lily of the incas 02


 寝不足を感じることなく目覚めた名前はベッドへ横になったまま体を伸ばした後、ふっと力を抜く。
 子育てを始めた当初は夜泣きによる寝不足を懸念していたが、光は全くと言っていいほど夜泣きをすることなく一歳の誕生日を迎えていた。
 職場の保育園では保護者から相談されることの一つに夜泣きがあるのだが、名前はこの問題に直面したことがないためいつも先輩保育士にバトンタッチしている。
 海外のどこかでは放置することで夜泣きをなくす対応をしているらしいがそうアドバイスしたところで母親というのは我が子の泣き声には敏感なので全ての人にそれが役に立つとは限らない。
 それに必ずしも解決策を望んでいる人ばかりではない。
 同じ苦労を知っている人と感情の共有をしたいという人も多くいて、残念ながら夜泣きに関して名前は共感ができないでいた。

「こればっかりは体験しないとな……」

 と言っても光はもう夜泣きを卒業する年齢に差し掛かっているからその体験も難しそうだ。
 ベッドのヘッドボードに置いてある携帯を手に取り時間を確認すれば時刻は朝の六時半になる頃で、仕事があってもなくても光が生まれてからはだいたいこの時間に起きている。
 仕事は基本的に中番が多く、残業はあるが週に二日は必ず休みを貰えているので今の職場に不満はない。
 今日は週二日ある休みのうちの一日だ。
 体を起き上がらせ改めて背伸びをすれば少しだけ体が軽くなったような気がした。

「ん……うぅ……」

 名前は隣から聞こえてきた唸るような声に起こしてしまったか? と顔を向けたが、風見は顔を顰めながらもまだ夢の中のようだ。
 記憶が正しければ風見が帰宅してベッドへ倒れこむようにして寝たのは明け方頃。
 仕事の疲れか、それとも夢の中でも降谷に振り回されているのか、ぎゅっと眉を寄せている表情を見る限りいい夢ではなさそうである。
 顰めっ面の眉間を親指でそっと撫でた後、名前は起こさないように静かに部屋を出た。

「ぱーぱ」

 すでに起きていた光がベビーベッドの柵に掴まりながら立っていて、リビングに姿を現した名前を呼んだ。

「おまえは起きるのが早いね」

 自分に似た柔らかい髪を梳くように頭を撫でて日々成長していく小さな体を抱き上げ、お気に入りのネコのぬいぐるみと一緒に光をフローリングの上へ座らせた。
 活発に動くようになってからは野に放つが如くリビングの中を自由にさせている。もちろん名前や風見がリビングにいる間だけではあるが。

「はぁく!」
「はいはい。今着けてやるから急かすなって」

 早く早くと少しずつ喋れるようになってきた光が両手を伸ばして待っているのは、後ろに転倒してしまった際に頭を床に打ち付けないようにするためのヘッドガードを着けてもらうため。
 リュック型クッションのそれは風見が「可愛すぎて一つに絞れなかった」と言いながら買ってきたもので、数ある種類の中から今日はクマのデザインがされたものを選んだ。
 これを着けないと自由行動は許されないと学んでいるのかリュックに腕を通す間も光は嫌がることなく大人しく座って待っている。
 なかなかに賢い子であると名前は我が子ながらに感心していた。

「よしできた。行ってこい」
「あい!」

 元気のいい返事をした光は踏ん張りを利かせて立ち上がり一歩ずつ慎重に歩き始めたが数歩目には尻餅をついてしまう。
 立つ、歩く、座る、それを何度も繰り返して一目散に向かって行ったのは光専用のオモチャ箱だ。
 その中には風見が買ってきたものの他に、佐藤を含めた警視庁の知り合いや阿笠博士などからプレゼントされたオモチャも入っている。

 光がオモチャに夢中になるのを見届けてから名前はキッチンへと向かい朝食の準備を始めた。
 キッチンからでもリビングを見渡せるので子供から目を離す心配はない。
 棚からレトルトの離乳食を取り出そうと覗いてみたが、そういえば昨日の夜で切らしていたことを思い出した。

「あとで買い物行くか……」

 冷蔵庫からウインナー、玉ねぎ、人参、ブロッコリーを取り出して野菜類は細かく刻んでから容器に移し水を加えてからレンジで加熱する。
 待つ間に輪切りにしたウインナーとご飯70gほどを混ぜてこちらも水を加えてからレンジで加熱させた。
 程よく柔らかくなったそれらを混ぜ合わせながら塩を少々加え味を調整して、あとは火傷をしないように冷めるのを待つだけだ。

「光、そろそろご飯だからな」
「あーぃ」

 キッチンからそう声をかけると光は遊んでいたオモチャをそのままに、自分からベビーチェアのほうへと歩いて向かいちょこんと座ってみせた。
 この光景を風見が見ていたならば親バカを発症させてしまいそうである。
 一歳児にしては随分と聞き分けがよく、しっかりしている光の手間の掛からなさ具合には助かっているが少々疑問に思うところがあるのも確かだ。
 しかし、なんだかんだと我が子の可愛さにその疑問も相殺されているのも事実。
 名前は考えてもしょうがないと軽く息を吐いて、熱さの引いた料理と牛乳の入ったストローマグを手にリビングへと戻る。
 行儀よく座って待っている光が早くと言わんばかりにじっと名前を、いや名前の持っている食事を見つめているのに気付いて思わず笑いが溢れてしまった。

 光の食事を終え、自分の朝食も終えた名前はリビングで遊ぶ我が子を確認してからベランダで洗濯物を干し始めた。
 今日は晴天で気持ちの良い風も吹いているからすぐに乾きそうだ。
 本当なら布団も干しておきたいところだったが寝室ではまだ風見が寝ているから諦めた。

「ぱぱー」
「ん?」

 もうすぐ干し終えるのを見計らったかのようなタイミングで後ろから声をかけられ振り向くと、開けっ放しの窓に捕まりながら立っている光が名前を見上げている。
 危ないからベランダへ出てはいけないと注意した覚えはなかったが光は自分で動き回れるようになってから一度もベランダへ出た事はない。
 もしかしたら自分の知らないところで風見が言い聞かせたのかもしれないと名前は考えているがその真意は分からないままだ。
 ちょっとこの年齢で賢すぎやしないか?と再び疑問に思うのには他にも訳がある。
 光の前で名前は風見を”お父さん”と呼んだことはあるが、風見が名前を”パパ”と呼んだことはない。
 名前自身も自分を”パパ”だと教えたわけではないのに光は自然と二人を最初から”お父さん”と”パパ”で呼び分けていた。
 このことを以前風見に相談した時は「すごいな! 天才じゃないか!!」と親バカっぷりを発揮されてしまったのだ。相談相手を間違えた瞬間だった。
 その時のことを思い出して溜め息を吐いた名前は最後の洗濯物を干し終えて室内へ戻り、ずっと見上げてくる光を抱き上げる。

「どうした?」
「おしょと!」
「外?」

 力一杯ベランダのほうを指す光の手に首を傾げながら散歩に行きたいのか聞けば大きな目を輝かせ何度も頷いた。

「いく! はぁく!」
「じゃあ散歩行く前に遊んだオモチャを片付けような」

 いろいろなオモチャが散らばる光がいつも遊んでいるエリアに連れて行くといそいそとオモチャを箱へと片付けていく。
 これは相当散歩に行きたくて仕方がないと見た、と暫くその様子を見ていた名前は外へ行く用意をするため立ち上がった。
 必要なものをトートバッグに詰めてお出かけ用の服に着替えた光を連れ玄関へ向かうと、途中で光が「あ」と声をあげた。

「おとしゃん」

 リビングで寝ていた光は明け方に帰ってきた風見に気付いていたのだろう。
 寝室を指差して覚束ない足取りでドアへと近づいた光の後ろに立った名前は静かにドアを開けて中を覗いた。
 ベッドの上にいる風見はまだ起きる気配はない。相当疲れが溜まっているようだ。

「お父さんは疲れてるから寝かせておいてやろう」
「おとしゃん、ねんね?」
「あぁ。だから帰ってきてから遊んでもらえ」

 名前の真似をするように部屋の中を覗き込んでいた光を抱き上げてゆっくりとドアを閉める。
 しょんぼりとしてしまった光の頭を軽く撫でながら、きっとこの比じゃないほど風見も落ち込んで寝ていたことを後悔するだろうなと苦笑した。


 晴天に誘われた今日の散歩は近くの公園ではなく少しばかり歩いた先にある河川敷へと足を伸ばしていた。
 川沿いは緑も多く程よく風もあって気持ちがいい。
 草むらの中に虫でも見つけたのか捕まえようと追いかける光を見守りながら周りを見渡すと、見知った男女が視界に入った。

「光、おいで」
「う?」

 駆け寄ってきた光が危うく転びそうになる寸でのところでその小さな体を支え、そのまま抱き上げる。
 川を見ながらなにやら話し込んでいる男女に近づいていくと最初に名前に気付いたのは女性のほうだった。

「名前くんじゃない。あら? もしかしてその子、光くん?」
「うん。佐藤さんと会うのは久しぶりになるかな」
「見ない間に随分大きくなったわねー」

 そこにいたのは警視庁刑事部の佐藤と高木であった。
 以前のように事件に関わることが少なくなってからは顔を合わせる回数も減ってきたが、名前が二十歳を超えてからはたまに飲みに付き合うこともあるくらいの交流は続いている。
 そもそも警察でも探偵でもなんでもない人間があれだけ事件に巻き込まれていた数年前が異常であっただけである。
 工藤新一が江戸川コナンであった時期のことを思い出して顰めそうになる顔を我慢する名前の腕に抱かれている光は不思議そうに二人を見つめていた。
 片頬に手を添え「子供の成長って早いのね」と呟く佐藤に苦笑を漏らしたのは高木だ。

「佐藤さん、まるで親戚のおばさんみたいですね」
「何か言った?」
「いえなにも!!」

 鋭い佐藤の視線から全力で顔を背ける高木はぶわっと冷や汗が吹き出るのを実感した。
 数年前に結婚してもなお、力の上下関係は仕事だろうがプライベートだろうが変わらないのがこの二人である。

「こんにちは光くん。一度会ってるんだけど覚えてないわよね」

 高木に向けていた迫力のある表情はすぐに柔かなものに変わり、佐藤は笑顔で光に話しかけながらぷにぷにとした小さな手に触れた。
 全く嫌がる素振りを見せない光はニコニコしながら佐藤の指を握ってきゃっきゃと笑い声をあげる姿に二人は仕事で疲れた心が癒されたような気分になる。
 そんなほんわかした雰囲気の中、名前は気になっていたことを口にした。

「そういえばなんでこんな所に? 事件でもあった?」
「あぁ、気にしないで。別に大したことじゃないのよ」

 佐藤は苦笑してそう言いながらも簡潔にここにいる理由を名前に話した。
 川に人が浮かんでいると通報を受けて来てみればどうやらそれはただのマネキンだったようで、事件性が低いことから周辺を見回って本庁に戻ろうとしていたらしい。
 たまにこういう事があるんだよ、と少々疲れた表情を浮かべる高木に気休め程度の労いの言葉をかけていると佐藤の携帯に着信が入った。
 残念ながら細やかな休息は終わりのようだ。

 その後、佐藤達と別れた名前は光との散歩を楽しんで、帰る途中スーパーで買い物をしてから昼前には帰宅した。
 リビングのソファに拗ねたように座って待っていたのはパジャマ姿のまま若干涙目の風見だった。

「せめて、せめて一言くらい声をかけてくれても……っ!!」

 疲れ果てて帰ってきて泥のように寝た後、さぁ光に癒されようと起きたら誰もいなかったことが相当ショックだったらしい。
 朝のあの様子だときっと声をかけたところで目を覚ますとは思えないがあえてそこは突っ込まないでおく。
 綺麗に手を洗い終えた光をフローリングに下ろすと覚束ない足取りで懸命に風見の元へと駆け寄った。

「おとしゃん」
「っ、光くん! 散歩は楽しかったか?」
「うん!」
「そっか! よかったなーでも今度はお父さんも一緒がいいなぁ」

 膝に抱き上げられた光が慰めるように風見の頬に両手を伸ばして触れると、それが嬉しいのかぎゅっと抱きしめてソファに寝転んだ。
 腹の上に座らせた光に「どこへ行ってきたんだ?」「なにが楽しかった?」と聞いている表情はすっかりご機嫌で、さっきまで拗ねていたのが嘘のようである。

「これじゃあどっちが子供か分かんねーな」

 その光景に微笑みながら昼食の準備をするため名前はキッチンへと向かったのだった。