色鮮やかな紅葉が次第に枝から離れ、風に乗って宙を舞い、そして地へ落ちていく。季節は秋から冬へと移り始めていた。
「大事なお話があるので後ほど僕の部屋に来てください」
そう声を掛けられたのは夕飯を終えて二人分の食器を下げている時だった。話ならば食事をしながらでもよかったのでは、と軽い疑問を抱くも先程まで互いに日本と西洋における身分の違いについて熱弁していたことを思い出す。あれでは他の話をする隙もなかったことに気付いて了承の旨のみを返した。
しかしながら改めて大事な話と言われると変に身構えてしまう。こういう時、何故か思考は悪い方向へと向かってしまうものだ。何か自分に落ち度があったのか。知らぬうちに取り返しのつかない失態を犯してしまったのか。自ら稼げるような職種についていない名前は学問を始め衣食住の全てを福沢に頼りきっているのが現状だ。もう面倒は見切れないと告げられてしまう可能性もあるやもしれない。優しい御仁であると知っていながらもこうして不安に駆られることは一度や二度ではなかった。
無意識に重い息を吐き出してしまった名前はハッとして、このままでは厭世的な思考になってしまうと雑念を振り払うように首を振るう。そしてあまり待たせてはいけないといつもより素早く、けれども手抜きはせずに洗い物を済ませて福沢の自室へと向かった。良い話なのか悪い話なのかは実際に聞いてみなければ判らないのだから一人で考えるだけ無駄なのだ。
「福沢さん、お待たせしました」
「どうぞ。入ってください」
「失礼します」
膝を付いたまま襖障子を開けると学問の師である男は文机に向かっているようで背中が向けられていた。部屋へと入り音を立てないよう襖障子を閉めてから居住まいを正せば、福沢も手にしていた書状を置いてこちらに向き直る。
「これからお伝えすることは僕だけでなく君にとっても大事な話になります。よく聴いてくださいね」
「ぁ、はい!」
静かな前置きに一瞬にして緊張感が戻って来てしまい肩が強張った。けれど語られる話の内容に、次第に明るくどこか興奮が入り混じってきた口調に、名前は驚きに目を瞬かせながらも食い入るように福沢の話に耳を傾ける。一言一句聞き漏らすまいといつの間にやら身を乗り出しており、先程まで募っていた不安など嘘のように消え去っていた。
室内を照らす行燈の灯りは淡いものであったが気持ちを表す瞳の輝きを互いに覚るには充分なもの。そうして二人が沸き立つのも無理はなかった。語られたのはまさに夢物語であったからだ。だからこそ噛み締めるように、そして現実であることを確かめるように言葉を繰り返し尋ねた。
「本当に……米国へ?」
「ええ。日米修好通商条約が結ばれたのは既にご存知でしょう。批准書交換のために幕府が使節団を派遣するとのことです」
「そこに福沢さんも加わるなんてすごい。方々に掛け合った甲斐がありましたね!」
心から尊敬する人のずっと追い求めてきた夢が現実になる。これほど嬉しいことはないだろう。
名前は出会った当初から福沢が西洋への憧れを抱いていたことは知っている。そのために蘭学を身に着け、人に教えもしていた。けれどいざ横浜に来てみれば蘭語は全く通じず、町中にある看板の文字も異人が話している言葉も英語だったためにひどい衝撃を受けたものだ。それでも意欲的に英語を学ぶ真摯な姿勢を、留学するために奔走している姿をこの目で見てきたからこそより一層感慨深くもなる。
そんな想いもあったせいか、話の続きを待たずして胸が躍るままに脳に浮かんだ疑問や懸念がそのまま言葉で溢れ出した。
「突然のことで頭が混乱してます。米国までは船でどれくらいかかるんでしょうか。提督に伺えば教えてくれますかね。あ、でもあの黒船とこの国の船では速度も違うから参考にはならないのか。天候にも左右されるだろうし。それと慣れない船の長旅に備えて薬も用意しておいたほうがいいですよね。後で買い付けておかないと。せっかくの機会を台無しにしてほしくありませんから、備えは万全にしておきましょう!」
両の手に拳を作りそう意気込むと目の前に座っている福沢が口元に手を添えて顔を綻ばせていることにはたと気付く。そこでようやくまるで自分のことのように喜びはしゃいでしまっていたと自覚した。恥ずかしさから慌てて両手を膝の上に降ろし背筋を伸ばして視線を下げる。
「一人で盛り上がってしまい申し訳ないです。福沢さんの念願が叶うと思ったら俺まで嬉しくなって、つい」
「構いませんよ。こんなにも喜んでくれるとは、期待していた以上の反応に満足しているくらいです」
「俺で遊ばないでください。そうだ、留守は任せてくださいね。土産話、楽しみに待ってますので」
「そのことについてですが、留守居の必要はありません。元々知人の屋敷に間借りさせていただいているだけですからね。それと君に土産話を持ち帰ってくるというのも難しいでしょう」
「えっと……つまり、俺はお役御免ってことですか?」
額面通りに受け取るならば暇を出される、ということになるのだろう。師の悲願が叶うことは一人の弟子として以上に大変喜ばしいことだ。その気持ちは変わらない。もし自分の存在が障害になるのなら潔く側を離れることも必要であると頭では理解できている。けれど心はそうもいかないようで、いざ見放されてしまうのではないかと突き付けられてしまえば動揺は想像よりも遥かに大きいものだった。
戸惑いの色を隠すように顔を俯かせ明らかに気分を落ち込ませる名前の姿に福沢は仕方ないと言った様子で目元を細めて微笑んだ。そして距離を縮めるように膝行すると髪の短く切り揃えられている頭に触れて優しく撫でる。
「君を手放すなんて、そんな無責任なことをするつもりはありませんよ。最初に言ったでしょう? これは名前君にとっても大事な話だと」
「はい」
「一緒に米国へ行きますよ」
「はい…………は、えっ!? 一緒にって、どういう……え、俺がですか!?」
耳を疑う言葉に勢いよく顔を上げた。与えられる情報が多すぎて先程とはまた違った意味で混乱してしまう。理解が追い付かないまま福沢を見つめていると頭を撫でていた手が今度は軽く叩くようにして肩に乗せられた。芽生えた予期せぬ期待を肯定するように。
「僕は軍艦奉行の木村殿の従者として同行するのですが、そこに君も加えて頂けないか頼んでみました」
「でも……俺は貧しい村落の生まれですし、勉学もまだ充分とは言えません。幕府の方々とご一緒するなんて、そんな資格があるとはとても思えない」
「ええ。残念ながら同じことを指摘されました」
「ならッ────」
「それでも、僕は君に海の向こうに広がる世界を見て欲しい。百聞は一見に如かずと言うでしょう。実際に赴くことが何より見聞を広め、君を成長させてくれます。人から教わるよりも多くのことを学べるんですよ」
淀みのない清廉な瞳と、甘い誘惑のように、けれども確固たる思いの込められた声に気持ちが揺れ動く。今すぐにでも飛びついてしまいたい。そう感情は訴えかけてくるがどうしても理性が蓋を閉ざしてしまう。この身に沁みついている国に根付いた地位や身分の差がそうさせてしまうのだろう。
名前は迫られる決断を迷うように視線を彷徨わせて膝の上に乗せた両手をきつく握りしめた。
「俺なんかが行ってもいいんですか。費用だって馬鹿にならない。それに見合うだけの働きができるかどうか……」
「おや? 学びたい一心で塾の門戸に食らい付いていた君はどこへ行ってしまったのですか」
これは困ったことに素直になれない教え子から本音を引き出すための福沢からのちょっとした意地悪であった。その効果はまさしく、心情を映し出すように俯いてしまっていた名前がハッとしたように顔を上げる。そして柔らかな行燈の灯りに照らされた慈しむような微笑みを浮かべた師を前にして、大阪で初めて出会った頃の記憶がふと蘇った。
きっかけは母を病で亡くしたこと。幼少の頃から学問には興味があり、時たま村を訪れる旅の行商人から古い書物を恵んでもらっては紙がボロボロになるまで読み込んだ。けれどもその中に医学について書かれたものは一切なく、どうしたら母を救えたのか、どうすれば同じ病の人を救えるのか、その想いを胸に村を飛び出して医学を学べる塾の門を叩いた。しかし払える学費もなく、名乗れる家柄もない。何度も断られ追い払われたがそれでも諦めることができなかったのは、学ぶこと以外に生きる意味を見出せなかったからだろう。来る日も来る日も門を叩き続け、その誰にも届かない声を拾い上げ応えてくれたのが福沢であった。唯一手を差し伸べて導いてくれた人である。名前にとっては恩師である以前に命の恩人なのだ。
「この機を逃せば次がいつ来るかは判りません。二度目すらない可能性だってある」
福沢はそう言いながら膝の上に乗せられたままの拳に己の手を被せ包み込むと、優しく解くように掌側へと指を回した。そしてきつく握りしめられていたのが嘘のようにされるがまま力を緩めた弱々しい手を軽く持ち上げる。
「さぁ、僕と出会った時のように我武者羅になって、難しくは考えず君の中にある好奇心に従ってください」
「……福沢さん」
憐れな少年を救った誠実さは青年となった今も尚変わらずに道標を示し続けた。
理性が塞き止めていた踏み出したいという熱量が途端に溢れ出し、悦びからくる涙を必死に堪えようと名前は顔を歪めて俯く。こんなに恵まれた人生を送れるなど夢想だにしなかった。なんてことだ、一生をかけても返せない恩義が積み重なっていくではないか。けれどもそれを嬉しいと感じている自分も確かにいるのだ。最後の後押しをするように掴まれている手が握られてしまい、ようやく覚悟が決まる。
詰まった息を吐き出して、温かな手を握り返し、ゆっくりと顔を上げた。
正使の一行が乗船する米国の艦船ポーハタン号の随伴艦として選定された幕府海軍が保有している軍艦、咸臨丸は日本人と米国人を乗せて浦賀港を出港した。航海日和とはとても言えない雲行きの怪しくなる中を進む船の甲板で名前は遠ざかる日ノ本の地を見つめている。不思議と寂しさはなく、心にあるのは大きな期待と探求心だ。師である福沢に背中を押されたことで供に米国へ渡ると決めてからこの日をどれだけ待ちわびていたことか。とはいえやはり不安がないわけではなかった。
「あー……ちくしょう、もっとまともな天候の日でよかっただろうに……うっ……」
「もう船は出てしまっているんです。諦めてください」
そう悪態を吐きながらも呻くのは教授方頭取の立場として同船している勝海舟である。船の縁に体を預け海を覗き込むようにして頭を項垂れている姿からは出港前の威勢の良さは伺えない。まさに、不安の原因の一つとも言えるのがこの御仁の事だ。傍らにいる福沢も心配していると同時に呆れ果てている様子を見せていることからおそらく同様の心境なのだろう。
名前は苦笑いを漏らすと気遣うように顔から血の気の引いた男の背中を撫でた。
「勝さん大丈夫ですか?」
「これが平気に見えるってのか」
「見えないですね。水いります? 俺が持ってきますよ」
「おう、悪いな」
頼むわ、と覇気のない願いを聞き届けるべく物資のある船内へと向かう青年の背を見送った福沢は深い溜め息を吐いた。そしてまったく情けないとでも言うように首を軽く振るう。
「はぁ……どうして海軍奉行のあなたが我先にと船酔いしているんですか」
「うるせぇな。人にはな、苦手なもんの一つや二つはあるんだよ」
「とても海軍に向いてるとは思えませんね」
「それを言ったら、血を見るのが駄目な奴が医者に向いてるとも思えねぇだろう? どこの誰とは言わねぇがな」
皮肉を返されたところで普段の勇ましさがないため威厳も感じられず、福沢は言葉を返す代わりに肩を竦めた。呆れを通り越していっそのこと酒でも飲んで酔いを相殺させてみてはどうかと雑な考えが浮かんだものだ。だが貴重な物資をこんなことのために無駄にはできないためそっと胸の内に留めておくことにした。
そうこうしている間にも船は進み、次第に海は荒れ始め、挙句の果てに曇天の空からは雨も降り注ぎ始める。激しい波が大きく船体を揺らす度に船のあちらこちらから悲鳴が上がるほどの悪天候に見舞われたのだ。もちろん最悪の事態を想定していなかったわけではないが長い航海に慣れていない者たちばかりであったために嵐が過ぎ去った頃にはまともに働ける日本人はほとんどいなかった。荒天による船の破損が発生した状況も重なり幕府の軍艦でありながらもその運用は航海術に長けた米国人が執り行うことになる。けれど、そのことによもや反論する者は現れなかった。
「どうぞ、酔いを和らげる漢方薬です。まだ揺れがあるので気休めにしかならないかもしれませんが」
「すまない、助かる」
多くの者が船酔いと疲労で困憊している中、草臥れもせず命の危険を伴った嵐に対する恐怖も見せていない名前は甲板から船内を行ったり来たりと動き回っていた。福沢や他に乗船している医師に指示を仰いでは幕府が用意した薬剤と共に個人で持ち寄っていた薬を配っているのだ。時折、米国人にも声をかけては体調の悪い者はいないかを伺っている姿も見せている。
そうして未だ不安定な船の上を物ともせずに駆け回る青年を最早生気すらも感じられないほど弱り切った様子で勝は眺めていた。
「おーおー頼りになるねぇ。連れてきて正解だったな」
「ええ。口添えして頂いたこと、感謝していますよ。しかしあなたも少しは彼を見習ってはどうですか」
「お前さんも人の事言えねぇだろうが」
これにはさすがに言い返すことができなかったのは福沢自身も先の悪天候にすっかり参っていたからだ。本来ならば教え子の見本となるべきところだと解ってはいる。けれどいくら武を鍛えていても慣れない環境では中々に体もついてこないもので、壁に背を預けて座り込んでしまうのも仕方のないことだろう。無理をして余計に体調を悪化させては、それこそ迷惑をかけてしまうというもの。などと言い訳を並べてしまうのはやはりどこかで不甲斐なさを感じているからなのかもしれない。一方で自責の念に囚われないで済んでいるのは、このような状況に於いても自分に出来る事を率先して行っている教え子を誇らしく思っているからだろう。
勝に対してだけでなく自分も見習わなければいけないな、と考えが一旦落ち着いたところで甲板に続く階段を降りてきた名前を視界に捉えた。周囲を見渡し目が合うとすぐに福沢の元へと駆け寄ってくる。
「福沢さん! 一通り体調の悪い人には薬を渡してきました。多めに持ってきておいて正解でしたね」
「ご苦労様です。君がいてくれて助かりました」
「いえ、俺にはこれくらいしかできないので。それに医学を教えてくれたのは福沢さんです。つまり、先生のおかげってことですよ」
「謙遜せずとも、学んだことを生かしたのは君自身です。よくできましたね」
こんな状況でも師を立てようとする姿勢に対してお世辞抜きに誉めてやれば名前は照れたような笑みを浮かべて首の後ろを撫でた。それから膝を床につくように腰をおろし福沢の顔を覗き込んでくる。外はまだ小雨が降っているのか鳥打帽を脱いで露わになっている短髪がしっとりと濡れていた。
「福沢さんは体調どうですか」
失礼します、と言いながら手を伸ばし額と頬、首筋に触れる。その温かな体温に安心感を覚えて僅かに目を細めた福沢とは逆に青年は心配そうに眉を顰めた。熱を確かめていた手を引っ込めて少々考える素振りを見せると徐に立ち上がり荷を積んでいる船室へと向かって行ってしまう。どうかしたのだろうかと目で追えば青年はすぐに戻って来た。その腕には厚手の外衣が一着抱えられている。
「体温が少し低いように思います。風邪を引いては大変ですから体は冷やさないでください。こちらをどうぞ」
「ありがとうございます。君も気を張り続けていると疲れが溜まってしまいますよ。少し休んではどうです」
「俺はまだ平気です」
有難く外衣を受け取りながら見上げた青年は他の乗員と比べても泰然としているが、共にいた時間の長い福沢の目には弱気を見せまいとする意地も透けて見えた。頼りになるのは誇らしいが無理をされてはこちらとしても困ってしまう。しかしそれを直接伝えてもこの状況では聞く耳を持たないだろうことも察している。誰に似たのか教え子は少しばかり頑固なところがあるのだ。
放っておけば休憩もせずに動き回るに違いない、と引き留める意味を込めて名前の手を掴んだ。手袋越しにじんわりと体温が伝わってくる。
「君の手は温かいですね」
「動きっぱなしでしたから体は暖まってます。あ、湯たんぽ替わりにしてみますか? 沸かした湯よりはぬるいですが抱えるのには適温ですよ。なんて、冗談────」
「妙案ですね、そうしましょうか」
「え?」
丁度いいとばかりに意外な返答に間の抜けた表情を浮かべる青年の腕を引けば、いとも簡単に胸元に倒れ込んだ。予想だにしていなかった行動をされた故か驚きに固まってしまった身体に腕を回す。福沢と比べれば成長期を迎えているとはいえ名前の身体は一回り程小さく、腕の中に簡単に収まってしまえた。
「あの、冗談、なんですけど」
「体を冷やさないようにと言ったのは君でしょう?」
「そう、ですが……さすがにこの恰好は恥ずかしいです。もう子供ではないんですよ」
「気にする余裕のある人なんていませんよ。勝さんだってほら、この通りですから」
抱きかかえられた体勢のまま顔だけを動かして隣を見れば、時折呻き声を漏らす勝が頭を抱えて座り込んでいる。ここまで酔いが酷いと手持ちの薬ではもうどうにもなりそうにない。寝てしまえば少しは楽になれると思われるが如何せん海軍奉行という立場であるからか無事に航海が終えるまでは気を抜けないのだろう。なんとも役職に見合わない体質だと失礼と知りつつも同情してしまった。
しかし名前にとっても勝は普段何かと世話になることも多い御仁だ。助けてあげたいという気持ちがないわけがない。けれど、船酔いに効く治療法はないものかと考え始めたところで思考を遮るように視界が布で覆われてしまった。福沢が先程受け取った外衣を青年の身体を隠すように被せたのだ。
「福沢さん?」
「こうすれば人目も気にならないでしょう。君はずっと働きっぱなしでしたから今だけは他人のことは心配せずにひと眠りしてください」
「ははっ、福沢さんの頑固さには敵わないなぁ……わかりました。でも少しだけですからね」
ここまでされては断るのも失礼にあたるというもの。名前は潔く諦めて体勢を整えると遠慮なくその身を預けた。剣術によって鍛えられた肩に頭を寄せればふわりと鼻を掠める香りに目を細める。
「煙草の匂いがします」
「気分を落ち着かせるために先ほど吸っていたので。嫌でしたか?」
「いえ、慣れているので平気です。ただ、少し残念だなぁと……」
「残念?」
「はい。煙草で福沢さんの香りがかき消されていて……古い書物とか墨の匂いのしているほうが俺は好きです」
自身が幼い頃から古書を何度も読んでいたからというのもあるが、おそらく文机に向かっている師の姿を一等尊敬しているからだろう。それ以外にとくに他意はない。だが、その発言が如何に羞恥を孕むものだと自覚したのは福沢が肩を揺らして笑っていることに気付いてからだった。まるで犬のようですね。揶揄い混じりにそう言いながら子供をあやすように背中を撫でられる。穏やかで優しい手つきにじわりと頬や耳が熱くなるのを感じながら現実逃避さながらさっさと寝てしまおうと名前は瞼を閉じるのだった。
暫くしてから耳に届いた寝息に、多少強引な方法ではあったが見逃さずにいて正解だったと福沢は安堵の息を吐く。やはり本人が思っていた以上に疲労は溜まっていたようだ。若いと言えど出港早々に嵐に遭い、乗組員の不調を診て回り、慣れない状況下での船旅が続けば疲れるのは当然のことだろう。頼れるからと過度に期待するのは却って負担に成り兼ねない。今後はもう少しだけ甘やかしてもいいのかもしれないと反省しながら冷えた身体を暖めてくれる温もりを労わるように緩く抱きしめた。