東峰とマネージャー


 部室で賑やかにしている西谷たちの隣でちらちらと向けられる視線を背中で感じながら名前は制服のボタンを首元までしっかりと留めていく。あの人が何か言いたそうにいつも見ていることには気付いていた。気付いていて、避けてしまっている。意地を張っていないで前のように話しかければいいのに、それができない自分を不甲斐なく思いつつもこれ以上は嫌われたくないと心が叫んでいた。
 あの日。県大会の伊達工戦に敗れた日から自分は東峰になにもしてあげられずにいる。バレー部のマネージャーとして支えることも、後輩として励ますことも、なにもできずただ追い詰めてしまっただけだ。
 ──苗字が傍にいると、苦しい。
 脳裏に浮かぶのはどこか自信なさげな優しいいつもの先輩ではなく辛く苦しそうな表情をした東峰で、あの日の自分はただその手を掴んでいることもできなかった。


 跳ぶことを恐れた一羽の烏を、誰も咎めることなんてなかった。東峰自身を除いては。

「なんで責めないっ!?」

 県大会が終わりギスギスとした雰囲気の中行われた部活の後、名前は用具室から聞こえた叫びに似たその声に足を止める。こうなってしまうんじゃないかとあの試合を見ながら心のどこかで危惧していた。バレーに大切なことは"繋ぐ"こと。それを諦めてしまえばボールは生きることができない。

「俺が繋いだボールをっ、あんたが勝手に諦めんなよ!」

 怒りと悲しみが入り混じった幼馴染の声にボールを持つ手に無意識に力が入る。用具室から出てきた東峰が目の前に立つ名前に気付くと足を止め、普段はポーカーフェイスの表情が分かりやすい程感情が露わになっていることに目線を逸らした。

「お前も俺を責めないんだな」
「……、」

 名前が口を開くよりも先に横を通り過ぎるが手を掴まれ再び足を止めることになった。手元を離れたボールの床を跳ねる音が静かな体育館に響き、東峰は向けられる名前の視線から逃げるように足元を睨み続ける。

「行かないでください」
「っ、西谷のフォロー、頼む」

 絞り出すようなその声に掴まれた手は一度強く握られてから離れていき、東峰は振り返ることなく体育館を出て行った。
 追いかけたかった。追いかけて、でも、どうする? 選手でもないただのマネージャーである自分がなにを言ってもきっと届きはしないのだ。名前は転がったボールを拾って重い空気の残る用具室にあるボール籠へと仕舞い、俯いている幼馴染へと歩み寄る。

「夕」
「っ名前、俺……」
「ボトル洗うの、手伝ってくれる?」
「……おう」

 強く握られた西谷の手を引いて用具室を出ていく名前の背中に声がかかる。

「苗字、すまん任せた」

 申し訳なさそうな澤村の声に振り向いて頷き、ぎゅっと握られた手を握り返し体育館を後にする。自分にできることはこれくらいしかないのだから主将が謝ることなんてない。怒りや悲しみ、いろんな感情が渦巻きその捌け口もいなくなってしまった西谷の傍にいてやることしかできない。

「皆が、夕みたいに心が強いわけじゃないよ」

 無言のまま手を引かれて少し後ろを歩く西谷に呟くように話しかけながら水道まで来て振り返ると衝撃が襲った。背中にまわされた手が名前の服を強く握り、胸元に顔を押し付けた西谷の頭を撫でる。

「旭さんは諦めたからボールを呼ばなかったんじゃない」
「……ッ」
「分かってあげてほしい」
「でもっ! 俺は、俺が拾ったボールはっ、旭さんまで繋がらなきゃ、」
「落ち着いて、夕」

 声を荒げる自分よりも小さな体を落ち着かせるように背中を撫でた。

「旭さんも分かってるよ、夕の気持ち。大丈夫」
「名前っ」
「大丈夫」

 だけど手を握り傍にいることしか自分にはできない。その手を取って導くことは、自分にはできない。なにもできないまま、翌日から東峰は部活に来なくなり西谷は一週間の自宅謹慎と一ヶ月の部活禁止の処分を受けた。


 部活に顔を出さなくなってから暫く、教室を出た東峰は騒がしさの残る放課後の廊下で自分を待っている名前の姿に思わず顔を顰めた。

「戻ってきてください」

 静かに発せられる声は周りの騒音に消されることなく耳に届き、その言葉を聞いたのはこれで何度目だろうかと心の中で呟く。自己嫌悪に陥った自分に何度も差し伸べてくれる後輩の手をずっと拒み続けてきた。

「何度来ても、俺はもう部活には行かない」

 名前の綺麗に整った表情が不安に染まっていく。よく見ないと分からないほど僅かな変化ではあるが、ずっと見てきた東峰には分かった。そんな顔をさせている原因が自分自身にあるということも。

「俺のことは放っておいてくれよ。西谷のほうが大変だろ……俺なんかより、あいつのこと──」
「夕のことだって、旭さんのことだって……俺は放ってはおけません」

 自虐的になる東峰の声を遮るように口を開いた名前に思わず目を見開く。幼馴染の西谷とは正反対で静かな性格をしている後輩に言葉を遮られこんなに強く感情をぶつけられたのは初めてだ。

「なんでだ……」

 思わず唇を噛みしめた。

「なんで俺に構うんだ」
「旭さんはチームの一員です。烏野バレー部には旭さんが必要なんです」

 真っ直ぐに向けられた視線から逃れることができない。
 無理だ。無理なんだよ。俺は弱いから、臆病だから、きっとまた皆に迷惑かけちまう。打ってみなきゃ分からないだろって西谷は言うけれど怖いんだ。怖くてトスが呼べなくなって、俺を信じてトスを上げたスガにも何度もボールを生かす西谷にももう責任を押し付けたくない。それに苗字にだってこれ以上俺のことで傷ついて欲しくはないんだ。

「もういいだろ……もう放っておいてくれよ、頼むから」
「旭さん、俺は」
「迷惑なんだっ」

 僅かに目を見張る名前に、だめだこれ以上言うんじゃないと心の中で訴えるが口が勝手に動いてしまう。

「今はバレーのこと考えるのが辛いんだ。苗字、お前が来るとバレー部のことも西谷のことも嫌でも頭で考えちまう」

 よせ、やめろ。

「苗字が傍にいると、苦しい」

 違う、そうじゃないだろう。こんなことただ傷つけるだけじゃないか。思っていることとは裏腹の言葉が止まらない。これ以上言ってはいけないと頭では分かっているのに、どうすることもできない。

「もう……来ないでくれ」

 いつの間にか俯いていた視界の中で名前の拳が力強く握られるのを捕え、ゆっくりと顔を上げた先に見えたその表情に息をのんだ。悲痛に歪んだ、今にも泣きそうな顔。こんな名前の表情を見るのは初めてだった。

「俺、分かってたんです。旭さんには考える時間が必要だって……そっとしておかなきゃいけないって」

 東峰から視線を外し俯いた名前の弱々しい肩を支えようと伸ばした手は途中で止まり、力なく体の横に落ちる。

「ただ、バレーをしている旭さんを見たかったんです」
「っ……」
「すいませんでした。もう、来ません」

 頭を下げ顔を合わせずに背を向けてしまった名前にかける言葉が見つからず廊下で一人佇む東峰はじっと自分の右手を見つめ、その手をぎゅっと握りしめた。傷つけたのは自分だ。その自分に慰める権利なんてない。触れる権利なんて、ない。
 その日から顔を会わせることはなく、新入部員に背中を押され無事に部活復帰してからも名前とは最低限の言葉しか交わしていない。


 部活を終えて汗で濡れたシャツを脱ぎ制服に着替えながら東峰はあの日のことを思い出しては溜息を吐いた。そんな様子に顔を顰めた菅原がデカイ図体を力一杯叩き「痛い!」と声を張り上げて涙目になる東峰を横目で睨んだ。

「いつまでもうじうじしてんなよなー」

 痛いところを突かれバツの悪そうな顔をしながら後方で賑やかにしている後輩たちのほうをちらちらと窺う。隣にいる澤村があまりの騒がしさにそろそろ怒鳴りそうなのはいつものことで、今東峰が気にしているのは騒ぎの原因の一人である西谷の隣で静かに着替えている名前だ。東峰がバレー部に戻ってきてから数日まだまともに向き合えていない。原因は言うまでもなく自分にあり解決するのも自分でどうにかしなければいけないことは頭では分かりきっている。
 ぐるぐると悩んでいる間にも名前は帰りの支度を手際よく進めていく。今日も、なにもせず諦めるのか? いやだめだ。諦めちゃいけない。だけど怖くて行動に移せないでいる俺は、なんて臆病な男なんだろう。

「おーい苗字、旭が話あるってさ」
「ちょ、スガぁ!?」

 痺れを切らした菅原がそう声をかけたことに焦りを隠せない東峰は慌てて名前のほうを振り向くとばっちりと目が合ってしまう。緊張した面持ちで唾を飲み込む東峰から視線を逸らし隣にいる幼馴染へと声をかけた後、名前がカバンを肩にかけて歩み寄ってきた。

「外で待ってます」
「あ、うん……」

 部室を出て行く後ろ姿をぼんやりと目で追っていると菅原から急かすように肘で突かれて、ジャージを雑にスポーツバッグへと詰めてすぐに部室を出た。
 部室棟の階段を降りたところで待つ苗字は清水に負けず劣らずの美人だ。いや、男に対して美人はおかしいだろうか。何事にも冷静な彼は西谷と田中を大人しくさせることができる部内でも頼りにされているマネージャーで、取り乱したり、怒鳴っているところなんてほとんど見たことがない。

「待たせてごめん」
「いえ。帰りましょうか」
「うん」

 そんな苗字に自分は何度も泣きそうな表情をさせてしまっているのがどうしようもなく辛い。西谷に手を引かれる形でバレー部にマネージャーとして入部した苗字とはいい関係を築けていたと思うし、基本無表情な彼の感情を読み取れるようになった時は嬉しかったものだ。それほど自然に苗字との距離感は縮まっていったのに、俺は突き放してしまった。
 謝りたい。言わなきゃ、ずっとこのままだ。言わないと、後悔する。
 お互いに無言のまま歩く帰り道は暗く、街灯の明かりと雲に隠れた僅かな月明かりだけが二人を照らした。歩くたびに揺れる手がほんの少しだけ触れ合うのがもどかしい。二人だけになるのが、隣を歩くのが久しくて、まともに顔も見れないほど緊張していて、それでもなんとか伝えなきゃと口を開いた。

「戻ってきてくれて嬉しいです」

 だが声を出そうとした瞬間、タイミングが良すぎるだろうと文句でも言いたくなる程絶妙なその瞬間、手を握られる。喉元まで来ていた言葉は飲み込まれなんだか泣きたくなった。

「謝らせて、くれないんだ」
「謝ってほしくないです」

 握られた手は弱弱しくすぐに離れてしまいそうなのに握り返してやることもできないくらい、怖いよ。

「俺、ひどいこと言って傷つけたのに……言わせてよ」
「……ダメです」

 俺は苗字に嫌われるのが怖い。練習がキツかった日や試合で負けた日に落ち込んで挫けそうになった時、支えるように励ましてくれた苗字を拒絶してしまったあの日の自分を殴りたいくらいだ。苗字は優しいから謝らなくても許してくれる。けどそれに甘えるのは違うだろ。

「じゃあ俺は、どうすればいい?」

 どうすれば俺は俺を許すことができるかな。
 沈黙が二人を包み耳に届くのは靴の踵が擦れる足音と通りかかった自販機の唸る音だけ。もうすぐ別れ道だ。あと少しでこの手は離れていってしまう。

「バレー部からいなくならないでください」
「……うん」

 落ち着いた、凛とした声が鼓膜を震わせた。

「放っておけ、なんて言わないでください」
「うん、ごめんな」

 もちろん、もう二度と言うつもりはない。もう傷つけたくはない。弱い俺でごめん。

「謝らないでください」
「うん」

 別れ道が近づく程に歩む足がゆっくりになっていくのは東峰だけではなかった。触れた手は熱く離れがたいのにちょっと力を入れたら解けてしまいそうで心だけが焦ってしまう。
 なんでそんなに優しくするんだ。

「俺のこと、嫌いにならないでください」

 スッと耳に入ったその言葉に足を止めて苗字を見下ろすと不安そうな瞳がこっちを見ていた。自分だけじゃなかったのか。嫌われるのが怖いと思っていたのは、自分だけじゃなかった。苗字も俺と同じでずっと怖がっていたのか。
 握られた手を離すと苗字は少しばかり俯いてしまい、そうじゃないんだと言うように手の平から指先をゆっくりと撫でて絡めるように繋ぎ直した。ハッと上げられた顔は普段のポーカーフェイスが僅かに驚きに染められているのが見て取れる。

「嫌いになんかならないよ」

 握り返された手から感じる脈の鼓動が早いのは自分なのか。それとも苗字の?それを知りたいから、今日は遠回りをして帰ろう。