月日は流れ、風見が名前と結婚してから一年と半年が過ぎた。
依然として所属する公安部は多忙を極めており、新たな潜入調査の任務を課せられた降谷のサポートは引き続き風見の役割だ。
担当している事件が山場を迎えていたためここ数日は家に帰れていなかったが、今日ようやく帰宅することができる。
署を出る前に帰宅する旨のメッセージを送ると了解の返答とともに一枚の写真が添付されており、まだ署内だというのに表情筋が緩むのを止められなかった。
「風見さん顔! 顔!」
「またいつもの写真ですか?」
その様子をうっかり部下の二人に見られてしまい慌てて口元を手で隠すが今更もう遅い。
二人が風見のこのような表情を目にするのは今に始まったことではなく、心境としては「あぁまた幸せオーラが出てる」と思うくらいには慣れた光景だ。
視線が手元の携帯に集まっていることに気付いた風見は添付された画像をタップして全画面に表示し、それを部下に見せた。
「可愛いですねぇ」
「まだ二ヶ月くらいでしたっけ?」
「あぁ。あと一週間でちょうど二ヶ月になる」
送られてきた写真にはカメラに向かって手を伸ばす赤子が写っており、その可愛さを思い出してはニヤけそうになるのを我慢する。
普段は高圧的な態度で仕事に取り組む風見を長年見てきた部下達も最初は戸惑いこそしたが、今では写真を見るのが楽しみになっているようだ。
風見も我が子の可愛さを自慢したい気持ちを誤魔化すことができずつい見せびらかしてしまうため、気付けば仕事に忙殺される公安部の乾いた心を潤すオアシスとなっていた。
メッセージを受信した音が鳴り画面に新たな写真が表示された。今度は赤子と一緒に名前の姿も写っている。
「なんだか名前くん、色気に磨きがかかってきてますよね」
「あ、馬鹿っ!」
思わず声に出てしまったとでも言うかのように焦った様子を見せる部下から遠ざけるように携帯を胸元まで戻した風見が、冷めた目で二人の部下を見下ろした。
「お前、うちのをそんな下衆な目で見ていたのか」
「違います違います! 誤解ですよ!」
子供のことはさておき名前についてはあまり他人に話さない風見だからか公安部では基本的な情報しか出回っていない。
写真だって身辺調査をした時のものくらいしか残されていないほど風見のガードは固かった。
しかし結婚の報告をした時この二人の部下だけは驚くこともなく「あー、観覧車の時の彼ですね」と納得していたのを思い出す。
風見はいつこの二人に彼のことを話したのかまったく覚えていないというのに。
後から聞いた話では飲みに行った際に酔いで潰れた風見を何度か迎えに来た名前とは顔見知り程度の知り合いになったらしい。
風見と結婚する前の名前を知っているからこそ驚いてあんなことを口走ってしまったようだ。
だからと言って口に出していいことではないが。
送られてきた写真を保存した風見は荷物をまとめて署を後にした。部下には報告書の整理を任せてきたが文句はあるまい。
帰宅ラッシュをとうに過ぎた都心の道路は空いており、車を走らせて数十分で自宅マンションへと到着した。
新築のそのマンションには今年に入ってから引っ越してきたばかりで、セキュリティは以前住んでいた場所よりも強固になり、近くにバス停や公園があったりと利便性もいい。
なにより上階からの眺めは最高にロマンチックだと風見は思っている。
エレベーターに乗りながら腕時計を確認し、この時間ならまだ寝てないなと呟くのは我が子が生まれてから癖になってしまった動作だ。
マンションの廊下を進み角部屋の自宅玄関を開けると、食欲を誘うスパイシーな香りが鼻を擽った。
「ただいま」
靴を脱いでフローリングに上がるとリビングからいつもと同じように名前が出迎えてくれる。
ただ、あの頃のように不安を抱きながらの表情は少なくなった。
「おかえり」
きっとそれは名前の腕に生まれてからそろそろ二ヶ月になる赤子が抱かれているからだろう。
自分の身を案じて不安にさせるよりも、我が子を守る使命感と傍にいる安心感のほうが勝っているのだろうと風見は分析している。
──これでいい。これで、君はずっと僕の傍に居てくれる。
風見は自分の中にある独占欲に苦笑をするしかなかった。
愛する人の腕に抱かれた可愛い我が子の柔らかな頬に触れると大きな瞳がこちらを見上げてきて思わず口元が緩んだ。
「(可愛い……)」
生まれたのは男の子で、名前は二人で考え 光(ひかる) と名付けた。顔立ちは名前に似て整っており、目はまん丸としている。
ぷにぷにと赤子の頬の感触を楽しみながらニヤけている風見は、じっとこちらを見つめている名前に気付いて慌てて表情を引き締めた。
その様子に名前はしょうがない人だなぁと表情を和らげる。
「飯は?」
「実は昼からまともに食事を摂れてなくて腹ペコなんだ」
「だと思った。今日はカレー作っておいたから好きなだけ食えよ」
リビングへ戻っていく名前を見送ってから手前にある寝室でスーツから部屋着へと着替えた。
凝り固まった肩を回して解しながらリビングへ向かうとキッチンでは名前がカレーの入った鍋を温めている。
「手伝おうか?」
「平気。すぐ用意できるから待ってて」
そう言われてしまったら待つしかない風見は我が子の様子を見るためにリビングに置かれているベビーベッドへと近づく。
そこに寝かされている光は出産祝いに降谷から貰ったネコのぬいぐるみを掴んで遊んでいた。
最近は手足をよくバタバタとさせているからぬいぐるみはいい遊び相手のようだ。
「(可愛い……天使だ……!)」
思わず顔を覆ってしまいたくなるほど我が子が可愛く見える風見の親バカっぷりは本人もちゃんと自覚していた。
仕事上毎日顔を見れるわけではない。今日だって数日振りに会うのだから気持ちを抑えられるはずもないのだ。
「あーぅ、あー」
「ん?どうした」
ぬいぐるみを離した手が風見へと向けられる。
抱っこをせがんでいるのだろうかと思い光を抱き上げると先ほどまで上機嫌だった表情がなぜか急降下した。
大きな瞳を涙で溢れさせ控えめな泣き声を上げる我が子に困惑する風見は助けを請うようにキッチンへと振り返った。
「えっ、な、なんでだ? なんで泣くんだ??」
予想外の出来事に風見自身も涙目になる騒ぎに名前はただ笑うばかりで助けてくれない。
「あんたずっと忙しくて会えてなかったから知らない人だと思われてるんじゃねーの?」
「そんなぁ……ひ、光くーん、お父さんだよー」
あやすように体を少し揺らしてみるが効果はなく、泣き続ける光に風見の表情も不安に染まっていってしまう。
温まったカレーを食器に盛り付けダイニングテーブルに置いた名前は暫く様子を見ていたが、なんとかあやそうとする風見の努力は虚しくなかなか我が子は泣き止まない。
「名前、頼むっ」
「わかったよ」
情けない顔をしながら懇願する風見に笑みを漏らしながら、ぽろぽろと涙を零す光を腕に抱く。
すると泣き声は収まっていき濡れた瞳がぱちぱちと瞬きを繰り返しながら名前を見上げてきた。
自分とはあまりの反応の違いに風見はショックを受けるよりも、さすが慣れている人は違うなぁと感心してしまう。
「すごいな、もう泣き止んだ」
「不安そうな顔してるから子供も不安になるんだよ。なぁ光」
優しい眼差しを光に向ける名前の姿にふと部下に言われた言葉を思い出した。
出会った当初から大人っぽく、年齢に合わない色気を感じていたが確かに今はそれが増しているように思える。
纏う雰囲気が以前よりも柔らかくなっているのは保育士として子供を相手にしているからだろうが、決して女性的になったわけではない。
相変わらずの男前っぷりは健在だ。
では髪が伸びたせいだろうか。軽くウェーブがかかった髪を後ろで緩く結われているのが一層色気を際立たせている要因でもありそうだ。
なにせそれまでは隠されていた耳元や首筋がよく見えるようになったのだから。おかげで痕を残さないようにするのが大変だ。
そんなことを思いながらぼうっと名前を見つめる風見の頬に温もりが触れた。
「あんたなら立派な父親になれるよ。俺が保証する」
光に向けられていた暖かい瞳を受け止めた風見は不埒な考え事をしていたとは言えず、内心謝りながらも頬に触れた名前の手に自分の手を重ねた。
「ありがとう、頑張るよ」
「ん、頑張れお父さん」
とりあえずぎこちない抱き方を直したほうがいいと言う名前から安定した抱き方を教わり、すっかり機嫌のよくなった光の体を支えるように持ち上げる。
しかしその時、風見の腹が空腹を知らせた。
昼からまともな食事を摂っていない体は正直で、部屋に漂う食欲を誘うそれを早く早くと求めてきかない。
二人は思わず視線を合わせて笑みを零す。
「その前にあんたは飯食わないとな」
「うっ……そうだな」
気恥ずかしさから頬を赤くした風見はそそくさとダイニングテーブルのイスに座り、用意されたカレーを食べ始めた。
「ん、美味いっ。久しぶりに君の手料理を食べてる気がするな」
「もっと早く連絡してくれたら好きなもの作ってやれたのに」
「君が作ってくれるものならなんだって構わないよ」
野菜がごろごろと入ったカレーは食べ応え十分で市販のルー以外にもスパイスを入れているのだろうか、ピリッとした辛さがアクセントとなって食べる手が止まらない。
その食べっぷりに余程腹が減っていたんだなと思いながら名前は腕の中で身じろぎをする光へと視線を落とした。
優しく背中をリズムよく叩いてやれば瞼がどんどん下がっていき寝てしまいそうだ。
せっかく数日振りに起きている我が子に会えた風見には悪いがこのまま寝かしつけてしまおうと名前は口を小さく開いた。
二杯目のカレーを食べている風見の耳には光が生まれてから何度か耳にしている歌声が聞こえた。
名前の口ずさむその子守唄は日本ではあまり耳にしない曲で、初めて聴いた時にどこの唄なんだと尋ねたことがある。
それは名前が子供の頃に母が唄っていたもので曲名は分からず、歌詞が英語だからきっとアメリカかイギリスの子守唄だろうという答えが返ってきた。
母が入院してから寂しくて泣いていた妹をあやすために唄っていたら覚えたという。
唄が終わる頃にはすっかり夢の中の光をベビーベッドへ移した名前はダイニングテーブルのイスに座り頬杖をついた。
目の前のまるで食べ盛りの高校生のようにカレーを平らげていく勢いの風見を眺め、徐に口を開いた。
「なぁ裕也さん」
「どうした?」
「あんたがここ数日会えなかったのは光だけじゃないんだけど」
その言葉に風見はスプーンを咥えたまま固まってしまう。先ほどまでの優しい雰囲気ではないと肌が感じ取っている。
ちらりと視線だけを向けるとばっちり目が合ってしまった。
名前の目元が細められ、口角が緩く釣り上げられる。見慣れた挑発的な笑みだ。
風見は出会った頃からこの表情に弱かった。
「俺の相手もちゃんとしてくれよな」
我が子に向ける優しい微笑みと自分に向けられるその笑みのギャップに、満足に噛めていないスパイシーなカレーをごくりと飲み込んだ。
22歳になった名前の色気は確かに増していると、風見は結論付けた。