開港により横浜は日ノ本の伝統と外国から齎された文化が入り混じった異国情緒のある場所となっていた。とくに目を引くのはやはり横浜貴賓館の時計塔だろう。西洋の手法で建てられた赤煉瓦造りの建物そのものも美麗であるが、近くからでは天辺が拝めないほど高く聳え立つ時計塔は何度見ても圧巻の一言に尽きる。アビキルを使い空を舞い、鉤縄の扱いに長けていれば塔に昇ることは造作もない。だがこうして下から見上げる景色も悪くないものだ、と鐘の音を聴きながら隠し刀は建物の中へと足を踏み入れた。
本町にあるこの貴賓館へ今回訪れたのは、役人を騙すために自身の死を偽装し世間では亡くなったことにされている飯塚伊賀七からの頼み事をされたからだ。ここは幕府と異人とが交流する場であるためか役人の出入りも少なくはない。迂闊に本人が出向けば偽装だったと露見され危険な真似をした苦労が水の泡になりかねない懸念があった。まったくこうして身動きが取り辛くなるくらいなら毒など飲まなくてよかっただろうに。そう思えど彼の開発したカラクリには日頃世話になっている手前断るのも気が引けた。
そのような事情があり貴賓館で人を探しているのだが、これが中々に見つからない。顔見知りの英国人に聞いても首を振られるばかりで困ってしまう。事は急を要するわけではないが他にもやることがあるためあまり日を跨ぎたくはなかった。
「福沢さんをお探しですか?」
どうしたものかと考え始めたところでそう声を掛けられる。振り向けば鳥打帽を被った書生を連想させる装いの青年が立っていた。見慣れぬ若者だ。言葉から察するに福沢の知り合いなのだろう。
隠し刀は青年と向き合い先ほどの問いかけに頷きを返した。
「そうだ」
「お役人に呼ばれていて暫くは戻ってこないかと。言伝があれば俺が代わりに伝えておきますが」
「……お前は誰だ?」
「あ、申し訳ないです。そういえば初めまして、でしたね。福沢さんからあんたさんのことを聞いていたので、つい」
気恥ずかしそうな笑顔を浮かべながら首の後ろを撫でた後、青年は鳥打帽を外して佇まいを改めてから片手を胸元に当てた。まだ幼さの残る顔つきに歳の頃は久坂と同じか、それよりも下だろうと推測する。だが、とくに意識を惹いたのは瞳の色だった。外見は日ノ本の民であるが碧の色を持つその瞳は異質でありながらも美しい。
「俺は名前。福沢さんの近習のようなものですかね」
「その割には側に付いていないのだな」
「ご指摘の通り。あの人、横浜に来てから英語を学ぶために一心不乱でして。なので遣いやら雑用やらは俺任せなんです。だからここに居ることも少なくて。ま、これも福沢さんが勉学に集中できるように俺が好きでやっていることなんですけど」
余程慕っているのかそう語る青年の表情は柔らかく豊かだ。難しいことを考えてばかりいるせいか生真面目で苦労が滲み出ている福沢とは随分と対照的だと感じた。纏う雰囲気からも人柄の良さが解かる。そもあの男の近習ともなれば怪しい奴であるはずもないが。
釣られて頬を少しばかり緩めた隠し刀から警戒の色が消えたことを察した青年は鳥打帽を被り直した。
「それで、あんたさんの用向きは急ぎのものですか?」
「いや大したことではない。だが、直接本人に話したい」
「わかりました。ではこの後予定がなければ一緒に待つというのはどうです? 俺も遣いが済んで手持ち無沙汰なので」
「暇潰しの相手が欲しいというわけか」
「あんたさんさえ良ければ。美味しい甘味を貰ったのでお出ししますよ」
そう誘われてしまえば頷く他ない。美味しい甘味と聞けば気になるのも仕方がないというもの。が、決して甘い誘惑に負けたわけではなく、隠し刀としてもいつ戻ってくるかも分からぬ相手を一人貴賓館で待っているのは少々居心地が悪かった。片割れを探す目的のためとはいえ幕府の人間も異国の人間も手にかけたことがある。こういう情の割り切れないところが研ぎ師の言う甘さなのだろうか。
そんな後ろめたさも露知らない青年に、どうぞこちらへと誘導されるがままについて行けば貴賓館の出入り口のほうへと歩いていく。そのまま外へ、というわけではなく案内されたのは出入り口からほど近い場所。そこには応接用の椅子と机が置かれている。
「こちらでお待ちを。御茶を用意してきます」
「気遣いは無用だ」
「甘味にはお茶が必須ですよ。まぁ、俺が飲みたいだけなので付き合ってください」
小走りでその場を離れる姿に若さを感じながら青年の背中を見送り、赤い布張りの長椅子へと腰掛けた。人の通りはあるが立ち止まることも少ない場所のためただ立っているよりは人目も気にならない。まさかそこまで見越して案内されたのかとも考えたが相手は初対面の人間だ。単に福沢が戻って来た時に気付きやすい、気付かれやすい場所を選んだのだろう。どちらにせよ配慮が行き届いているのは有難いことだった。
暫しの間待っていると青年が脚車のついた配膳台を押しながら戻って来た。台の上には急須と湯呑、それから大福の盛られた小皿が乗っている。なるほど、手で運ぶよりも安定していて中々に便利そうな道具だ。感心したように配膳台を観察していれば、これはティートローリーというもので英国から持ち込まれた家具なのだと説明がされた。
「異国の文化に精通しているんだな」
「いえそこまでは。英国のことは通詞のサトウさんから少し話を聞いた程度で、まだまだ学びの途中です。他の国についても齧った程度の知識しかないです」
謙遜するようにそう言いながら机に湯気の立つ緑茶の入った湯呑と小皿を並べた青年は同じく赤い布張りの一人用の椅子へと腰を下ろした。そして一息つくように湯呑に口をつける。隠し刀は横目でその細い喉元に視線を向けてしっかりと嚥下されるのを確認してから自身の前に用意された湯呑を手に取った。これはあらゆる状況でも警戒を怠らないようにと幼少の頃から研ぎ師に鍛えられていた、いわば長年の癖のようなものだ。必要のない相手に対して疑いを持っているわけではない。
湯呑を傾けて緑茶を口に含めば舌に広がる渋みは確かに馴染みある日ノ本の茶葉のもの。この場には似つかわしくない味なのだろうが、やはり慣れ親しんでいるものは安心する。二度、三度と御茶を飲んでから湯呑を机の上に戻し、先程から感じていた視線に応えるべく青年のほうへと顔を向けた。
「それで?」
「俺、以前からあんたさんと話してみたいと思っていたんです」
「私と?」
「はい。福沢さんから話は聞いています。ハリス公使の一件や伊賀七さんの大胆な作戦のこと。どちらもあんたさんがいたから大事には至らなかった。手を貸してくれたこと俺からも礼を言わせてください」
「感謝される程のことじゃない。利害が一致しただけだ。それに福沢がいなければ助からなかった命もある」
ハリスは流れで助けることになっただけであって、あの場に福沢がいなければ結果は変わっていたかもしれない。伊賀七の件もそうだ。そもそも医学に長けた者がいる前提の作戦であった。
「私はただ刀を握り、立ち向かってきた者を斬ったにすぎない」
「誰かを守れるなら充分羨ましいことです。俺にも剣術の心得があれば福沢さんにもっと頼ってもらえるんですが……」
「そういえば福沢と黒船に潜入した時にも、お前はいなかったな」
「残念ながら生まれてこの方刀を握った事がないんです。だから一緒に行っても役には立てませんでしたよ。そもそもあの人は俺に相談すらしなかった」
眉尻を下げて、それでも笑顔を見せようとする青年は両手で湯呑を強く握る。確かにその手は傷一つない綺麗なものだ。それだけでも庇護する対象であり大切にされていることが分かる。人を殺めることを望まず鞘から刃を抜かない男が真剣を振るう場で他人を守ることはできない。そう自覚しているからこそ近習であっても伝えなかったのかもしれない。
「不測の事態は起きてしまうものだ。実際に危険もあった。お前を巻き込みたくはなかったのだろう」
「その心遣いはとても嬉しいと思ってます。福沢さんは血を見るのが苦手だから、もし俺がついて行ったら足手まとい以上に厄介者です」
なるほど、と隠し刀は一人納得した。敵意を持った相手を斬らずに制圧するのは相応の技術がいる。簡単なものではない。まさか人を斬らぬようにと要望してきたのが医学を学んだ者としての良心からの訴えだけではなかったとは意外だ。であるならば、自分の身を守る術を知らない若者を荒事に巻き込みたくないと避けるのも当然なのだろう。
さてなんと声をかけたものかと言葉を選んでいると、青年は僅かに顔を伏せて両手で包むように持っている湯呑に視線を落としてしまう。すっかり湯もぬるくなってきたのか湯気は立たなくなっていた。
「……それでもあの人に見合うだけの強さがあれば、と考えてしまうんですよね」
幸いなのは福沢の懸念を青年はしっかりと理解していることだ。ただ、理解しているからこそ心苦しさを抱いているとも言えるが。
青年の感情が豊かな故か空気が沈んでいくのを肌で感じた隠し刀はいよいよ口を閉ざしてしまった。そもそも初対面の若者にかける正しい慰めの言葉など持ち合わせてはいないのだ。しかし有難いことに沈黙が続いたのは一呼吸する程度であった。残っていた緑茶を一気に煽った青年はごくりと飲み込むと湯呑を机の上へと戻す。そして重い空気を霧散させるように軽く音を鳴らすようにして手を合わせた。
「湿っぽくなりそうなのでこの話はやめましょうか。何か聞きたいことがあればお答えしますよ」
先程までの思い詰めたような表情はなくなり、代わりに向けられた爽やかな笑顔に隠し刀は思わず目を瞬かせる。なんという切り替えの早さ。これが若さなのか、と眩しさを覚えたがよくよく考えれば己の感情を制御して周囲にも気を遣える姿は成熟した大人ではないのか。どこぞの腐った役人たちにも見習ってほしいものだ。
話題転換の機会を得たことに感謝しながら隠し刀は当たり障りのない質問はないかと、青年との会話を振り返った。
「近習のようなもの、とはっきりしていないのは何故だ?」
「俺と福沢さんの関係は主君と家来のそれではないんです。元よりそんな身分にはないので。どちらかと言えば先生と弟子の関係に近いかと」
「剣術の心得がないと言っていたな。教わっているのは学問か」
「はい。医学を始め、様々な分野のことを教わっているんです。見返りとして身の回りの手伝いをさせてもらっています」
何かを学ぶということは誰にでも平等に与えられたものではない。それは武道であっても学問であってもだ。隠し刀は武道に秀でてはいるが学問においては触れる機会は少なかった。もちろん藩命に必要な知識は得ていたが、歴史を知るためや誰かを助けるためなどという大それた理由はない。知識が武器にもなると痛感したのは黒洲を離れこの横浜の地に来てからだった。
そこでようやく藩を抜けた浪人なりに青年へ向けるに相応しい言葉が思い浮かんだ。
「刀を振るうだけが強さではない……と私は思う。相手を説得できれば剣を交える必要もない。だがそのためには知識がいる」
「話の通じる相手であれば、ですけど。でも否定はしませんよ。あんたさんは優しくもあるんですね」
学問を得ることもまた強さであるという不器用な励ましをしっかりと受け取った青年は嬉しそうに微笑みを浮かべた後、貴賓館にいる人々を見渡した。談笑を楽しむ者、商談に苦労する者、異文化の交流をする者。耳に届く異国の言語やその国の文化のこともまだ知らない事のほうが多い。
「今は余計なことを考えている暇なんてないんだ。多くのことを学んで、俺はいつかあの人の役に立ってみせる。それが恩返しにもなるから」
それはまるで宣言だった。誰に聞かせるわけでもない自身に向けられたもの。一拍置いて視線を戻した青年が今度ははにかんだ笑顔を浮かべた。
「悩んでいたことが少し整理できたような気がします。あんたさんと話せたおかげですね」
「そうか、よかったな」
本当にころころと表情の変わる見ていて飽きない若者だと隠し刀は改めて思った。人目を気にする場でなければわしゃわしゃと頭を撫でていたかもしれない。そう、こんぴら狗を送り出す時のように。そして今頃はお参りを終えて長屋で健気に主人を待っていることだろう。嬉々として大福に手を伸ばす目の前の青年のように。おそらく福沢への忠心が印象をより強くする要因なのだろう。
殺伐とした世の流れに残された唯一の癒しと言ってもいい犬猫の存在と青年を重ね合わせてしまったことで隠し刀は無意識に口元を綻ばせる。
「おや……」
そうしてこれまた美味そうに大福を頬張る青年を見守っているとようやく二人の待ち人が現れた。声のした方へと視線を向ければ数冊の書物を抱えた福沢が少しばかり驚いた顔をしながら貴賓館の出入り口から歩み寄ってくる。目論見通り戻って来てすぐにこちらへ気付いたようだ。
「おかえりなさい福沢さん。お疲れ様でした」
「名前君も御遣いご苦労様です。それと、あなたも来ていたんですね」
「お前を待っていた」
「福沢さんに用事があるみたいですよ。俺ちょっと席を外しますね。御茶のおかわりを淹れてきます」
急須にはまだ温かい緑茶が入っているだろうに青年は空になった自分の湯呑と小皿をティートローリーに戻すと貴賓館の奥へと行ってしまった。おそらくは会話の妨げにならないようにという配慮だろう。今回に関しては斬った張ったが起こるような物騒な頼まれ事ではない。今のところは、だが。なので聞かれても問題はないのだが先程打ち明けられた悩み事を振り返ればその行動も仕方のないことかもしれない。
そして福沢もまた意図を理解しているからこそ止めることはせず、静かに見送ってから空いた椅子へと腰を下ろした。抱えていた書物を邪魔にならない机の端のほうに置く所作を横目で見つつ、隠し刀はまだ手付かずだった大福に手を伸ばす。
「気配り上手だな」
「ええ。おかげで助かっていますよ。彼とはいつから?」
「会うのも話したのも今日が初めてだ」
「そうでしたか。随分親しげな雰囲気だったものですから、てっきり以前から懇意であったのかと。彼には遣いやら何やらであちこち出歩かせていますので、どこかであなたと出会っていても不思議ではないでしょう? しかし、もしそうなら僕に一言もないのはおかしいですよね。僕はあなたの話を彼にしているのに」
腕を組んではどこか不服そうに同意を求められるが、述べた通り青年とは初対面であり福沢との関係も知ったばかりだ。二人が普段どのような遣り取りをしているのかすら見当もつかない隠し刀は困ったように肩を竦めてみせる。
するとまるで必要以上に子を想う親のような発言だと気付いたのか福沢はやってしまったと言わんばかりの表情を浮かべ、誤魔化すように居住まいを正した。
「あ、いえ、今のは気になさらないでください。さて、用向きを伺いましょうか」
その様子にどうやらただの近習でも師弟の関係でもない複雑で込み入った事情がこの二人にはありそうだと察した隠し刀は大福を半分口に含んだ。餅に包まれた小豆の餡の程よい甘味を味わいながら、案外頼られていないと感じているのは一方だけではないのかもしれないとも思う。弟子とは意図せずして師に似てしまうものだ。
脳裏に浮かぶ師の最期につい感傷的になる前に残り半分の大福を口の中へ放り込んだ。そしてこの貴賓館を訪れた本来の目的を果たすべく、伊賀七からの頼まれ事を話し始めたのだった。
新たに湯が沸くのを待たずして用件を済ませた名も無き浪人は早々に横浜貴賓館を去ってしまった。別れの挨拶もまともにできなかったなと残念に思いながら青年は急須を傾ける。二人分の湯呑と小皿に大福をいくつか用意してそれらを福沢の前に置いてから来客用の食器を片付けた。そして無人となった座り心地の良い長椅子に腰掛けると一息つくように御茶を口に含む。
一方で伊賀七からの伝言を聞かされた福沢は鼻根を揉んでいた手を離すと机の上に置かれた甘味に目を向けた。心情的には煙草の一本でも吸いたい気分であったがその手は無意識に大福を掴んだ。朝からずっと働き通しの脳には糖分が適していると体が勝手に判断したのだろう。
「こちらは買ってきたものですか?」
「いえ、勝さんに貰ったんです。あの人、本当に美味しいものをよくご存じですよねぇ」
「……また君は餌付けされたわけですか」
「心外です。俺は疲れている福沢さんのためにと甘いものを所望したのであって、決して俺が食べたかったわけじゃないですよ」
不貞腐れた態度を取りながらもちゃっかりと甘味を手にした瞬間にはもう顔を綻ばせる教え子に溜め息を吐く。しかし幸せそうに頬張る姿を前にしてしまえば叱る気力も起こらなかった。何より青年の出自を知っていれば食べさせてやりたいという気持ちになるのも分かる。出会った頃と比べれば随分と健康体になったものだ。
釣られるようにして大福を口に含んだ福沢がそうして安心したのも束の間。
「あ、忘れるところだった。こちらも貰ったものですが福沢さんに、どうぞ」
そう言って青年が差し出してきたのは西洋の酒瓶だった。ラベルにはウイスキーと書かれている。すでに何度か飲んだこともあるその酒がかなり度数の高いものだと知っているため思わず眉を寄せてしまう。頂いた張本人は滅法酒に弱く、自発的に受け取ることはしない。むしろ過去の失敗から禁じているほどだ。誤って飲酒でもされたら困ったどころではない。なので仕事上の付き合いであれば多少は目を瞑るが、こと個人的なものであれば話は別である。
「ちなみにどなたから?」
「サトウさんです。あの人も誰某から貰ったらしいんですが、飲む気分ではないからって。そのわりには美味い酒だと強くおすすめされましたけど」
「なるほど。そういうことでしたら有難く頂戴しますが、気軽に人から物を貰うのはあまり感心しませんね」
「福沢さんが喜ぶかと思って受け取っちゃいました。このお酒好きですよね」
「まぁ好きではありますが……」
相手が横浜へと来てから知り合った英国人の通詞ならば青年が酒に弱いというのを知らないのも頷ける。次に顔を合わせた時にはそれとなく伝えておこうと西洋の酒瓶を受け取った福沢だったが手元のそれを見て更に眉間にはシワが寄った。人への贈り物には様々な思惑があるものだ。純粋な謝意であったり、目上の者に取り入るためであったり、好意から相手を喜ばせるためであったりと。また贈る品によっては意味合いも変わってくる。
青年のことを童のように可愛がる勝海舟は与えるほとんどが食べ物ばかり。意図がはっきりとしていて実に解りやすい相手だ。ではサトウはどうか。ここ横浜貴賓館に頻繁に顔を出していれば自然と交流は生まれる。ならば友好を深めようという歩み寄りだろうか。それとも西洋には酒を贈ることに何か意味があるのかもしれない。何にせよ無防備であっては師として心配なのは確かであった。
「いいですか名前君。厳しく言いたくはありませんが、君はもう少し警戒心を持つべきです」
「これ以上ですか?」
真剣な表情で頷きを一つ返された青年は眉尻を下げて困ったような笑みを浮かべると首の後ろを撫でた。その反応にこちらは真面目に話しているのにと少しばかりムッとして口を開きかけた福沢だったが、続けられた言葉に驚きに目を瞬くこととなる。
「俺はこれでも福沢さんが信頼している人にしか懇意にしていないんですよ。それで充分なので、簡単に他人を信じたりしません」
「……そう、なんですね」
「はい!」
まるでそれが当然だとでもいうように平然と、事もなげに言われてしまい虚を突かれてしまった。真面目で人懐っこく性格も明るい青年は兎に角愛想が良い。遣いにやった先での評判も上々だ。それ故に人からも好かれ、だからこそ気掛かりであったのだがその人当たりの良さというのは誰に対してもというわけではなかったようだ。しかしいらぬ懸念だったと片付けてはいけないようにも思えた。弟子はいずれ師の元から巣立つもの。そうなった時にこの先も同じような心得では良い人間関係は築けない。慕ってくれている気持ちは嬉しいが本人のことを想えばこそ自立への教えも今後は必要になりそうだ。
それが正しい導き方だと解っている一方で心の奥底では密かに優越感を抱いていることも自覚している。青年が再び甘味に手を伸ばすのを眺めながら福沢は短く息を吐き、思考を落ち着かせるためにも湯呑を口元へ近づけた。