弁天と人


 京都の静かな夜。一人で月見酒をしていると、空から美女が降りてきた。天女と見間違うほど美しいその女性は、比喩でもなんでもなく、本当に星空の海から舞い降りた。まるで桜の花びらがゆっくりと地面に落ちていくようにふわりと地に足を着いた彼女は、月を背負うのがとてもよくお似合いの方だ。

「あら苗字さん。月見酒ですか」
「こんばんは弁天様。よければご一緒にどうでしょう」

 弁天様は人間である。しかし人間であるにも関わらず天狗の力を自由自在に扱え、空を自由に飛ぶこともできる。ここは京都であるから、人間が天狗の力を使えると言われても僕は全く驚かないのだ。人間がいて、狸がいて、そして天狗がいる。ならば彼女のような存在がいても不思議でもなんでもない。
 隣に座った弁天様は当然のように差し出したお酒入りの紙コップを受け取った。そしてまるで水を飲むかのようにするするとお酒を流し込んでいく。だがそんな姿でさえ下品さはなく、美しい。

「不思議だわ。あなたは私をお嫌いなのかと思っていました」
「なぜあなたを嫌わなければならないのです?」
「だって私は狸を食べてしまうもの」
「人として生きていれば、狸を食べることもありましょう」

 彼女は、僕の恩師と同じく金曜倶楽部に入っている。その倶楽部で毎年恒例となっているのが狸鍋だ。とても楽しそうな表情で夜空を見上げる彼女は知っている。僕が狸と親しい間柄だと。友人なのだ。僕は、狸たちと。だからと言って金曜倶楽部の方々に狸を食べるなとは言わない。人が狸を食べることも、狸が人に食べられることも、生きていれば起こりうることなのだ。

「もし私があなたにとって大切な狸を食べてしまったら、あなたはどうなるのかしら」

 怖いこと仰る方だ。
 神とは、本来恐ろしい存在だと幼い頃に祖母から教えられた。優しい面を持ちながらも同時に災いも厭わないのだ。私は時々、弁天様が神のような存在に思えて仕方がない。そんなことを言ったらきっと彼女は笑うだろうか。それとも悲しい顔をなさるのだろうか。
 夜空を見上げた美しい横顔が少し傾き、流し目がこちらを伺ってくる。彼女の目元がスッと細められた。

「あなたが怒ったところを拝見したことがないわ」
「そうでしょうとも。僕には怒った記憶がありません。きっと怒ることが下手くそなのだと思います」
「それは残念。ぜひ見てみたかった」

 残念と言いながらもその声音はとても楽しそうで、僕はお酒の表面に映る歪んだ月に視線を俯けた。少しだけ、ほんの少しだけ想像してみよう。もし正二郎さんが鍋の具として食われてしまったら果たして僕はどうなるのだろうかを。
 ある日突然、僕の知らないところでさよならを告げる狸の姿を脳裏に思い描いた。いつものように南禅寺へ訪ねても、やぁいらっしゃいと暖かく出迎えてくれる彼がいない光景を映し出した。綺麗に毛繕いされ、まん丸になった体をもう撫でられないのかと、あのふわふわした感触を思い出した。それらが全て一度に失われてしまうのは、それは、とても哀しいことだ。とても辛いことだ。
 見上げた月は、カップの中と同じように歪んでいた。

「綺麗ね」

 月を遮るように目の前に立った弁天様が僕の頬に流れる涙をそっと指で掬った。ただの液体だった涙はまるで宝石のように結晶化しコロリと彼女の手のひらに転がる。

「これ、頂くわ」
「しがない男の涙ですよ」
「だって綺麗なんですもの。もっと大粒なものが欲しいくらい。狸を食べてしまえば手に入るかしら」
「よしてください。そんなことをされては僕の涙はきっと枯れてしまいます」
「ふふ。それは楽しみね」

 そうして弁天様は不敵に微笑んで夜空へと消えていってしまった。隣には中途半端に中身の残った紙コップが残されている。いずれ僕も一人残されてしまうのだろうか。今夜のように月を見上げながら彼との思い出に浸って涙を流すのだろうか。逢いたいのに逢えない悲しみに頬を濡らすのだろうか。
 なんだか無性に正二郎さんに逢いたくなってしまった。こんな夜遅くに訪ねては迷惑だろうかと僕は立ち上がって月に背を向けた。