屋敷のテラス席で静かなティータイムを過ごしていたストラスは不意に聞こえた軽快な電子音に視線を上げた。すると同じテーブルで穏やかな時間を共にしていた数少ない友人がスマートフォンを片手に出ても構わないかと問いかけるように小首を傾げてくる。無作法にしても誰も文句は言わないけれどその些細な気遣いが憂鬱な心には好ましいと思いながら応えるようにどうぞ、と手で軽くジェスチャーを送ってみせた。
それを受け、少年の姿をした悪魔は友人の厚意に軽く微笑んでから電話を耳元へと近づけた。そもそも画面に表示された名前を見た瞬間から出ないという選択肢は彼には存在しなかったのだが。
「やぁ。ご機嫌はいかがかな、チャーリー」
『ハァイ、ナマエ! とても素敵な気分よ。聞いて、嬉しいことがあったの! あなたにこの喜びを伝えたくてうずうずしてる』
「声だけでも君の笑顔が想像できるよ。んー当ててみよう。ホテルに新しいお客さんが来たのかな」
『さすがなんでもお見通しね。そうなの、なんと一週間も滞在してくれてるのよ! これってすごい進歩だと思わない!?』
「君の努力が報われたのさ。よく頑張ったね」
『ありがとう……でもまだまだこれからよ! 次のエクスターミネーションまでに成果を挙げなきゃ……!』
電話越しでも充分すぎるほどに伝わる喜びと期待、そこに混ざる切羽詰まったような焦った声調に目を細める。できることならば彼女の為に力になってやりたい。けれど自分に何ができるのか、ずっと考えてきたけれどまだ答えは見つけられそうもなかった。望まれているものと与えられるものが一致しないというのはどうにももどかしい。
ナマエと呼ばれた少年は膝の上に乗せている仔犬のぬいぐるみを撫でると、気分を換えるように口元に優しく笑みを浮かべた。
「ねぇチャーリー、久しぶりに君の見ている世界を僕にも見せてくれないかな」
『もちろん、あなたならいつでも大歓迎』
「嬉しいな。ちょうどプライドリングまで来ているんだ、せっかくだからこれから伺ってもいいかい?」
『え、今から!? えーっと大丈夫……そうね……えぇ平気よ! あ〜でも一時間、いえ二時間だけでいいの、そのぉ……オシャレをする時間を頂戴!』
「急なお願いだ、無理なら日を改めるよ?」
二人はお互いの近況を気軽に話せる仲であり数年も会わないなんてことは決してない。むしろその気にさえなれば毎日でも一緒にいるだろう。対象は極限られているが相手の都合を考慮するくらいの余裕はナマエとて持ち合わせている。そうでなくても永遠とも呼べる命を持っている地獄生まれの悪魔なのだ、時間という概念は些細なことだった。
だから今すぐにでも顔を合わせて君は良く頑張っていると褒めてあげたいという本音は言わなかったのだが、相手は悪魔とは思えないほどの優しい心を持った地獄のプリンセスだ。
『ううん問題ないわ! 声を聞いてたらあなたにすごく会いたくなっちゃった』
偽りの仮面を疑う隙すらない愚直な気持ちを伝えられては込み上げる喜びの感情を抑えるのは非常に難しい。
「……僕もさ。君に会いたくて堪らないよ」
『ふふ。それじゃあ二時間後にホテルに来て。待ってる!』
再会を待ち望む明るい声を最後に通話が切れた。返ってきた言葉が例えお世辞であっても快く受け入れただろう。僕のことを思ってくれてありがとうとその心遣いに感謝もするだろう。けれどもチャーリーは望んだ以上のものを与えてくれた。これがどれだけ自身の欲求を満たしてくれたことか、きっと彼女は知らないのだ。
そうしてスマートフォンを愛おしそうに見つめる姿をストラスは半分ほどに減った紅茶の入ったティーカップを片手に見つめていた。出会った頃から変わらない少年のままの友人が抱えている秘めたる事情の一部を認識しているからこそ通話相手とのやり取りを微笑ましく、そして羨ましくも思う。そんな視線に気付いたのかナマエが視線を手元から上げて少しだけ困ったように笑った。
「君を忘れたわけじゃないよ」
「分かってるさ。目の前にいても君はいつも遠くの誰かを思っているからね。もう行ってしまうのかい?」
「この紅茶をゆっくり味わう時間はある。あぁ、クッキーも必要だね」
言いながら宙に円を描くように人差し指が振られるとティーポットがふわりと浮かんでストラスのカップに湯気の立つ紅茶が注がれていく。次いで指を鳴らせばティーセットと同じ柄の陶器の皿の上にアイスボックスクッキーがポンッと現れた。
「さぁ、もう少しだけ寂しがり屋な友人とお喋りをしよう」
その粋な計らいに四つの瞳をまん丸とさせるストラスはこれでどうだいと言うような笑みを浮かべた友人に釣られるようにして肩を揺らした。抗うつ剤の摂取を必要とせずに済みそうなほど穏やかな気分だ。思わず愛しのインプについて語り始めてしまうところだったがそれを察したのかナマエが先手を打って最近ご息女はどうしているかと問いかけた。おかげで、優雅なティータイムの場に破廉恥な言葉が飛び交う事態は避けられたのだった。
一方、ハズビンホテルでは既に画面が真っ暗になったスマートフォンを両手に持ったままのチャーリーに視線が集まっていた。彼女側だけの会話しか聞こえていなかったがどうやら知り合いがホテルを尋ねてくるという状況はラウンジで各々過ごしていた全員が理解している。
「どうしよう……どうしようどうしようどうしよう!!」
冷や汗をかきながら焦る姿を見るなんて次にやってくるエクスターミネーションまでの期日が半分に減ってしまう事態になった時以来だろうか。通話中の全身で相手を歓迎しているという空気からは打って変わったチャーリーの様子に男性陣は無言で視線を合わせるしかなかった。一つ確信していることがあるとすればきっと面倒なことに巻き込まれるだろうことだけ。
そこで唯一事情を把握できているヴァギーが歩み寄り、そっと肩に手を添えた。
「ちょっと落ち着いてチャーリー。そんなに困るんなら今からでも断ったら?」
「それはダメ。私は、ナマエのお願いを断るなんてできない」
それを聞いて、いや通話中もそこそこ気にしてはいたがチャーリーの言葉によく彼女は怒らないものだとエンジェル・ダストは驚く。二人は恋人同士だ。誰も間に入ることが出来ないほどの固い絆がある。そうでなくとも恋人に近寄る男がいるだけで警戒するのがヴァギーだ。なのに今は一ミリの嫉妬も見せていない。こうなると面倒事と解っていても好奇心が勝ってしまう。
「なぁ、そのナマエってのは一体何者? 随分親しそうに話してたけどもしかしてもう一人恋人がいるとか? さすがお姫様、やるねぇ」
「ちょっとエンジェル、変なこと言わないで」
「違う違う、私の大切なかー……じゃない、友達。そう、あの子は友達よ!」
「まぁそういうことにしておいてあげてもいいけどー?」
「その顔やめて」
「面白くない冗談はさておき。なるほど。ではその大切なオトモダチがこれからここへいらっしゃるというわけですね。でも、アナタは困っていると」
ヴァギーから呆れた視線を向けられても揶揄いの態度を崩さないエンジェルを余所に、いつの間にか輪の中には深い笑みを浮かべたアラスターが混ざっていた。出没自在な彼の行動にはほとほと慣れてきたのか特別驚きの声は上がらない。
「ええ……でも二時間の猶予は稼げたわ! その間にできることはやっておかなくちゃ」
そう意気込むチャーリーだが一体どこの誰が来客するのか、どうして焦っていたのか、できることとは何を指しているのか、何一つとして正確な情報はないままだ。このホテルに来てからのこれまでの経験を踏まえてどうあがいても無視を決め込むのは難しいと悟ったハスクは、さっさと話を前に進めようと磨いていたグラスをカウンターに置いて溜め息とともに口を開いた。
「で、俺たちにどうしろってんだ?」
「大丈夫、やることは一つだけよ。それにこれも更生のためのレッスンには丁度いいかもしれない。いい? これから皆で掃除をします。ホテルの隅から隅までとことん、埃ひとつ失くす勢いで!」
「掃除ならニフティ一人で充分だろ」
「アタシお掃除大好き!」
「ほら」
「もちろんニフティのおかげでこのホテルはとっても綺麗よ。でも今回は皆でやるの。むしろやってくれるととても嬉しい……だってこういうのは最初が肝心でしょ。もし少しでも汚れが見つかって床に足をついて歩いてくれなかったらきっと、ううん絶対に、二度とここへは来てくれなくなる……」
毎度お馴染みになりつつある突然の更生レッスンに釈然としないのもあるが、それとは別に想像だけで落ち込み始めるチャーリーにさすがのエンジェルも揶揄う気分ではなくなり二本の腕を胸の前で組み、もう二本の手は腰に当てた。そして少し考えた素振りを見せてから首を傾げる。
「つまり……どういうこと?」
「あー……あの子はとても綺麗好きで汚れてるのが苦手、というか素手で人や物に触れるのも多分無理かなーハハハ……その、なんていうか、ね?」
「はぁ。潔癖症って言いたいのよ」
「嘘だろ!? ここは地獄だ。そこかしこに汚物がぶちまけられてる。病気にならないのが不思議なくらいにな。ま、オレたちはもう死んでるから病気になんかならないけど。まさかお友達は天使ちゃんか?」
「言いたいことは分かるわエンジェル。だから滅多に罪人たちのいるここへは来ないの。けど、そんなあの子がこのホテルを見たいって、ここへ来たいって言ってくれたのよ。私はあの子をガッカリさせたくない……お願い、力を貸して」
いつも鬱陶しいくらいに前向きな彼女にしては押し付けがましくもなく助力を願う程の自信のなさにエンジェルはいたたまれなさを感じてしまう。まるで自分が悪いみたいじゃないか、と。もちろんそんなつもりはない。ただ事実を述べただけだ。それに否定したいわけじゃない。気まずさから視線を逸らせば仏頂面のハスクと目が合い肩を竦まれてしまった。思わず人任せにするなと文句を言ってやりたかったがなんとか言葉を飲み込んで、ふざけた調子を装うように髪を撫でる。
「別に断ろうなんて思ってない。オレだって綺麗なほうが好きだしね」
「私も賛同します。清潔なのは良いことです。さぁエッギーズたち清掃を開始するんだ!」
「アタシも! あんなところもこんなところもピカピカにしちゃう!」
「ま、たまにはグラス以外を磨くのも悪くないな」
「おい、そう思ってるんならもっと早く加勢してくれよ。変に気ィ遣ったじゃん」
「これも更生への一歩だと考えればいいだろ」
「他人事だからって適当言わないでくんない。ニフティ、掃除用具どこ? こうなったら一流ホテル並みの見栄えにしてやる」
贖罪のためのレッスンにはあまり乗り気ではない彼ら──とくにエンジェルとハスク──が自ら進んでホテルの清掃に取り掛かる姿にチャーリーは感激のあまりまるで神に祈るかのように両手を握り合わせて瞳を潤ませた。今回は罪人たちのためというよりもむしろ自分のためという理由のほうが強かったが結果的に良い方向に進んでいるのならば気に留める必要はない。
「ありがとう皆……!」
「さ、チャーリー時間がない。私たちも始めるよ」
そんな恋人を愛おしそうに見つめて手を引いたヴァギーだったが、いつの間やらアラスターが姿を消していることに気付いて呆れたように顔を顰める。清掃係を雇った悪魔が自分には必要ないと解っている労働などするはずもないのだ。このまま来客が来ても余計な首を突っ込まないで欲しいと心の中で呟いて広いホテルの掃除を始めた。
時折各所から愚痴がこぼされる中で二時間のタイムリミットをたっぷりと使って進められた大掃除。ホテルの内装はより一層の輝きを持ち、ニフティが日々攻防を続けている地を這う虫たちは一匹残らず窓の外へと放り出されていた。万が一の可能性を考慮してもし隙間から侵入してくることがあれば即座に処理するよう小さなお掃除好きにはお願い済みだ。
いつも以上に清潔となったメインエントランスを見渡していたチャーリーはホテルの外に馴染みのある気配を感じた。隠しきれないワクワクとした足取りと僅かな緊張の面持ちを見せながらも大切な来客を迎えるためにドアを開ける。するとそこにはお世辞にも可愛らしいとは言えない仔犬のぬいぐるみを抱えた少年の姿をした悪魔が宙に浮いていた。ぱちりと目が合うとふんわりと微笑むその姿はなんとも愛らしい。
「御機嫌ようチャーリー」
「あぁナマエ! 会えて嬉しいわ! さぁ入って、ここがずっとあなたに話していたハズビンホテルよ」
挨拶のハグを交わし急かすように手を引けばナマエは背中に生やした爬虫類のような翼を軽く羽ばたかせた。そして招かれるようにホテルの中へ入るとロビーにいる従業員や宿泊客の存在には関心を示さないまま、床や壁など部屋の隅々にまで目を向けてしまう。涼しい眼差しだが彼がどれだけ清潔さに厳しいかは汚れ一つない整った身形を拝見すれば誰でも察しはつくだろう。しかしその度合いまではきっと推し量れない。それをよく知るチャーリーは不安そうな顔で見守るしかなかった。
「外装は見るに堪えないけど中は随分と……うん、マシみたいだね」
「こんだけやったのにマシレベル?」
現状でもまだ不満はあるが仕方なく受け入れようというニュアンスの言葉に思わずエンジェルの口からは悪態が漏れる。地獄に落ちた日から他人のためにここまで自分の手で掃除をしたのはほぼ初めてになるから文句が出るのは仕方のないことだろう。果たしてその声が聞こえていないのか、それとも聞き流しているだけなのか、ナマエは表情をぴくりとも変えずにショートパンツの丈からすらりと出ている足を鏡のように磨かれた床にゆっくりと着いたのだった。
姿は子供だけれどピンと伸びた背筋とだらしなさの欠片もない姿勢はこの地獄では滅多にお目にかかれない紳士然とした悪魔なことが伺える。と、同じタイミングでエンジェルとハスクは身近にいる赤いスーツを着たラジオパーソナリティーに目を向けた。立ち居振る舞いは立派だがこれまでしてきた悪事を思えば紳士と呼べるかは甚だ疑問だ。そんな呆れた視線に気付かれる前に件の少年へと意識を戻せば、ホッと胸を撫でおろしたチャーリーに抱きしめられクルクルと回されていた。すっかり二人の世界に入り込んでいて自分たちの存在は忘れられているのかもしれないと肩を竦める。
「チャーリーの友達っていうから女の子かと思ってた」
「あぁ。しかも想像してたよりも子供だな」
「交友関係が広いんですね」
「アンタたちと違って地獄で生まれ育ったんだから当然でしょ」
「そんなことよりキミは平気なわけ? あいつ、男といちゃついてるけど」
「子供と戯れてる微笑ましい光景に嫉妬しろって? 彼はアンタとは違うの」
確かに、と今にも歌い出しそうな程ご機嫌なチャーリーからの頬擦りにも慈愛の笑みを崩さない少年を改めて見つめたエンジェルはどこかすっきりとしない気分に眉を顰めた。揶揄うつもりで言ったのではない。相手は子供だと解っているのにどうしてか無意識のうちにそう口にしていたのだ。おかしなことに何故という疑問すら抱かないことに本人は気付いていなかった。
遠目から見守るような彼らを横目で見ていたが一頻りチャーリーの好き勝手にさせていたナマエはさすがにこのままではいつまでも続きそうだと彼女の背中を優しく叩く。
「そろそろ見せてくれるかい、君の世界を」
「あーそうね! 皆を紹介するわ!」
数か月振りに顔を合わせる相手にはしゃぎすぎたことを自覚したチャーリーは急いで抱きしめていた小さな体を床に降ろし手袋をしている手を引いた。そして立ち並ぶホテルの宿泊客と従業員の前までやってきては矢継ぎ早に一人一人を紹介するように手で示していく。
「ヴァギーはもう知ってるね。そう、私の恋人。その隣にいるのはハスクよ。ここのバーテンダーなの。こっちはエンジェルダスト。ホテルの最初のお客さん」
「ハァイ可愛いボクちゃん。大人の遊びを知りたかったらオレが教えてあ・げ・る」
「おいそれやめろ」
「なんだよ。別に子供相手にまで盛らないって」
「当たり前だ。俺はな、ガキ相手にそういう冗談をやめろって言ってんだ」
「そう怒らないでよ。一歩外に出ればセックスとドラッグにまみれてるんだ。道を踏み外す前に莫迦を見ないよう教えるなんてむしろオレって親切だろ?」
エンジェルとハスクのこのような不毛な遣り取りは既にハズビンホテルでは日常と化している。慣れてしまっているホテル関係者とは違い、始めてそれを目の当たりにした仔犬のぬいぐるみを抱えた少年は目線を斜め下に落として何かを考える素振りを見せた。その姿に不快な思いをさせたかと慌てたヴァギーが二人を止めようと口を開くが、それよりも前にナマエは胸元に片手を当てて微笑んだ。
「ご親切にどうも。しかし、こう見えて君たちよりは地獄での生活が長いものでね。それなりに見聞は広いつもりさ」
「見た目ほど子供じゃないってわけね」
「紛らわしい格好だと思われるだろうがこれが中々役に立つ。あぁ、それと”パパ”は間に合ってる」
「へぇ?」
「ハイッ次! 次ィ!」
意外にも聞き流されなかった戯言に対しての思わぬ返事に興味を持ち始めたエンジェルは面白そうだと言わんばかりの表情を浮かべた。だが根掘り葉掘り相手の性癖を掘り下げようとする前にそれに気付いたチャーリーが慌ててナマエの両肩に手を置いて小さな体の向きをひょいと変えてしまう。彼女としては大切な友人同士が仲良くなるのは願ってもない限りだろうが話題のチョイスが悪かったようだ。とは言え、案外この手の話にノッてこれる悪魔だということが分かっただけでも親しみは感じやすかった。
さて、と仕切り直すように一息吐いてチャーリーは残りのメンバー紹介を再開した。
「この子は客室係のニフティ。このホテルが清潔を保ててるのは彼女のおかげ」
「アナタも綺麗好きなのね。アタシとお揃い! さっき捕まえた虫見る?」
「遠慮しておくよ」
「あーニフティ! それ外に捨ててきてくれる? 急いでお願いね」
懐から針に刺さった黒い虫を取り出しながらでは見るかどうか尋ねるのはあまりにも意味がなさすぎる。けれど無邪気な清掃係が相手ではこの指摘こそあまり意味がない。ポーカーフェイスを崩していないナマエが胸の内では悲鳴に近い罵詈雑言を連ねているのではと察したチャーリーはぎこちない笑みを浮かべて窓辺に走っていくニフティに小さく手を振った。
「バラエティーに富んだホテルだね」
それが誉め言葉ではなく皮肉だということはこの場の全員が痛感したのは言うまでもない。
「さてナマエ。こちらが新しい入居者のサー・ペンシャスよ!」
「あぁ、彼が電話で話してくれた罪人だね。よろしく」
「ど、どうも」
スッと差し出された手にペンシャスは戸惑った。何度も念入りに潔癖症だと聞かされた相手だ。真っ白で汚れ一つない清潔な手袋をしているとはいえ握り返してもいいのだろうか。この手袋でさえ穢れるのを嫌がるのではないか。けれど社交的な挨拶を無視するのも失礼にあたるだろう。問題ない、ちゃんと念入りにシャワーも浴びたし消毒液も浴びたのだ。
そうして意を決して握手を交わせば愛らしい笑顔を向けられて緊張で強張っていた体の力を抜いた。
「チャーリーのためにこのまま更生への道を歩み続けてくれると僕としても嬉しい限りだ。期待しているよ」
「ハイッ、誠心誠意頑張ります……!」
が、何故だかその笑顔に底知れない圧迫感を抱き尻尾の先までぞわりと何かが這ったような居心地の悪さを感じてしまう。本能的に逆らってはいけないと脳が忠告しているようだ。まるで蛇に睨まれた蛙である。姿が蛇なのは自分であるのに気分は蛙なペンシャスがその緊張から解き放たれたのは握手していた手が離れ、視線が逸らされた時だった。そんな彼の様子に気付いたのは唯一アラスターのみである。つまるところ救いも同情も差し伸べられることはないということだ。残された癒しは何も知らないエッギーズだけなのかもしれない。
「ナマエ、あなたが私の夢を信じてくれて本当に嬉しいわ。一緒に頑張りましょうね、ペンシャス!」
極一部のみが空気の違いを察している中でもチャーリーの声は変わらず明るかった。
「じゃあ最後にこのホテルの運営責任者の────」
「あぁチャーリー、君の楽しみを遮ってごめんよ。でも大丈夫、彼の紹介は必要ない」
「え、二人は面識があるの?」
「ただの顔見知りさ。ね、Mr.ラジオデーモン?」
「えぇ。以前お会いしたことがあります。ですがアナタがチャーリーと親しい間柄だったとは存じておりませんでした。ますます興味がわいちゃいますねぇ、二人の関係を伺っても?」
「教えても構わないが君にとっては退屈な答えしか持ち合わせていないよ。満足できる返事を期待しているのなら裏切ることになる。僕としては君の期待になんて応える義理はないけれど。僕と彼女は友人さ。とても古いね」
「んー……そうですか。ま、今はいいでしょう」
アラスターは元々貼り付けていた笑みを更に深くするだけでそれ以上追及はしなかった。それとも隠された秘密を吐かせるならチャーリーのほうが楽だと判断したのだろうか、と口のよく回る彼らの会話を聞きながらハスクは他人事のように思う。まだ会ったばかりだが見た目がよく似ている彼女とは違いナマエは感情的でなく外見に似合わず随分と理性的な悪魔だ。並べて比べるとよく分かる。静と動。似ているのにこうも違うのか。
ふと、何故二人を比べているのかとハスクは眉を寄せる。どうして似ていると認識したのか。しかし考えても靄がかかったように答えは見つけられず、無駄なことだと早々に諦めて酒瓶を煽った。
全員の紹介が終わりチャーリーは改めてナマエの手を握ってエントランスの中を歩き出した。あそこは皆が集まって寛ぐラウンジで、あっちはいろんなことを語りながら飲むバーで、と日常のワンシーンを取り入れながら説明していく。家族の写真も飾ってあるのだと嬉しそうに話しながら向かい合った。
「ねぇナマエ、あなたに見せたいものがあるの! きっと驚くと思う!」
「それは楽しみだ。何を見せてくれるのかな?」
「うふふ! 準備するからちょっと待ってて」
そう言ってヴァギーと共に階段を登ってどこかへと行ってしまったチャーリーを見送ったナマエは楽しそうなその姿に優しい笑みを浮かべる。だが彼女の声が遠ざかり姿が見えなくなると途端に表情から感情を消し、その場に残された一同をじっくりと見渡した。そうして見定めるような視線を流しアラスターを捉えるとぴたりと止まる。母に似た切れ長の目を細めながら背中に生えた爬虫類を思わせる羽を広げて体を宙に浮かせると細い脚を組んだ。
先ほどまでとは打って変わった態度にアラスターも歯を見せながら口角を吊り上げる。
「やっぱり君が一番の懸念点だ」
「おやおや猫を被るのはもうお終いですかぁ? チャーリーの前では随分とお利口に振舞うんですね〜」
「生憎と彼女に対して偽りの態度を示したことはない。君と違っていつでも誰にでも同じ姿勢ではないんだ。こっちがよそ行きの顔というわけさ」
「大抵の場合は他人に外面を良く見せる時に使う言葉ですがね。アナタはそれに当てはまらないようだ」
「中身のないお喋りは時間の無駄。さて、君は一体何が目的であの子に近づいた? 罪人やそこらの悪魔たちに何をしようと勝手なことだけど、ただの興味本位や君の欲を満たすためだけにもし彼女を利用しようとしているのなら……」
まるで言葉の続きを伝えるように抱えられたぬいぐるみの歪な口がじわじわと開き、中から濃い灰色のモヤが生き物のように蠢きながら溢れてくる。
「ほう、どうするおつもりで?」
対するアラスターはより一層笑みを深めてマイクのついた杖を床に突き立てた。すると足元の影が広がり数本の触手が現れて、鋭い先端はナマエへと向けられている。
そんな一発触発な急発展に先ほどまで近くで様子を伺っていたエンジェルたちも壁際まで下がり見守るしかない。一方は他人の苦しむ姿を見るのが好きなサイコパス。もう一方はその恐ろしさもまだ不明な見た目だけが愛らしい悪魔。一つ言えることはポップコーンを抱えて悠長に見物してる状況ではないということだった。
「オレ、チャーリー呼んでくるよ」
「待て待て、俺が行くからお前はここで見張ってろ」
「はぁ!? 何かあったらどうすんのさ。オレ一人であいつらを止めろって? そんなの無理」
「私もいます! 後方支援なら任せてください!」
「アタシもいるよ!」
随分と後ろ向きなことを言っているくせに胸を張るペンシャス自身の戦力は誰もが充分に把握している。もしかしたらノリだけで便乗している天真爛漫で予測不能なニフティのほうがワンチャンスあるかもしれない。けれどそれは大きな賭けにしかならないとハスクとエンジェルは視線を合わせて肩を竦めた。残念ながらアラスター一人でさえ止められる者はここにはいないということだ。
そうと解れば一切の手出しはせずに安全第一で見届けるしかない。出来もしない打開を諦めた頃合いでタイミング良くバタバタと走る足音がエントランスまで聞こえてきた。チャーリーが戻って来たようだ。
「お待たせー……あれ? どうして皆して端っこに集まってるの?」
「ナイス、チャーリー。助かったよ」
「よく分からないけど役に立てたみたいで良かった」
壁際に身を寄せていたエンジェルたちの様子に首を傾げる彼女がエントランスへと続く階段に現れるよりも前に、たった一瞬でナマエの纏っていた不穏な雰囲気は一掃されていた。そしていつの間にやら床に足もついており何事もなかったかのように柔らかな微笑みを浮かべている。不気味な奴だな、と思わず誰かが呟いた。
階段を降り、エントランスの中央で向かい合う二人に気付いたチャーリーは更に不思議な面持ちで歩み寄った。
「なにかあったの?」
「なにもないよ。世間話をしていただけさ」
「えぇ、少々お話に花が咲きすぎてしまったようです。彼とのお喋りはとても有意義でしたので」
その言葉を聞いて小さな懐疑な念を滲ませていた眼が大きく見開き、ぱあっと表情が笑顔で満たされる。
「あんたたちが仲良くなって嬉しいわ! ほら、さっきの様子だとお互いに警戒心が強かったみたいだから少し不安だったの。でもそんな心配いらなかったみたいね」
「チャーリーのために働いてくれる人を嫌うわけないだろう? 友好的にこのホテルに居続ける限りは、僕も誠意を見せないと」
「ではその心配には及びませんね。私はいつでも紳士的ですから。まぁアナタが私の邪魔をするというのなら態度を改める必要はありますが……チャーリー、オトモダチにお披露目したいものがあるのでは?」
「そうだった! ナマエこっちへ来て」
忘れないうちにと後ろからナマエの両肩を掴みそのままラウンジへと連れていくと、そこではヴァギーが部屋から持ち出したプロジェクターとスクリーンの準備をしていた。それにお礼を伝えてから暖炉の前に置かれているソファに腰掛け、ここへ座ってと促すように自分の隣を軽く叩く。だが潔癖症の少年は中々座ろうとはしない。さすがに招いたお客様を立ちっぱなしにさせて従業員だけ寛ぐわけにもいかなかった。チャーリーは困ったように笑ってから自身の膝の上に座らせることでこの問題を解決させた。
外見通りの年齢ではないと判明はしたが、受けている扱いに満更そうでもない様子を見るとやはり子供にしか見えない。遠巻きから一連の流れを観察していた一同はそう思いながらもチャーリーに呼ばれるままラウンジに集まりそれぞれが好きなように寛ぎだした。
「じゃあ始めるわね。アラスター明かりを落としてくれる?」
パチン、と指を鳴らす軽い音が響くと照明のスイッチがオフになりラウンジを含めたエントランス全体が暗くなる。プロジェクターが起動されスクリーンに投影されたのはこれまでチャーリーがスマートフォンで撮り溜めていた写真だった。
「これが私の見ている世界。目指す未来よ」
振り返らずともその声を聞けばどんな表情をしているのかナマエには鮮明に想像ができる。夢を語る彼女はとても輝いていて眩しいくらいだ。写真がスライドしていく度にその時ホテルで起こった出来事やどんな会話をしたのかを語る声はまるでおとぎ話を読んでいるかのように優しく気持ちが安らいでいく。そう、この地獄では彼女が語るのは夢物語。誰もが失礼にも指を差し無謀で愚かなことだと嘲笑う。何度否定されようとも、父親にさえ支持されなくとも、しかし彼女は諦めずに進んできた。そこが魅力的で好きなのだと背中から伝わる温もりを感じながら口元を緩めた。
次第に気分が高揚してきたのかチャーリーは歌で語り始め、たくさんの撮られた写真を見ては周りから冷やかしや焦りの言葉も飛び始める。自然と笑顔も浮かんでしまうそんな賑やかで地獄にしては健全な明るい時間は寂しくもあっという間に過ぎてしまうもの。スライドショーが全て終わるとラウンジには明かりが戻り、ナマエは床に足をついて立ち上がった。そしてくるりと後ろを向いて胸元に手を添えながら今日一番の微笑みを向ける。
「ありがとうチャーリー、君の世界を僕に見せてくれて。今日がとても素晴らしい日になったよ」
「また来てくれる? もっとたくさんのことをあなたに話したい」
「君が望むのならいつでも」
背後に地獄の何処かへと繋がるポータルが現れ、もう帰ってしまうことを察したチャーリーはソファから腰を上げて自分の身長と比べ半分ほど小さな体を別れを惜しむように強く抱きしめた。ナマエはそんな彼女を愛おしそうに見つめふわりと背中を撫でる。
「君は僕の誇りだよ。きっとあの人もそう言ってくれるはずさ」
「うっ……そうかな?」
「僕を信じて。ずっと君からの連絡を待っているんだ、喜ばせてあげてほしい」
体を離し同じ色の瞳を見つめながら最後にそう告げるとナマエは床を軽く蹴って背後にあるポータルの向こうへと姿を消していった。魔法の扉もすぐに濃い灰色の霧に包まれてやがて消失してしまう。それに名残惜しさを感じながらもチャーリーは確かな満足感を得ていた。彼女にとっても今日は素晴らしい一日になったのだろう。
そんな彼女にヴァギーは寄り添い、他の住民はようやく嵐が去ったと言わんばかりに集まってきた。
「よかったねチャーリー」
「うん」
「キミの交友関係どうなってるわけ? そこのお喋り野郎といがみ合ってたけど」
「ただの友達ってわけじゃなさそうだよな」
「なにが起きるのかドキドキしちゃった!」
「私も別の意味でドキドキでしたよ」
「え!? ちょ、嘘、アラスター仲良くなったんじゃなかったの!?」
「何のことを言っているのかさっぱり分かりません」
その密告の真相を誤魔化すようにアラスターは背を向けてさっさと自室へと戻ってしまう。だが隠していても得をしない者ばかりだ。すぐにチャーリーは自分が目を離した隙に起こった出来事を知ることになる。そして本当にあの悪魔は友達なのかという追及もされたが頑なに答えは変わらないのであった。
こうして大掃除に来訪者というイベントが突然起こるのがハズビンホテルの日常であり魅力の一つなのだろう。そう皆が気付くのはもしかしたらまだまだ先のことかもしれない。少し離れたところで全てを見ていたキーキーはそんなことを思いながら空いたソファに丸くなった。
塵さえも氷と化す凍てつく大地を背にナマエは愛しい者と過ごした幸せの余韻に浸りながら空を飛んでいた。やはり実際に顔を合わせ触れるというのは電話で話すこと以上に価値があり、この幸福度だけで半年は多少汚染された場所へ行っても平気な自信がある。そう、例えば会合が無ければ絶対に寄り付きたくはない強欲の階層だ。今ならマモンに会うことすら厭わないだろう。実際には自ら進んで赴くことはないのだが、それくらいチャーリーという存在は彼にとって重要だった。だからこそ常に傍にいて夢見る彼女を支えてやりたいと強く願うも、残念ながら今の自分には望まれるような手助けはできない。
そう嘆く一方で”罪人を更生させ天国へと導く”という夢に対して共感できる気持ちをナマエは持ち合わせていなかった。
「夢なんて抱くだけ無駄さ」
叶う保証などこの地獄の何処を探してもないというのに、と声には出さず言葉を続けて寒々とした空を見つめていた瞳を閉じてから体の力を抜く。一瞬の浮遊感が体を襲うが次の瞬間には柔らかなベッドに身を預けていた。再び瞼を上げると発動していたポータルが閉じていき見慣れた天井が視界に入る。この世で最も安心できる場所。生まれ育った我が家だ。
抱えていた仔犬のぬいぐるみを枕元に置き改めてハズビンホテルで出会った面々を一人ずつ思い出す。欲の向くままに日々を過ごし他人に対して慈しみを微塵も持たない多くの罪人に比べれば確かにホテルにいる連中は多少は救いがあるのだろう。それでもナマエにしてみればどちらも雑輩にすぎない。一つ気掛かりがあるとすれば人形のように顔に貼り付けた笑みを絶やさない鹿の悪魔が関わっていること。誰もが意味のない行いだと無視をすると考えていたのだが質の悪い男に目を着けられてしまった。心優しいチャーリーに近づいたのは彼女を利用するためだろうと容易に想像ができる。中途半端に力を持っている存在は厄介だ。もし彼女に接触すると知っていたら食後のデザート感覚で奴の魂を喰らっていただろう。いや初めて会った時、胡散臭い男だという印象を抱いた時点でそうするべきだった。
しかし既に出会ってしまった以上は過去を悔いても仕方がない。ナマエは両手から外した手袋を炎で包んで灰も残さずに消してしまった。晒された素手は指先だけが黒く変色しており、この手が触れていいものは限られている。その数少ない内の一人がチャーリーだ。だから彼女を傷付けるような輩がいるのなら守らねばならない。
「僕もそろそろ覚悟を決めるべき、かな」
そう呟いてベッドから起き上がり整理整頓され無駄なものが一切ない薄暗い自室を出た。家族の肖像画が並ぶ煌びやかな廊下を進んでいけば両開きの片方が開けっ放しになっている部屋があり覗き込む。大量のアヒル人形に囲まれながらも小さな工房机に向かって何やら勤しんでいる後ろ姿を見せるのはこの地獄の王であるルシファーだ。シルクハットとコートがラックに掛けられているところを見るに今日も外へは出ていないらしい。引き籠りは継続中のようだ。
チャーリーと会えた幸せを少しでも分け与えようとナマエは開いているほうのドアを軽くノックした。するとルシファーがこちらを振り返りパッと顔を綻ばせ立ち上がる。
「やぁナマエ、帰っていたのか」
「ただいま。久しぶりにチャーリーに会ったからパパのことも恋しくなっちゃった」
床に落ちているアヒル人形を踏まないように歩み寄り手の届く範囲まで近づいた瞬間、勢いよく抱き上げられ子供特有の柔らかい頬をむにむにと摘ままれた。
「ハハッ、お前は甘えん坊さんだな。ん? チャーリーに会ったのか? どうだった、元気にしていたか!?」
「気になるのなら会いに行けばいいのに」
「あぁ私はそうしたいよ。ははっ……だがな……あの子は私と会いたがらないだろう?」
ルシファーはナマエを抱えたまま椅子に腰かけると落ち込んだように机の上にある創造物を撫でる。小さい頃のチャーリーは父の創る夢物語のような魔法が好きだったという。今でも憧れや羨望のようなものを持っているかもしれないが、母リリスが家を出て行ってからは二人の距離も離れたままだ。悪魔にとってはたった七年の歳月だが、お互いに素直に連絡を取り合うことができない気持ちにさせる程には長い時間。
家族を愛する者として父の哀しむ顔は見たくないとナマエは小さな手でルシファーの頬に触れる。
「大丈夫だよパパ。きっと近いうちにチャーリーから連絡がくる」
「本当かい?」
「うん。僕には分かるんだ」
それは希望的観測ではなく確信があっての言葉だった。天国の連中と顔を会わせたくないがために天使軍との会合にチャーリーを向かわせたこと、エクスターミネーションの期日が半年に減ったこと、ホテル宿泊客の贖罪が例えうまくいったとしても昇天できるという確証がないこと。そもそも地獄へ落ちた罪人が天国へ昇る方法なんてものはルシファーでさえ知らないのだ。それらの出来事とこれから起こりうる事態を踏まえれば彼女はまた天使との交渉を望むはず。しかし彼女自身にはその場を設ける力はない。ならば誰ならできるのか。それは地獄の王である父だけだ。
結局のところ最後に頼るのは家族なのだとナマエは微笑みを浮かべた。
「だって僕とあの子は共に生まれてきたんだよ。だから分かる。僕たちを助けられるのはパパしかいない」
「ナマエ……あぁそうさ、私は地獄の王だからな! さすがは我が息子、私を元気づけるのが上手だ。よしっ、いつ連絡が来てもいいように身だしなみは常にきちんとしておかないといけないな」
先ほどまでの落胆振りが嘘のようにルシファーは嬉々とした面持ちでラックからハットとコートを取り身形を整え始める。その様子がなんとも愛らしく今すぐにコンタクトがあるわけではない、とはとてもじゃないが言えなかった。でも必ずそうなる未来は既に描けている。
チャーリーの全てが解かるわけではないが繋がりはいつも感じていた。お互いの意識が嚙み合えば今この瞬間にだって彼女の影に移ることができてしまうくらいに強く。おそらく魂を分けた存在だからだろう。同じ場所で生まれ、支え合い、育ってきた。しかし彼女とは違いナマエは夢を抱いてはいない。希望も持たない。それが無駄なことだと知っているからだ。だからといって姉とも妹とも呼べる彼女の夢を否定したりはしない。彼女自身を信じてただ愛するのみ。
なぜなら、地獄のプリンスはプリンセスの影法師だから。彼女の輝きだけが彼を生かし強くする。