「ベッドで待ってるよ」


 風見さんの家でだらだらとしていたらもう夜の10時を過ぎていた。
 明日も仕事だと言っていたしそろそろ帰ったほうがいいだろうとソファから立ち上がる。
 「帰るよ」と言おうと開いた口は手首を掴まれたことで、声を出すことなく閉じることになった。

「泊まっていかないか」

 まさかそんなことを言われるとは想像していなかったから驚いてじっと風見さんを見つめてしまう。
 じわじわと頬を染めていく様子に我に返ってソファに座りなおす。

「それって、夜のお誘い?」

 付き合い始めて早数ヶ月。この奥手な恋人はなかなかキス以上に進もうとしない。
 別に俺は未経験者ではないからいくらでも手を出してくれて構わないんだ。
 むしろ早くシたい。
 健全な18歳の学生だ。食欲もさることながら性欲だって旺盛に決まってる。
 高校に入ってから乱れきった性生活は今年に入ってからぱったりとやめているし、風見さんと付き合いだしてからはキス止まりだ。
 何度か唆してはみたものの真面目を絵に描いたような人だから頑張って理性を保っているようで、どうも中途半端に欲求だけが溜まっていく。
 だから今回もただ泊めていこうと思っているだけで、きっと何も起こらない。

「ち、違う! そういう意味で言ったわけじゃ……っ!」

 ほらな。
 あまりにも手を出してくれないから自分に自信がなくなってくる。
 まぁ風見さんは男相手が初めてだから仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。

「風呂一緒に入る?」
「っ、だから違うと──」
「冗談だよ」

 顔を紅くしながら慌てる風見さんに笑ってから携帯を取り出し、哀へ今日は帰らないとメッセージを送る。
 ちゃんと相手を好きになってから交際をスタートしたのは風見さんが初めてだから、できるだけ関係を壊さないようにしたい。
 この人の覚悟や準備が整うまでは待とうと思う。

「ソファで寝ろなんて言ったら帰るからな」

 でもあまりにも焦らされたら我慢できないかもしれない。俺だって男だし、押し倒すことはできる。


 浴室から聞こえるシャワーの音に一人頭を抱えた。
 迂闊だった。つい声に出てしまっていた言葉を今更撤回などできるわけがない。
 仕事帰りにたまたま彼を見つけて夕飯を共にした後、何をするわけでもなくまったりとしていた空間が居心地よく思わず帰ろうとしていた彼を引き止めてしまった。
 そんな気はなかったのに彼の言った「夜のお誘い」のせいで余計な思考が思い浮かんでは必死にそれを振り払う。
 ──まだダメだ。
 いやそろそろいいんじゃないか?
 ──まだ我慢しろ。
 僕も随分と我慢してきたはずだ。
 ──まだその時じゃない。
 じゃあいつがその時なんだ?
 何度も彼からの誘うような行動には流されないように抵抗した。だが、ずっと断り続けるのも彼に失礼なのだろうか。
 彼はきっと望んでいるし、自分もキス以上のことはしたいと思っている。
 せめて彼が学生の身分でなければこんなにも悩まずに済んだのかもしれないが、仮定の話なんてまるで意味がない。
 頭の中でぐるぐると思考を巡らせていると軽い電子音が聞こえて顔を上げる。

「なにしてるんだ?」

 考え事に没頭していたせいか、風呂から上がった名前に気づかなかった。
 彼はリビングの入り口に立ってなぜか携帯をこちらに向けている。

「葛藤してるあんたが面白くて。写真、消したほうがいい?」

 なるほど。先ほどのはシャッター音だったのか。
 隣に座った名前の携帯を覗き込めば、苦悩する自身の姿が映っており溜息と共に額を抑えた。

「恥ずかしいから、消してくれると助かる」
「ふーん……じゃあ消さない」
「おい」

 素早く携帯を仕舞ってしまった彼の表情は悪戯が成功した時の子供のようで、つられて苦笑が漏れる。
 毛先から水が滴る濡れた髪に気づいて、肩に乗せられただけのタオルを手に取った。

「風邪を引くからちゃんと拭きなさい」
「はーいママ」
「だ、誰がママだ! ……ったく、手のかかる子を持つと大変だよ」
「その分可愛いからいいだろ?」
「それ、自分で言うことじゃないんだが」

 これも惚れた弱みというやつだろうか。
 子供扱いをしているわけではないが、ついつい世話を焼いてしまうし可愛いと思うこともある。
 男に対して可愛いなんて褒め言葉じゃないが、仕方ない。

「あとは自分で乾かせ」

 ソファから立ち上がり自分も風呂に入ってしまおうと名前の前を通り過ぎると声をかけられて振り向く。
 タオルの間から覗かせた表情に頬が引きつるのが分かった。

「ベッドで待ってるよ」

 子供扱い? できると思ってるのか。
 もし自分がママ……違う父親ならあんな誘い文句を言う子供には育てるもんか。


 普段自分しか使っていないベッドに横になる名前の姿に唾を飲み込んだ。
 朝になるまで手を出さずにいられる自信がいっきになくなってきた。
 ゆっくりと彼の隣に体を横たえて高鳴る胸を落ち着かせるように静かに深呼吸をする。
 ──寝てしまえ! 寝てしまえば平気だ!
 眼鏡を外して寝る体勢に入れば、ずしりと自分の体に重みが加わった。

「なぁ、本当になにもしないわけ?」

 目を開ければ名前が上に乗っていて、艶めかしくゆっくりとシャツのボタンを一つずつ外してくる。
 肌けたシャツの中に彼の手が入り込み素肌を撫でられた。

「緊張してんの? それとも、俺に触られるのは嫌?」
「嫌じゃないっ」
「じゃあ……俺に触れるのは嫌?」

 ベッドの上に投げ出されていた手をとられ、名前の腰元に導かれる。

「そんなことはない……ずっと、君に触りたいと思ってた」
「なら、触ればいいだろ」

 シャツを脱ぎ捨てた名前の体がカーテンの隙間から入る月の光に照らされて綺麗だと思った。
 するりと晒された肌を腰から撫であげれば気持ち良さそうに目を細める姿にドキリとした。
 おかしい。
 あれほどまでに今日は手を出さないと自分に言い聞かせたはずなのに、思考も体もそんなことはなかったかのように、都合のいいように動く。
 名前の腕を掴んで引き寄せると、その体からは自分と同じ匂いがしてなぜか気分が高揚した。

「シて、いいか?」

 まずい。
 やめるべきだ。

「……いいよ」

 その返事と共に唇が重なる。
 これ以上は戻れなくなる。ダメだ。

「戻る必要あんの?」
「え……」
「俺は先に進みたい」

 触れるだけのキスをされながら熱の集まるそこを刺激され、思わず名前を引きはがした。

「感じてくれてるんだ。俺とのキスがそんなによかった?それとも…」

 彼の肩を掴んだ両手はあっさりと絡め取られて意味をなくした。
 ゆっくりと耳元に寄せられた名前の唇が少しだけ触れる。

「俺の体見て、我慢できなくなっちまった?」

 煽るように耳たぶに歯を甘噛みされ、文字通り我慢の限界だ。
 少しばかり乱暴に体位を入れ替えて名前を押し倒す。
 自分と同じボディソープの香りに身を包む体を見下ろした。

「抱かせてくれ、名前」

 まだ脱いでいないパンツを下着と一緒に脱がしにかかり、ようやく押し止めていた欲望を開放できると思えた──


 ──はずだった。
 目を開ければ暗い部屋をわずかな月明かりだけが照らしていた。
 顔を横に向ければ静かに寝ている名前の姿があり、すぐに夢を見ていたと気づく。
 だが下半身に感じる熱は現実だ。
 深い溜息を吐いて、名前を起こさないようにゆっくりとベッドから降りて寝室を後にした。
 生々しい夢だ。寝る前に散々頭を悩ませていたからあんな夢を見たのだろう。
 暫くしてから寝室に戻り再びベッドに横になる。
 名前の顔にかかる髪を退けようと伸ばした手は直前で止まり、引っ込めた。

「……次は、抑えられる気がしないな」

 そんな弱音を吐いて目を閉じた時、肩から腕を撫でられて慌てて目を開き隣を見る。

「わ、悪い、起こしたか?」
「なぁ……」

 腕を撫でる手は止まらずそのまま指を絡めるように手を握られた。

「夢の中の俺は、そんなにエロかった?」

 身を寄せられ、キスができそうなほど顔を近づけられて名前の吐き出す息が唇に当たる。
 名前から漂う香りと握られた手が体に密着され再び熱が襲ってきた。

「もう、勘弁してくれ」

 自分で蒔いた種ではあるが、今夜はゆっくりと寝ることはできそうもない。