父の付き添いで会食に同席することとなった。軍人になれない身体になってから随分と他者との関わりを避けてきた息子を、少しでも交流の場に触れさせてやろうという優しさだ。これまでたくさんの期待を裏切っているのだから、そんな父の想いを無下にすることはできない。たとえ会食の相手が第七師団であろうとも。
素敵なお店があるんですよ、という鶴見中尉殿に連れられてやってきたのは旭川にある料亭だった。運ばれてくる料理はどれも美味しそうだと中尉殿はおっしゃるが色を正しく認識できない俺にはその価値が判らない。そんなことよりも雑音が耳にまとわりついて落ち着かない。音を聞かないよう意識してもなぜかこの雑音だけは耳に届いてしまう。きりきりと軋むような、ごりごりと削れるような、ザッザッと足踏みをしているような、そんな音が混ざり合っている。
俺は料理から目線を上げて隈のひどい目元を隠すように伸びた前髪の隙間からチラリと中尉殿を見た。父の対面に座るその男はなにやら上機嫌に話をしているが、内容を聞こうと思っていない今の俺にはどんな話をしているのかは聞こえない。雑音ばかりだ。この男から聞こえてくるのは耳を塞ぎたくなるような音ばかり。落ち着かない。気持ち悪い。鹿児島で会った時も、函館での事件の時も、ずっと中尉殿からは嫌な音が聞こえて来る。できることならこの場からすぐにでも立ち去りたい。でも父の顔に泥を塗ることはできない。隣に座る父も中尉殿との会話で忙しいのだから煩わすわけにはいかないのだ。気持ち悪い。頭がぐちゃぐちゃになりそうだ。
「ご気分でも優れませんか」
雑音の中からスッと抜けるように落ち着いた声が届いた。なにが起こったのか戸惑いながら目線だけを自分の対面に座る男へと向ける。たしか月島軍曹殿といったか。彼の一言に父たちの視線がこちらに集まるのを肌で感じた。
「確かにご子息の顔色がよくありませんね。私としたことが話に夢中になりすぎて気づきませんで申し訳ありません」
「気にせんでよか。こん子は人に慣れちょらんで緊張しちょっと」
大きくて温かな手が背中に添えられ、そこでようやく俺は父に顔を向けた。心配そうな眼差しを向けてくる父に心苦しくなる。本当のことを言ってしまいたい。中尉殿とは関わり合いになりたくないと。しかしそんなことを言えるはずもなく口を噤むことしかできないのだ。
俺は正座の姿勢を崩さないまま身体の向きを父や中尉殿のほうへと変えて軽く頭を下げた。
「少し外ん空気を吸ってきもす」
「一人では心配ですね。月島軍曹」
「はい」
一人でも大丈夫だと断りを入れる前に軍曹殿に誘導され部屋を後にした。料亭内を歩き中庭に面した廊下へと出る。月のせいで俺の目には昼のように明るく見える中庭も、本来なら情緒ある風景に見えるのだろうか。そんなことを考えながら、廊下の縁に腰を下ろして足を外に投げ出す。中尉殿から離れたおかげで雑音は嘘のように聞こえなくなった。
前を歩いていた軍曹殿が座っている俺に気付いて同じように隣に腰を下ろした。
「今は聞こえておられますか」
その問いに時間を置いて頷いた。海軍の間では鯉登家の三男坊は耳が不自由で聞こえないことがほとんどだと言われている。どうやら陸軍に於いても誤った情報が噂として周知されているようだ。本当はその逆で良すぎる聴力が故に音を聞かないようにしているだけである。だがそれを知っているのは自分と敬愛してやまない兄だけ。
だから不思議だった。なぜあの時、この人の声が聞こえたのだろうと。父や母、兄の声ですら俺は意識しない限り聞こえない。でも今は意図していなくともこの人の心臓の音だって俺に届いている。
「……軍曹殿の声はよう聞こえもす。ないごてやろうか」
「さぁ、なぜと言われましても……たまたまではないですか」
そしてそれを不快と思っていないことにも戸惑いが募るばかりだ。中尉殿とは違う意味で落ち着かなかった。でもどうしてだろうか。耳を塞ぎたいとは思わない。むしろもっと聞いていたくなる声。音。こんなふうに想うのは初めてだからどうしたらいいのか分からない。
「ご気分は大丈夫ですか、名前殿」
「おいの名前……」
「もちろん存じていますよ。鯉登少将の大事なご子息ですから」
家族や使用人以外に名を呼ばれるのは久しぶりのことでドクリと自分の心臓が大きく跳ねた。抑揚のない声音だからこそ煩わしくない。余計な感情が伝わってこない。兄の優しさに溢れた音は好きだが、軍曹殿の音も心地がいいと感じ始めてきてしまった。しかし俺はこの時思い出すべきだったのだ。この人の心臓の音を、声音を、あの函館の事件の時にすでに聞き覚えていたことを。
「月島軍曹殿、なにか話をしたもんせ」
「話、ですか」
「なんでんよか。おいはもう少しだけ軍曹殿の声を聞いちょってじゃ」
これより数年後、俺は再び軍曹殿の声で名を呼ばれることになる。金塊争奪戦の戦場で。