感覚で解った。活力剤ということは薬屋で取り扱っている香薬と似た効果があるのだろうか。であればとくに危険性はないのかもしれない。生死が関わらないのであれば自分で試せばいい、と目で訴えてみるも意味深な笑みを返されてしまう。もう一度小瓶に視線に落としてみるが、張られた紙に書かれた文字は異国のもので何と書かれているかすら汲み取れなかった。
「なぜ私に頼む?」
「他の人で試してみてもいいのだけれど、穏便に済ませられるかは相手次第」
「……仕方ない。引き受けよう」
「良い返事だ。礼は弾む。どんな効果が表れたのか、後日感想を聞かせなさい」
薬の扱い方のみでなく彼女が相当の手練れであることもまた事実。狙われるのが悪党ならまだしも善良な民草が被害に遭うくらいなら、己が犠牲になろうと隠し刀は諦めたように溜め息を吐いた────
ということがあったのが暫く前のことだ。何かと立て込んでいたせいで薬棚に置いたまますっかりと忘れてしまっていた。催促を施すように長屋へ訪れてこないところを察するに彼女としても急ぎではなかったのだろう。けれど思い出してしまったからにはこれ以上待たせるわけにはいかない。一度は引き受けた頼み、無下にはできなかった。
しかし液体となると戦いの最中に使用するのは隙が生じてしまいそうで難しい。効果を知るためだけならばわざわざ戦地で試すこともないだろう。それに薬に対しての信頼はあれどモロー自身に対しては一度操り人形の如く遣われた経験もあったため些か警戒は残っている。死にはしないという言葉に疑いはないが、どんな効果があるのかすら分からない以上は命の奪い合いが起こる状況では使えまい。となれば、今この場で試す他ないだろう。長屋でなら暴れようが倒れようが誰に迷惑をかけることもない。
隠し刀は小瓶を手に取り蓋を開けるとまずは鼻を近づけて匂いを嗅いだ。薬草と何かが混ざった独特な香りに思わず眉を顰めるも、意を決して一気に謎の液体を飲み干した。後味は他の薬にも感じる苦みと、ほんのりとした磯の味。生物と言っていたから魚貝類を調合したのかもしれない。そう考えながら空になった小瓶を囲炉裏の傍へと置き、縁側から庭へ出て刀を握った。活力剤ならば鍛錬していればより効果が実感できよう、と。
変化が表れ始めたのは新たに習得した流派の動きが体に少し馴染んできた頃だった。それほど暑くはないというのに体の芯から熱は高まり首元には汗も滲んでいる。普段は気にも留めない衣服が肌に擦れる感触も気になってしまう。他にも素振りの音や風に揺れる草木の音がよく聞こえ、空はまだ晴れているが雨が降り出しそうな匂いも感じた。どうやら五感が鋭くなる効果のようだ。身体に異常をきたす薬ではないことに安堵の息を軽く吐いて隠し刀はそのまま鍛錬を続けた。
しかしそれが早まった判断だったと頭を抱えるのは半刻も経たない後のこと。
次第に戦闘時と同様の高揚感が生まれ、激しい運動をしていないにも関わらず口呼吸となり吐く息も熱い。これは困った事になった、と刀を下ろして雲行きの怪しくなってきた空を見上げた。体が、脳が、興奮状態になってきている。瞼を閉じて精神を落ち着かせようとするも波打つ鼓動は大人しくはならない。人を斬りたいとまではさすがに望まないが、このまま理性を手放せば強敵を求めてどこまでも走り出してしまいそうだ。
「よう、邪魔するぜ」
どうにかしてこの欲求を発散しなければと鈍った頭で考え始めた矢先、長屋を訪れてきた者がいた。気が昂っていても聞き間違えることはないその声は高杉のものだ。
「ひと雨降ってきそうなんでな、暫く居座らせてもらうぞ。なんだ、昼間っから暢気に酒を飲んでる────わけでもなさそうだな」
勝手知ったる足取りで上がり込み、居間に人の姿がないと判るとすぐに縁側の方へと向かってくる。囲炉裏の傍に置いていた空の小瓶にも目敏く気付いたようで揶揄うような口振りで顔を覗かせた。だが、庭で刀を片手に一人突っ立っている隠し刀のいつもとは違う様子に素早く勘付くと怪訝そうな表情へと一変する。
「あんたがこの程度の量の酒で酔うとは思えん。なにがあった?」
腕を組み訝し気な視線を向けられるが、その眼差しでさえも今の隠し刀にとってはただの毒でしかなかった。探るような瞳に、鼓膜を震わす程良く低い声に、鼻先に届いた優雅な芳香に、鋭くなった五感に与えられる刺激に胸が高鳴り一段と高揚感が増していく。抑えきれない衝動に唾を飲み込んで刀を強く握りしめた。自分の呼吸音ですらも大きく聞こえてしまうくらいにすでに他のことを考える余裕もなく、一歩、また一歩と縁側に立つ男に歩み寄る。
「もう、我慢できそうにない。すまない高杉。手を貸してくれないか」
「あ、あぁ。どうやら俺でしか相手は務まらんようだしな」
「助かる。では私と……」
一方で高杉も自分を見上げてくる隠し刀の熱の籠った濡れた瞳に期待と僅かばかりの緊張を抱いていた。息を乱し頬を紅潮させた姿は明らかに情事を匂わせている。そんな情人が目の前にいて、その上相手から行動を起こしてくれるとなれば滅多にない好機を逃すわけにはいかない。この際、どういった経緯でこの有様になっているのかはどうでもよかった。恥ずかしいのか顔を俯けて続きを言い淀む姿を愛らしく思うが、胸の内では早くしろと言わんばかりに次の言葉を待っているのだ。
もう一歩進めば手が届くだろうか。双方の逸る気持ちを焦らすように二人の距離はそこまで縮まった。
「私と……」
近づくほどに強くなる香りと交わる視線に隠し刀は眩暈を起こしそうになり足を止めた。活力剤にしては効果が強すぎだ、と意味深な笑みを浮かべた異人の女性を思い出しては愚痴を零してしまったのは仕方のないことだろう。これ以上悪化する前に溜まった熱を発散するしかない。運良く高杉が来てくれて助かった。この男ほど頼れる相手は他になく、きっとこちらの欲求にも応えてくれるはずだ。そう期待を込めて汗ばむ両手で刀の柄を握り、男を見上げ瞳を見つめては思いの丈をぶつけるが如く口を開いた。
「ひと勝負してくれないか!」
「待て待て待て、状況が飲み込めん。今の流れで何故そうなる」
ひと笑いされて快く承諾されるだろうという予想とは裏腹に高杉はやれやれと言った様子で額を押さえた。特別おかしな言動はしていないはずだ。それとも自分が伝えたかったこととは別の言葉を発してしまったのだろうか。じわじわと追い込むように体中を巡る熱のせいで思考が朧気になってきている。
「あんた、自分が今どんな顔をしていのるか自覚がないのか?」
呆れたようにそう言われ、そこまで戦いに飢えた表情をしているだろうかと柄から片手を離して顔に触れてみた。頬が火照っていることは体温で伝わるが顔つきまではこの目で見ないことには確かめようもない。今の状態では特にだ。この長屋に鏡でもあればいいのだが生憎と借家のためそのような洒落た物は置かれておらず、一端の浪人風情であるから持ち歩いてもいない。
困ったように眉尻を下げる隠し刀に本当に自覚がないのだなと悟った高杉は軽く肩を竦め、そして口元に薄く笑みを浮かべた。
「まぁいい。事情は後で聞こう。手合わせを望んでいるようだが、そいつは別の方法で解消したほうが手っ取り早い」
「別の方法とは?」
「そう焦るな。ひとまず刀は納めてこっちへ来い」
背を向けて居間へと戻る男を追うように刀を鞘に納め、ついでに腰帯からも抜きながら縁側へと上がった。剣を交えることなくこの劣情にも似た昂りをどう鎮めようというのか。感覚の鋭さはより増したようで首筋を伝う汗がやたらと肌をくすぐり僅かに肩が震える。そちらに気を取られていたせいか、腰を下ろし刀を脇に置いたのを見計らっていた高杉に肩を押されてしまった。いつの間に傍に寄っていたのかと驚きつつ後ろ手をついて倒れることは防いだが、身を乗り出されてしまえば上体を起こすこともままならない。
「た、高杉、なにをッ」
「どうせ体を動かすのなら互いの熱を感じながらのほうがいいだろう? あんたの身体もそれを望んでいるはずだ」
襟の間に差し込まれた手が肌を滑るように撫でながら肩を晒していき、外気に触れたそこに唇が落とされる。拒むことができないのは好いた相手ということもあるが、無意識のうちに間違いなく体の内で湧き上がる熱を劣情に似ていると自覚したからだ。汗ばんだ肌を愛おしそうに撫で、吐息の漏れる唇を塞ぐように口付けられてしまえば最早否定もできない。高杉の言葉通り隠し刀の身体は情交を望んでいる。刀を握ることばかりを考えていたが、離れた唇を追ってしまう程には既に闘争意欲よりも色欲のほうが勝っていた。
言い訳が許されるのであれば、剣を交えていてもおそらくは解決できたであろう。そう自分に言い聞かせ、絡んだ舌に翻弄されながら隠し刀は床に背を預けた。まさか薬一つで体を重ねることになるとは思うまい。唇が塞がれたまま帯を解かれ肌を愛撫する行為に応えるように高杉の背に腕を回し軽く着物を握る。そうして思考が目の前の男に支配されていくのに合わせるように静かに雨が降り始めた。
しとしとと雨が降る庭を背に三味線を鳴らす高杉は脱がした衣服を身に着ける隠し刀に呆れた視線を投げた。何度か熱を吐き出させた後、少しは冷静さを取り戻した情人から事の発端を聞いたせいだ。情事の香りの残る鬱血痕が散らばる背中が着物で隠されるのを見届けると弦を弾く指を止めた。
「俺が言えた義理ではないが、どんな効果があるのかも分からん薬を警戒もなく口にするもんじゃないぜ」
「……返す言葉もない」
「ま、俺はおいしい思いが出来た上に、あんたの乱れる姿を拝めたから次があっても構わんがな」
「っ揶揄わないでくれ。同じ過ちを繰り返すつもりはない」
腰に巻いた帯を結びながら申し訳なさそうに振り返った隠し刀だったが、羞恥心から視線だけは外されている。薬を作った相手を考えればもっと慎重に行動すべきだった。死ななければ問題ないなどという考えはさすがに大雑把すぎたかと反省している。それとあまり信用しすぎるのも問題があったとも。今回の件を顧みて次からはなるべく被検体の真似事にされないよう説得の術を磨かなくては。しかし他の民草に被害が及ぶことも避けなければならない。となれば適当に野盗でも捕まえて差し出すべきか。
一人腕を組み反省と改善に頭を悩ませていると追い打ちをかけるように三味線の音が短く鳴らされた。
「危機感を持てたのならいいさ。もし俺以外にあんな姿を見せるようなことがあれば……それこそ手合わせをする他あるまい」
その言葉に顔を上げれば、それはそれで面白そうだと続けながらもこちらに向けられている目は然程笑ってはいなかった。その場合、手合わせどころか本気の斬り合いに発展しそうだ。少なくとも高杉は容赦しないだろう。もちろん欲に溺れた自分を晒せるのはこの男にしか許していないが、万が一のことを考えれば誰かが犠牲になろうともモローからの頼みは断るのが最善である、という理解に努めることにした。