今までの教師生活の中で不良と呼ばれる荒れた生徒は何人も見てきたが、なぜか彼には他の生徒とは違う雰囲気を感じた。
受け持ちの授業は選択制でクラスの違う生徒が入り混じるためいつも出席を取るところから始まる。
だが、いつも同じ名前で静寂が訪れる。
何度呼んでも返事はない。
一つだけ空いた席に思わず出そうになった溜息を押し殺し次の生徒の名を呼んだ。
今年3年になった生徒の中にたった一人だけ授業に出て来ない生徒がいる。
──苗字名前。
彼については入学当初から教師の間で何度も話題に上がっていたが、自分が受け持つ学年ではないため深くは気にしていなかった。
そのツケが回ってきたのだろう。
自分の受け持つ授業の生徒になると分かっていれば、もっと早くから更生へと導いたというのに。
今更後悔しても遅い。今出来ることをしなければならない。
授業が終わり職員室までの廊下を歩いていると向かいから苗字が歩いてくるのに気付き足を止めた。
彼もこちらに気付いたようだったが視線はすぐに逸らされ素通りしていくその腕を掴んで引き止める。
「待ちなさい、苗字」
こうして彼を引き止めるのは一度や二度じゃない。
「……なに?」
「ちゃんと授業に出なさい」
「気が向いたらな」
最初の1週間はちゃんと出席していたが、翌週からぱったりと姿を見せなくなった。
校舎内を探して見つけ出し問い詰めようにも警戒心の強い猫のようにすぐに逃げられていた頃が懐かしい。
「卒業できなくなるぞ」
「あんたに関係ないだろ」
こうして会話が成立するようになったのは自分で言うのもなんだが執拗なくらいに声をかけ続けたからだろう。
しかし何度も授業に出るよう言い聞かせたが効果は全くない。
苛立ったように眉を寄せて掴まれた腕を振り払った苗字が立ち去ろうとする前にもう一度逃さないように掴んだ。
「こら、待ちなさい」
「話は終わったろ」
「まだ終わってない」
廊下のど真ん中で繰り広げられる遣り取りに好奇心に駆られた生徒がちらちらと視線を向けてくるが、不機嫌そうな表情を浮かべた苗字に睨まれて生徒達は慌てて教室へと引っ込んでしまった。
「……なんだよ」
「私の授業の単位が足りていない。このままじゃ本当に卒業できないぞ」
「留年したらまた1年あんたの授業受けられるわけだな」
「冗談を言ってる場合じゃないんだっ」
なげやりな態度で嘲笑する苗字に少し声量が大きくなってしまったのに気付き、自分を落ち着かせるようにゆっくりと息を吐いた。
そんな風見から視線を外し少しだけ顔を俯かせて呟くように口を開く。
「……別に卒業できなくても構わねぇよ。元々、高校になんか来るつもりはなかった」
消え入りそうな声は辛うじて最初の部分だけ聞き取れた。
"卒業できなくても構わない”。荒れた生徒からはよく聞く言葉だ。ただの強がりで虚勢だけの言葉。
でも苗字は本当に構わないのだろう。それでも学校に来ている矛盾には何か理由があるのかもしれない。
「私はちゃんと君を卒業させる」
一度関わってしまったのなら最後まで見届けてやるべきなのが教師としての務めだ。
「……くそ真面目な先公だな」
「どうとでも言え。補習の時間を用意するから、必ず出席するように」
返事はなかったが掴んだ腕を離しても逃げていかないところを見るとようやく聞き入れてくれたようだ。
「それと、残りの授業もサボらず出席するんだからな」
俯けていた顔が上げられ視線が合うもまたすぐに逸らされてしまう。
「分かったか?」
「……分かったよ。これ以上お説教されちゃ堪らねぇ」
「よし」
仕方ないとばかりに息を吐いてこちらを向いた苗字に嬉しくなって、つい、頭を撫でてしまった。
目を見開いて驚いた様子に生徒にするような行為ではなかったと手を退けようと思ったが、あの苗字が大人しく撫でられているという事実にこちらも驚いて手が引けない。
ずっと警戒していた猫が急に擦り寄ってきたような感覚だ。
どこか懐かしい思い出に浸るような表情を浮かべている苗字をぼんやりと見つめていると予鈴が鳴りようやく我に返った。
次の日から名前は授業に出るようになった。
もちろん真面目に受けるつもりはないのか机の上には教科書もノートもないが、風見から注意は受けずにいた。
最初こそ他の生徒から好奇の目を向けられていたが授業が始まれば感じる視線はたった一つしか残らない。
──この視線から逃げたくて距離を置いていたのに、意味なんてなかった。
好奇の視線も、嫌悪や畏怖の視線も気にならないほど慣れているのにこの人の視線だけはどうにも慣れない理由には心当たりがある。
だから関わらないように避けていたのに無駄な努力で終わってしまった。
授業中何度も目が合うのが嫌で、逃げるように机に突っ伏すことでやり過ごした。
通常授業はそうして逃げることができたが、放課後に設けられた補習はどうすることもできない。
「なぁ先生」
だからもういっそのこと聞いてしまえばその視線はなくなると思った。
「なんでそんなに俺のこと見てくるわけ?」
「……なに言ってるんだ。見ているのは君のほうだろう」
呆れた。この人は自覚していないのか。
何度も視線が合うのはこちらが見ているからだと勘違いしているらしい。
「無意識かよ。もしかして俺のこと、好きなの?」
「っ……ふざけたことを言うんじゃない!」
ふざけてるのはどっちだよ。
気付かせて、逃げ出した俺を捕まえて、期待させておいてそんなつもりはなかったとでも言うのか?
椅子から立ち上がり教壇に近寄れば逃げるように後ずさる姿に笑いが漏れる。
「じゃあなんで離れんの?」
「それはっ……そんなことより、教師に対しての口の利き方に気をつけるんだ」
どこまでも真面目な人だ。
だから俺みたいな奴にも手を伸ばすんだろうな。
「これでいいですか、先生?」
「な、なぜ近寄ってくる……?」
「先生が答えてくれないからですよ」
黒板に背をつけた風見を囲うように両手を着いて挑発するように顔を近づければ焦ったように視線を逸らされた。
ほら、隠せてない。
「俺は知りたい」
耳元で囁くと肩を掴まれ引き離される。
「どうしてあんたが俺を見るのか」
黒板から離れた手で整えられたネクタイを撫でるように触れてから握った。
掴んだネクタイを強く引けば呆気なくまた距離が縮まる。
「教えてくださいよ……風見先生」
目を閉じて重ねた唇はカサついていて一瞬だけ震えたようだった。
触れるだけのキスは5秒程で離れていき、風見は目の前にいる生徒の顔を呆然と見つめることしかできない。
そんな教師の姿に仄かに笑みを浮かべて熱を孕んだ唇を指で撫でる。
「生徒に手出しちゃいましたね、先生」
その言葉を最後に何事もなかったかのように教室から出て行く名前を追いかける者はいなかった。
──もう教師に惚れるなんて嫌なんだ。頼むから放っておいてくれ。
翌日から名前は授業にも補習にも出ることはなかった。
苗字がまたサボるようになった。
それどころか校舎の中でその姿を見つけることができない。避けられているのだろうか。
彼の行動が、よく分からない。
ようやく警戒心を解いてくれたと思ったら迫られて、姿を消した。
『なんでそんなに俺のこと見てくるわけ?』
自分はそんなに苗字のことを見ていただろうか。気にかける相手であるのは確かだ。
『もしかして俺のこと、好きなの?』
あの瞬間、心臓が大きく波打ったのは事実でまるで隠し事が暴かれてしまった時のように焦った。
まさか冗談だろう。相手は生徒だ。そう、生徒、なんだ。
そして自分は、教師だ。
「高木先生」
「はい、なんでしょうか」
職員室でデスクが隣の高木は苗字の担任である。
親しみやすい性格で生徒から慕われている彼が苗字とも話しているところは何度か目にしたことがあった。
「苗字のことなんですが、学校にはちゃんと来ていますか?」
「来てますよ。もしかして授業出てません……?」
「はい。このままだと単位は与えられませんよ」
「困ったなぁ」
やはり、自分は避けられているのだろう。
高木が生徒の成績が記されたデータを確認しながら頭を傾げた。
「なんで風見先生の授業だけなんだ……」
「……どういうことです?」
そう呟かれた言葉の意味が分からず思わず高木の顔を凝視する。
「……他の教科は大丈夫なんですか?」
「えぇ、大丈夫なんですよ。どうも単位が落ちない日数を分かった上でサボってるみたいで」
困ったように苦笑する高木にいつもなら「担任なのだからしっかり指導してください」の一言でも言っていただろう。
それができない程その事実はあまりにも衝撃が大きすぎた。
──なぜ僕の授業だけ?
胸が締め付けられるような感覚に、ようやく自覚することができた。
「次の授業、確か高木先生のクラスは文化祭について話し合うんでしたよね」
「そうですよ。いやー生徒達が早く決めたいって訊かな──」
「その時間、苗字をお借りしてもいいでしょうか」
「え、あ、はい。本人がよければ大丈夫ですけど…」
ありがとうございます、と礼を言いながら立ち上がりチャイムが鳴ると同時に職員室を出て行く。
苗字のいるクラスに向かって歩いていると丁度教室から出てきたところで、こちらに気付く前にその腕を掴んだ。
「苗字」
反射的に振り払おうとした苗字と視線がぶつかり、驚いたように動きを止めた彼の腕を引いて歩き出す。
「きなさい」
もっと抵抗されるかと思われたが苗字は大人しく腕を引かれるままついてきた。
抵抗しても無駄だと諦めたのか、隙を見て逃げ出そうというのか、彼の考えていることは分からない。
授業で使う備品が置いてある資料室の鍵を開けて苗字を先に入れる。
「入って」
「……俺、これから授業あるし」
「高木先生からは許可を貰った」
渋々といった態度で資料室に入る苗字に続いて自分も入り、逃げられないように鍵を閉めた。
資料室は狭く、ダンボールの置かれた棚に寄りかかるように立った苗字がこちらに視線も向けずに口を開く。
「なんでだよ」
「苗字?」
「普通関わらないだろ、あんなことされたら」
眉を寄せて床を睨みつけるように俯けた顔は、彼の少し長い髪に隠れて見えない。
「あんたおかしいよ。他の先公は俺に干渉しないのに、あんたはなんの躊躇いもなく俺の手を掴むんだ」
前髪をくしゃりと掴むその手がまるで何かに耐えているように力んで見えて、扉の前からゆっくりと足を踏み出す。
「俺は……放っておいて欲しいのに」
苗字の前に立ち握られた手を包むように掴んで前髪から離してやる。
きっと、最初からだったんだ。
「放っておけない」
表情がよく見えるよう頬に触れ顔を上げさせると鋭い眼光で睨まれた。
最初から、他の生徒とは平等に見れていなかったんだ。
「そりゃあんたは真面目な教師だからな。放っておけるわけねぇだろうよ」
「違う、そうじゃないっ」
「違わない」
頬に触れた手は払い除けられ、距離を取るように体を押される。
「あんたは教師の義務感を理由に俺に関わってるだけだ」
そうだ。
そう思うことで自分を偽ってきた。
ありえない、そう思っていたのに全てが結びついてしまったんだ。
気付かせたのは他でもない、君だろう。
「君は特別だ」
腕を掴んで引き寄せれば抵抗するように押し返されるが、それを押さえ込むように腕の中に収めた。
それでも抵抗をやめない苗字の耳元で名を呼べば肩を震わせ大人しくなる。
「私が教師だからじゃない」
落ち着かせるように頭を撫でれば抵抗していた体の力が抜けた。
「君が生徒だからじゃない」
少し体を離してもう一度頬に手を添え顔を上げさせる。
戸惑うような苗字の目と視線が合い、固く閉じられた唇に触れるだけのキスをしてから言葉を続けた。
「ちゃんと卒業してくれないと、君に気持ちを伝えられないじゃないか」
そしてまた、触れるだけのキスを落とす。
何度も繰り返していくと次第に苗字の目は閉じられ、唇は薄く開いていった。
「せんせ、……っ……」
その隙を逃すことなく舌を侵入させ口内を犯すと縋るように腕が背中に回される。
どれくらい続けただろうか。
唇が離れた頃にはお互いに息は乱れていて、名残惜しむように唇を重ねてから抱きしめた。
「先生……」
「なんだ?」
「俺、中学ん時も教師を好きになったんだ」
驚いて思わず顔を見ようとしたが背中に回った腕に力が込められ許されなかった。
「あの人もあんたと同じで俺を気にかけて放っておいてくれなかった」
「……言ったのか?」
「こっ酷くフられたよ」
「……そうか」
どんな言葉で苗字の気持ちを受け取らなかったのかは分からないが、その教師の判断は間違えではない。
むしろ間違っているのは自分のほうだ。
「あんたも俺を拒絶するのかと思ったら……怖くなって逃げ出した」
許されないことと分かっていながら、苗字を突き放すことができなかった。
「先生」
「ん?」
「卒業したら、ちゃんと聞かせてくれる?」
「あぁ……だから授業に出なさい」
抱きしめていた体が離れて視線が合う。
「分かった……ちゃんとお勉強するよ、風見先生」
苗字の手が頬に触れて誘うように撫でられた。
今日だけだ。今日だけは彼に触れることを許してほしい。
卒業までの残された期間を我慢しなければいけないのだから、今だけは見逃してくれてもいいだろう?