ハロウィンの花嫁04


 黒電話の受話器から聞こえる報告に耳を傾けながら降谷は特殊強化ガラス越しに風見を見つめた。いつも通り強い表情を張り付けて真面目に捜査に取り組んでいる姿勢は優秀な刑事そのものだ。今朝方受けた報告を考えればこそ、よりそう思う。助力を乞うはずだった青年の身に起きた危難を聞いたとき降谷は驚き、後悔の念を抱いた。自分ですらそうなのだから部下の胸中は計り知れない。
 現状で起こっている問題の報告を一通り受け、手元の資料ファイルをサイドテーブルへと戻した。それから受話器を持ち直して再度部下へと視線を送る。

「大丈夫か、風見」
『問題ありません』

 迷いのない返答に僅かに眉を顰める。普段ならば降谷からの労いの言葉にさえ驚いた表情の一つでも見せる男なのだが、一切の動揺もない。それどころか、何に対して大丈夫かと声をかけられたのかを風見はすぐに理解しているようだった。それほど心配しているのだろう。不器用なだけならば笑って済ませられた。

「容態は?」
『命に別状はないとのことです。ですが、意識はまだ戻っていません』
「……そうか」

 平然と、いや冷徹に振舞っていることには上司として感心する。だが、このまま情に蓋をしてしまうのではないかという危惧もあった。一方で仕事に私情は持ち込むなと説教をしたのは降谷自身だ。忘れたわけではないし、それが間違っているとも思っていない。ただ、そんな人間は自分だけで充分ではないだろうか。部下を同じ領域にまで連れていく必要はない。
 三年前のあの日、降谷たちが犯人を逃してさえいなければ青年──苗字名前が負傷することはなかった。今しがた報告された江戸川コナンを含めた子供たちが爆発に巻き込まれそうになったことや、捜査一課の刑事が拉致される、なんて事態も起こらなかっただろう。と、そこまで考えて過去を嘆いていても犯人が捕まるわけではないとすぐに思い直す。これはただの現実逃避だと。

『これからどうしますか?』
「一課と協力して拉致された刑事を無事取り返すんだ。我々の持っている情報は全て開示して構わない」
『わかりました』

 この首輪がある以上ここから出ることはできない。コナンが命がけで回収した液体火薬の解析が終わり中和剤が完成するまで降谷が物理的に手を出すことは不可能だ。捜査一課の刑事が拉致されたこともあり一課と協力体制をとるのはごく自然な流れではあるが、これでコナンも捜査がしやすくなるだろうという狙いもあった。
 降谷はこの事件の解決を小さな探偵に託していた。決して公安や捜査一課の刑事たちでは不足していると蔑ろにしているわけではない。ただ自由に動けない自分の穴埋めができるのはその少年以外にはいなかった。それだけだ。

「風見。捜査の合間の少しでも時間がある時でいい。彼の様子を見てきてくれ。いいな?」
『……はい』

 最後にそう指示を出した降谷は戸惑いながらも頷いた風見を確認すると受話器を置いた。そして地下シェルターを去っていく部下の姿を見送りながら、こうでもしないと今回の事件がすべて片付くまで見舞いにすらいかないだろうと嘆いた。今はああして冷静さを保てているが時間が経つにつれて仕事と私情のバランスは崩れ支障をきたす恐れがある。その目できっちりと無事な姿を見れば少しは心の整理もできるだろう。
 これは降谷なりの指示という口実のただの気遣いだった。



 渋谷中央警察署の地下には公安が使用している会議室があった。現在そこでは公安と捜査一課が共同捜査をするにあたり情報の共有が行われている。広々とした部屋にある大きなスクリーンには先月捜査一課が逮捕した連続爆破犯のマグショットや、その男の首に着けられていたボロボロになった首輪爆弾、三年前に使用された爆弾と事件現場、松田の名刺など次々と写真が映し出されていった。そして本日起こった雑居ビル爆破事件の写真も数枚表示される。
 拉致された刑事──千葉を救出するために捜査一課が立案した作戦は、高木が松田に変装して拉致犯に接触するというものだった。犯人の要求が松田を連れてこいというものだったからだ。しかし目的の人物は三年前に殉職しており、それが犯人側に伝わってしまえば千葉の命が危険に晒される。そこで変装した姿が本人に似ているということもあり高木が真っ先に名乗り出たのだ。
 しかしここで問題が一つ。

「高木くんはこの爆弾の解体方法を頭に叩き込んでおけ」
「わ、わかりました」

 目暮からそう指示された高木は神妙な面持ちで頷いたが、すぐに椅子に座りこんでしまった。

「……と言いたいんですが実は僕、科学工学系が全然ダメで、その上不器用なんですよ」

 変装がバレないためには爆発物に関する知識が必要だった。千葉を拉致した犯人と爆破事件の犯人に繋がりがあるのかはまだ不明であるが、相手が元爆発物処理班である松田を要求している以上避けては通れない。爆弾を解析した資料を風見が用意すると言っているが高木にはその方面の分野には自信がなかった。
 その発言を受けて隣にいた佐藤は一瞬驚いてから呆れたように溜め息を吐いた。

「それでよく松田くんになろうだなんて……」
「あのー、具体的に松田さんってどんな感じの方だったんですか?」
「うーん……」

 苦笑した高木がそう尋ねると佐藤は顎に手を当てて考える素振りを見せた。脳裏に思い浮かべるのは爆弾の仕掛けられた観覧車へ向かう車内での横顔。トレードマークのサングラスをかけていてその目元はよく見えなかったが、一人残してしまう少年を思う声はとても柔らかかった。

「ワイルドだけど意外に優しくて、柴犬とドーベルマンを足して二で割った感じかな」
「はい?」

 具体的なようでいてそうでない答えに高木は困惑する。その様子に佐藤は眉尻を下げて小さく笑った。たった一週間の付き合いしかない相手なのだから、むしろここまで的確に表現できたことを褒めてほしいくらいだ。

「詳しく知りたいなら名前くんに聞いてみるといいわ」
「そういえば苗字くんと松田さんってどういう関係だったんですか」

 二人の口から出てきた名前に、スクリーン前の演壇に立っている風見が僅かに反応する。

「そうね……家族のようなものかしら。松田くんと数年間一緒に暮らしてたのよ。三年前のあの日まで」

 それは当初署内でも噂程度に広がっていたもので事情を知る人間は佐藤を含めても極少数だけだった。書類として残されていたわけでもなく、松田がプライベートな話題を出せるほど親しい友人も亡くなっている今、その事実は誰かの記憶の中にしか存在していない。だから風見は目に見えて動揺を露わにしたが誤魔化す様に中指で眼鏡を押し上げる。幸いにもその様子に気付いた者は誰もいなかった。
 未だはっきりとした松田像が想像できない高木に苦笑した佐藤は机に置いていたスマホを掴んだ。

「松田くんのことなら、あの子に聞くのが一番いいわ。爆弾の解体方法も教えてもらったと言っていたし助けになってくれるかも」
「──彼とは今、連絡は取れない」

 そう言ってスマホを操作する佐藤の手を止めたのは風見であった。そこにはもう動揺の色を見せる男の姿はない。釣りあがった厳しい視線がただ捜査一課の刑事たちに向けられている。

「連絡が取れないって、どういうこと?」

 佐藤は訝しむような表情で見返しながらスマホの画面を数回タップすると耳元にあてた。呼び出しのコール音はなくすぐに留守番サービスに切り替わる。どうやら相手のスマホの電源が入っていないのか、風見の言う通り電話は繋がらなかった。
 一方、コナンはじっとスクリーンを見つめていた。そこには三年前に使用された爆弾の写真が映し出されており、頭の中では様々な情報が行き交う。三年前と現在で起こった爆破事件。同一犯による犯行。松田と名前の繋がり。明らかになっていく事件への謎が少しずつ整理されていき、とある一つの疑問へと繋がる。それが見覚えのない解体された爆弾の画像だ。

「ねぇ、さっきの写真もう一度見せてくれない」

 風見は手元のパソコンを操作した。スクリーンに映った写真が次々とスライドしていき、途中でコナンはストップの声をかける。

「これって三年前のとも、ボクたちが見つけたのとも違う爆弾だよね」

 その言葉に会議室にいる全員の視線がスクリーンに向けられる。映し出されていたのはデジタルタイマーの表示が消えた解体済みの写真だった。情報の共有と言っていながら風見はこの爆弾の詳細な話は出していない。だがコナンが気になったのはそこではなかった。この画像の通り爆弾は解除されている。つまり誰かがその作業を行ったということだ。手段を問わない公安ならば不安要素の残る高木に任せるよりも、解除を行った人物に変装をさせ拉致犯の元へ向かわせる方法を選ぶはず。しかし彼らはそれをしない。いやできないと言ったほうが正しいのだろうか。
 コナンの視線がスクリーンから演壇へと向けられる。光の反射によって眼鏡の奥の眼差しは見えなかったが風見は何か末恐ろしいものを少年に感じた。

「……これは今朝発見された爆弾だ。解体には成功したが遠隔で起爆されてしまい原型は残っていない」
「ちょっと待ってください。じゃあ、今朝渋谷で起こった爆発事故というのは……」
「我々はガス爆発だと聞かされているが」
「まだなにか隠してることがあるんじゃないでしょうね」

 捜査一課の面々から向けられる様々な視線を受けても風見はそれ以上言葉を続けなかった。ただ険しい表情を浮かべ黙っている態度に痺れを切らした佐藤が声を上げようとした時、コナンが口を開いた。

「もしかしてこの爆弾を解除したのって、名前さんなんじゃない?」

 え、と声を漏らしたのは佐藤だ。驚いたように目を見開いてスクリーンの前に立つ少年を見つめる。

「そうでしょ、風見刑事」

 顔の角度が少し変わり眼鏡のレンズから光がなくなる。風見に向けられたのは鋭い視線と、まるで子供とも思えないほどの厳しい声音だった。そこにカタンッとスマホが机に落ちる音が会議室に響く。コナンの視線から逃れるように音の発生源へと目を向ければ、青褪めた顔をした佐藤が身体を支えるように両手を机についていた。

「そんなっ……あの子は無事!?」
「すでに治療は済んでいる」
「どうして、どうしてもっと早く私たちに連絡しなかったの……!」

 悲痛で感情的なその言葉に眉を寄せた。仕事に私情は持ち込まない。風見は努めてそうしている。しかし演壇の陰に隠れた両手はきつく握りしめられていた。

「言ったはずだ。この事件は公安が担当すると。それに彼をこの事件に関わらせたのは、あなた方だ」

 刺すような視線よりも咎めるような台詞に佐藤はぐっと言葉を飲み込んだ。それが否定することもできない事実だからだ。いくら手掛かりが欲しかったからと安易に巻き込んでしまったのは佐藤自身である。責任は止めなかった私にもある、と目暮が声をかけるが表情を歪めて俯くばかりだ。
 気まずい静けさに包まれた会議室にスマホのバイブ音が鳴る。それは拉致犯からの着信を知らせていた。



 数時間後。拉致された千葉を無事救出したものの、外国人グループを取り逃がした風見はその追跡を公安の捜査官に任せて渋谷警察署を後にしていた。陽が沈む中、訪れたのは東都警察病院の一室。暗くなっていく空を見上げながらカーテンを閉めて振り向くと、病室のベッドでは名前が静かに眠っている。
 電気も点けず薄暗くなった病室内でベッドの傍に立った風見は眠ったままの名前を見下ろした。額を覆うように包帯が巻かれ、頬には赤くなった擦り傷があり、右腕は手首から前腕にかけてギプスで固定されている。点滴の打たれている左腕にも赤黒くなった痣があった。その手に触れ、体温を確かめる。しっかりと生きている人間の温もりが指先からじんわりと伝わってきた。

「君はずっと、この恐怖を抱えていたのか」

 震えそうになった声色で吐き出された呟きは静寂な病室の中に消えていく。もちろん返事はない。
 風見は理解していたつもりでいた。仕事で命の危機に遭遇するのは珍しいことじゃない。今回だって連続爆破犯の首についていた爆弾の爆発に巻き込まれた。降谷がいなければ今ここにはいないだろう。いつどこで命を落とすか解らない。これまで関わってきた事件で亡くなった人を何人も見てきたせいか死に慣れてしまっていたのかもしれない。それとも、責務だからと割り切ることで誰かを失う怖さを忘れてしまっただけなのか。
 ベッドサイドの机には画面の割れたスマホとジッポライターが置かれている。名前は警察官がどれほど危険な事件に関わっているのかを、ずっと前からその身で体験していた。帰ってこない人を待ち続けた。そんな苦い想いを再び抱かせることは風見にはできない。スーツのポケットに入れていたままだった合鍵を布の上から撫でた。これを受け取ってもらえなかった理由が今なら十分すぎるほどに理解できてしまう。
 ビルの屋上で見た、血に濡れた痛々しい名前の姿を思い出して表情が歪んだ。

「こんな苦しい想いをするくらいなら、いっそ────」

 ──君を好きにならなければよかった。
 声に出さなかったのはもう手遅れだと気付いているから。例え逃げるための嘘だとしても好きにならなければなんて言葉にはしたくなかったから。口にしてしまえば本当にそうなってしまいそうで怖かった。名前はずっと耐えていたのに、弱音を吐いてしまう自分が情けない。
 ゆっくりと擦り傷のある頬へと手を伸ばす。しかし風見の指先が触れることはなかった。

「準備が整いました」

 コンコン、と病室のドアが軽くノックされ部下から声をかけられる。伸ばした手を引っ込めると一度目を閉じ、一呼吸置いてから瞼を上げた。

「わかった」

 先ほどまでの弱気な声音はもうない。風見は名前を一瞥すると背を向けて病室を出ていく。
 病院の外に停まっている公安のワゴンに乗り込むと、そこには大きなリュックが用意されていた。中には爆弾解除に必要な道具と資料が入っている。降谷の存在は極秘だ。警察庁警備局警備企画課──通称ゼロに所属している彼と直接顔を合わせることができる人間は限られている。だからその存在を認知している者でしか首輪型の爆弾を解除することはできない。風見は降谷の右腕だ。上司との間には信頼があり、その任を引き受けるのは自分しかいないと思っている。爆発物処理の経験は浅いが今の自分ならば冷静に対処できるだろう。
 それに、と風見は自分の掌を見下ろした。大切な人を失う以上に怖いものなどなかった。



 深い眠りの底から意識が浮上した。ゆっくりと瞼を持ち上げると灯りの点いていない天井が見える。顔を横に向ければカーテンの閉められた窓があり、夕暮れの光が隙間から覗いていた。簡素な部屋に薬品の匂い。ここは病院だ。
 上体を起こした名前はベッドサイドの机に置かれていた自分のスマホを手に取るとサイドボタンを長押しして電源を入れる。明るくなった画面が眩しくてベッドの上に放った。動かしにくい右腕に視線を向ければギプスが巻かれているが、感覚的に折れているわけではなさそうだ。利き手ではない左手でスマホを持ち、画面に表示された日付を確認すると10/31と表示されていた。あれから一日半は眠っていたことになる。

「あー……最悪」

 布団を剥いで左腕に刺さっている点滴の針を抜くとベッドから降りた。事件がすでに過去のものになっているかは解らない。それでもここでじっとしてはいられなかった。
 事件当日に着ていた服に着替えた名前は病院を抜け出した。上着はボロボロになっていて置いてきたため少々肌寒いが気にはならない。行き先は渋谷だ。昨日爆弾が仕掛けられていたのは渋谷で、おそらく三年前に松田が爆弾を解除した場所も同じだろう。犯人は手の込んだ仕掛けをしてわざわざ松田と縁のある自分を呼び出した。仕返しをするためだけに。逆を言ってしまえば、今の名前にはそれしか手掛かりがなかった。
 渋谷に着く頃にはもうすっかりと陽が暮れて街中に飾られたかぼちゃのランタンがライトアップされていた。今日はハロウィンで、イベント好きな若者が多く集まっている。行き交う人々が様々なコスプレをしているおかげで名前の怪我も仮装の一種だと思われているのか奇異な目で見られることはなかった。
 ハチ公前広場まで来ると道路にまで仮装をした人で溢れていた。

「ねぇ、あれやばくない?」

 たまたま近くを通りかかった魔女の仮装をした女の子の声と上空を差した指に釣られ同じように空を見上げた。名前の瞳には煙を上げるヘリコプターが映る。機体をふらふらと揺らしながら飛んでいるヘリコプターはどうみても異常だ。いつ墜落してもおかしくはない。それだけでまだ事件は終わっていないことが察せられた。

「おい。死にたくなかったらさっさとここから離れろ」

 困惑する女の子たちにそう声をかけた名前はヘリコプターの様子を伺いながら人々の隙間を抜けていった。次第にその場にいた全員が上空の様子に気付き始め、悲鳴混じりに逃げていく。人混みに押し流される前に建物の陰に身を潜めていれば、ハチ公前広場やスクランブル交差点に人の気配はなくなった。
 ビルの間を飛んでいたヘリコプターは旋回しながら高度を下げていき、ついには地面に墜落した。
 暫くしてハチ公前広場まで戻ると落下の衝撃で爆発し無残な姿で転がっているヘリコプターからは激しい炎と黒煙が噴き上がっている。誰かいないかと周りを見渡せば煙の向こうに降谷の姿が見えた。ボロボロの恰好で座り込んでいる。大方、墜落した機体に乗っていたのだろう。そこで名前の瞳は燃え上がる炎を背景にゆらりと立ち上がる人間を捉えた。

 足を怪我していて咄嗟に動けない降谷に対し、鋭く尖ったヘリコプターの破片を持った女、クリスティーヌ──もといプラーミャはまるで鬼のような形相で叫びながらをそれを振り下ろした。グサリと刺さった感触が破片を持つ手に伝わってくる。だが、それは女が期待していたのとは違うものだった。

「おまえはっ!!」
「よぉ。松田さんへのリベンジできなくて残念だった、なっ!」

 降谷を庇うようにして現れた名前は、驚きと憎悪の表情を露わにするプラーミャの腹部に足の裏で蹴りを入れた。凶器を失った手で腹部を抑えながらよろける相手を睨みつけ右腕のギプスに刺さった破片を抜いて放り投げる。

「どうして、君が……」

 乱れた髪の間から覗く殺意の残る獣のような瞳に、名前は背後から聞こえる戸惑いの声を無視して両腕を構えた。しかし二人が拳を交える前にプラーミャは地面に膝をついて倒れ込んだ。彼女の後ろには手刀を立てた村中が立っており、彼の手によって気絶させられたようだった。
 公安の人間であることを察した村中に早くこの場を離れるよう言われた降谷は痛む足に顔を歪めながら立ち上がる。渋谷の街に飾られているかぼちゃのランタンが次々と割れていき、中に入っていた液体火薬が道路に広がった。液体は坂になっている道の最終地点であるスクランブル交差点を目指してじわじわと流れていく。二種類の液体が交差点で混ざり合う前にこの場を離れなければ、これまでの爆弾とは桁外れの爆発に巻き込まれてしまう。一方で、あの少年ならきっとこの困難をも解決してくれるという期待があった。
 そうして足を引きずりながら歩いていると後を追いかけてきた名前がその腕を掴んだ。そのまま肩に腕を回して体を支えるようにして歩く。普段は素っ気なく愛想のない青年のその行動に降谷は驚いてまるで猫のように目を丸くさせた。

「気を遣わなくてもいいんですよ。君も怪我人なんですから」
「うるせぇな。さっさとここから離れたいんだろ」

 途中から事件を追うことができなかった名前でも渋谷の街が今どのような状況に陥っているのかはだいたい把握できている。わざわざ手助けをしなくてもよかったのだが降谷に確かめたいことが山ほどあった。それを聞くまで死んでもらっては困るのだ。
 渋谷から離れるのではなく渋谷スクランブルスクエアに向かって欲しいと言う降谷を連れて、人々が避難して誰もいなくなった建物へと入る。エレベーターに乗り込むと名前は肩に担いでいた腕を離した。無機質な壁に寄りかかりながら、同じく壁に凭れ掛かる男を見れば首に何もついていないことに気付く。

「首輪、解除できたんだな」

 そう声をかけられた降谷は地下シェルターに置いてきた部下を思い出しながら小さく笑った。

「風見が頑張ってくれたんですよ」
「……公安ってそんなことまですんの?」
「今回は特殊な状況でしたからね。普段はもちろん専門の方たちに任せますよ」

 それは当たり前だろうと声には出さなかったが名前は顰めた表情を隠さなかった。そこで音声アナウンスが目的の階に到着したことを知らせる。エレベーターを降りて更に上へと続く階段を登ると二人は屋上へと出た。ビル風に吹かれながら足を進め、眼下にある渋谷の街を見下ろした。

「彼は一体、何者ですか」

 思わずと言ったように降谷が言葉を漏らす。視線の先には巨大なサッカーボールがまるで栓で閉めるかのように道路が交差する中心のスクランブル交差点で膨らんでいた。道路を流れていた二色の液体はそのボールによって塞き止められている。事件解決への手助けをコナンに求めたのは降谷自身であるが、こうして目の前で自分では思い付きもしない方法で見事に成し遂げられてしまうとその存在が疑わしくなってきてしまう。

「君は知っているんでしょう」

 彼がただの小学生ではないことを。疑問とは呼べないニュアンスの問いかけに名前は答えなかった。降谷も答えを期待していたわけではない。だから二人の視線は交わらず、ただ夜の渋谷の街に向けられている。
 暫くすると降谷のスマホに着信が入った。画面を一瞥し、耳元にスマホを当てながらその場を一旦離れる。

「風見か。起きたばかりですまないが、すぐに中和剤を用意してくれ」

 電話は首輪型の爆弾を解体するのに気力を注いだ後地下シェルターで寝ていた部下からだった。爆発物処理にどれだけの集中力が必要とされるかを知っている分、もう少し休ませてやりたかったがまだ安全が確保されたわけではない。それは風見も解っているのか、すでに他の部下と連絡を取っていたようで中和剤の準備を進めていた。
 降谷は後ろを振り向き、街を見下ろす名前の背中に目を向ける。

「それと、君の恋人が病院から抜け出したようだ。早く連れ戻してやってくれ」

 えっ、という困惑の声を電話越しに聞いてから通話を切った降谷は再び街が一望できる場所まで足を進めた。

 多くのパトカーのサイレンがビルの間を反響していく。その音は高層ビルの屋上にまで響いてきた。名前は破片に刺されたことで穴の空いた右腕のギプスを見る。皮膚にまで到達していたのか少しだけ血が滲んでいた。納得のできるものではなかったが、一応、犯人に一矢報いることはできた。あの驚きようから察するにまさか生きていたとは思っていなかったのだろう。自分でも死を覚悟した程だ。
 名前は小さく笑ってから右腕を下ろした。耳に届くサイレンの音に混じって足音が近づいてくる。

「松田さんがゼロって呼んでたのが、あんただったとはね」
「僕も驚いたよ。まさか松田に隠し子がいたなんて」

 隣に並んだ降谷がそう言うと脇腹に衝撃が走った。名前に殴られたのだ。すでにボロボロだった体にはかなり効くツッコミである。脇腹を抑えながら冗談ですよと謝れば呆れたよう睨まれた。

「でも僕がそう思ってしまうくらいには似ているんだ。君とあいつは」

 それはそうだ。と名前は心の中で呟いた。ずっと憧れている人なのだから。松田のような大人になりたいと、そう思い続けているのだから。少しでも近づきたい、と。だから、降谷の言葉は素直に嬉しかった。でも決してそれを表には出さないし、本人には言わない。
 降谷もそれを察しているのか口元に薄く笑みを浮かべるだけに留めた。それからもう一度街を見下ろす。消防車や救急車も現場に到着したようで、眼下の様子は慌ただしい。

「できる限りのことはやり尽くしたけど俺には爆弾を完璧に止めることはできなかった。あの人は、まだまだ遠いな……」

 それは誰かに語り掛けているものではなく独り言のようだった。夜空を見上げる名前を横目で見た降谷は亡き友人を思い出す。出会った当初は殴り合いをするほど馬が合わなかった、正直だが素直ではない器用な友人を。隣に立つ青年に何度重ね合わせただろう。誰を重ねていたのかすら最近になるまで気付かなかったくせに、意識してしまえば途端に過去が恋しくなる。

「そんなことないさ。君はこうして生きているんだから」

 だが過去にはもう戻れない。それに降谷は名前までもを過去の人にはしたくなかった。彼は友人の残した大切な人であると同時に、部下の大事な人でもある。そして自分にとっては友と呼ぶにはまだ早いかもしれないがそうなれたらと思う存在だ。
 そこで扉の開閉する音が微かに聞こえた。降谷は短く息を吐くと背後を振り返った。

「でも、あまり無茶をされては困るな。いくら優秀でも、彼も一人の人間だからね」

 その言葉につられるように後ろを振り返った名前は目を見張る。そこには激しい運動をした後のように肩で息をしている風見が立っていた。

 高層ビルの屋上は強い風が吹いている。数時間前まで病院のベッドの上にいた名前は薄着で、動かずただ立っているだけでは冷えてしまう。それでなくとも怪我をしたばかりで安静にしていなければならない身体だ。
 そんな自分よりも低い体温の手を握り顔を顰めた風見は建物内に入り屋上への扉を閉めると名前を抱きしめた。怪我に障らないように優しく、しかし離さないとばかりにしっかりと。すっかり冷えてしまった体を温めるように背中を撫でると肩口に額を押し当てられた。
 交わす言葉もなく二人はただお互いの鼓動を感じ合っていた。
 名前は瞳を閉じて自分を包む込むような温もりを全身で受け止める。病院で目覚めた時、一番最初に思い浮かべなかった自分が冷たい人間のように思えた。意識を失う最後の瞬間まで必死に名前を呼んでくれていたのに。こんなにも心配をかけてしまったのに。────あぁ、そうか。と、そこでようやく気付いた。自分が病院のベッドで寝ている間、風見はあの恐怖を味わってしまったのだと。傷つくのは自分一人だけじゃない。そう高木に忠告したのは紛れもなく名前自身だというのに。
 躊躇うように背中に回った手が少し震えているのを感じとった風見は包帯の巻かれている頭をそっと撫でた。すると微かに聞こえた謝罪の言葉に眉尻を下げる。今、名前がどんなことを考えているのかがなんとなく解ってしまう。以前とはまるで立場が逆だと感じた。そしてゆっくりと体を離し、擦り傷の残る頬に触れながら慈しむように微笑んだ。

「君を好きになったことに後悔はない。何があっても、それだけは変わらない」

 そう言って触れるだけの口付けを交わすと風見はスーツのジャケットを脱いで名前に羽織らせる。それから恥ずかしそうに顔を背けながら「病院まで送ろう」と支えるように肩を抱きながら歩き出した。
 名前はその優しさに困ったような笑みを零した。そしてジャケットのポケットに入っている合鍵の存在に気付くと、何も言わずに握りしめて自分のポケットに忍ばせたのだった。