lily of the incas 02.5


 ボクこと風見光は第二の人生を歩み始めてからというもの、年相応の振る舞いに心がけながらも幼児生活を満喫していた。
 一年と半年を過ぎたあたりから足腰も強くなってきて歩くことの不安もなくなり、最近ではちょっとだけ走れるようになったのだ。
 だが調子に乗って外で全力疾走したら思いっきり転んでしまって恥ずかしい思いをしたのはつい昨日のこと。
 膝と掌に擦り傷が出来てヒリヒリするけど泣かないぞ。ボクはこれでも精神的には大人なのだから。

「ごめんな、ちょっと痛むぞ」
「あぅ……いちゃくない」

 でも消毒液が滲みるこの地味な痛みは幼児にはキツいものがあり、少しだけ涙目になるが頑張って堪えた。
 怪我した直後の昨日は少し泣いたけどそれは誰にも言えない秘密だ。

「光くんは名前に似て強い子だな」

 そう言って頭を撫でてくれたのはいつもは忙しくて家にいないお父さんで、今日はボクと二人だけでお留守番をしている。
 こうして二人だけで過ごすのは初めてで、だからなのかお父さんは物凄く張り切っていてボクはそれがとても心配だ。
 いつもは保育士であるパパについて行って保育園で過ごしているのだけど、今日は仕事が休みだと言うお父さんがどうしてもとパパに頼み込んだのが今朝のこと。

 今日は珍しく家族三人で朝ごはんを食べていた。
 ボクは離乳食を卒業して幼児食へレベルアップし、一人でも難なく食べられるようになったから一緒に食事の時間を過ごせるようになったのだ。
 まぁそんなことはどうでもよくて、珍しいというのはボクではなくお父さんのことである。
 毎朝同じ時間に家を出るわけじゃないお父さんと食卓を囲むのは貴重だ。
 お仕事が今日は休みのようでボクを一日家で見ているとパパに伝えたようだが、なかなかいい返事は貰えていないみたい。

「本当に今日は絶対に呼び出しがないんだな?」
「本当に今日は絶対に呼び出しはない」

 パパが心配しているのは警察官であるお父さんが事件のせいで急遽出動を余儀なくされてボクを一人家に残してしまうんじゃないかということだった。
 普通の子であれば確かに心配であるがボクは普通の幼児ではない。お留守番くらい一人でできるさ。
 でもそれを知っているのはボクだけだから意味がないんだけどね。

「降谷さんから今日一日は連絡はしないと言われた」
「……へぇ」
「信じてないな?」
「俺は今までもこれからもあの人を信じることはないよ」

 “降谷さん”というのはこの家ではよく耳にする名前で、ボクは一度も会ったことがない。だというのにどこか懐かしさを覚えていた。
 その名前を聞く度に深い眠りについている記憶が呼び起こされるような感覚が脳を襲うが、あともう少しというところでいつも思い出せない。
 あと少しなのに、とモヤモヤしながらフォークを人参に刺しているとパパの指に口元を拭われた。
 両親の話によく出てくる降谷さんとやらはお父さんの上司なのだが、パパはその人のことがあまり好きではないみたいで話題に上がる度に嫌そうな顔をしている。
 これだけ嫌われるって一体どんな人なんだろう。気になるなぁ。
 フォークに刺さった人参を口に運びながら二人を見上げると、お父さんは眉を寄せながら他にいい交渉材料がないか考えているようで先ほどから箸がまったく進んでいない。
 一方パパは朝食の焼き魚を綺麗に骨だけ残して平らげてから箸を置いて、悩むお父さんを少しの間見つめた後にそっと息を吐いた。

「なにかあったら必ず連絡すること」

 その言葉に驚きの表情を浮かべたお父さんが思わず持っていた箸をテーブルに落としてしまった。

「あと、もし呼び出しがあったらすぐに保育園に連れてくること。それが守れるんなら、あんたに任せてもいい」
「名前……っ守る。絶対に守ってみせる!」

 拳を握ってやる気を見せる姿に笑みを浮かべたパパは結構お父さんに甘いと思う。
 お父さんはいつもボク達には甘いけど、パパはとてもクールで子育ても保育園で働いている姿も淡々と物事をこなしているように見える。

「光、お父さんのことよろしくな」
「あい!」
「ちょっと待て、なんで光くんに頼むんだ」
「だってこの子のほうが裕也さんよりしっかりしてそうだし」

 でもそこにはちゃんと優しさがあるからボクはパパが好きだ。もちろんお父さんも。

 仕事に向かうパパを見送った後、昨日転んでしまった時にできた傷をお父さんに消毒してもらっていた。
 救急箱からガーゼと消毒液を出して処置していく様子はかなり手慣れている。
 警察官も結構怪我すること多いもんなぁなんて思っていたがどうやら理由は別のことだったみたいだ。

「名前が学生の頃はな、こうして光くんにやってあげてるみたいに僕が怪我の手当てをしてあげていたんだ」

 なるほど、自分にではなくパパのおかげで上手くなったらしい。
 でも手馴れるほど何度も怪我をしてくるなんてパパは運動部にでも入っていたのか。サッカーとか野球とか、運動神経良さそうだもんな。

「よしこれで終わりだ。偉いぞーよく我慢できたな」
「ひーくん、つおい?」
「あぁ強いぞ! さすが男の子だ!」

 今度はちょっと強めに頭を撫でられて視界が左右に揺れる。
 ちなみに自分を”ひーくん”と呼ぶのはただの可愛さアピールだ。ほら、小さい子って自分を名前で呼んじゃうだろ? あれってかなり可愛いと思うんだ。
 でもこれっていつまで許されるものなんだ。さすがに小学生になったらボクにするけど、どこまでいけるのかギリギリまで試してみたい。
 まぁそんな先の話は置いといて、今日はお父さんと二人だけで過ごす初めての日だ。
 救急箱をしまってからキッチンで朝食のときに使った食器の洗い物を始めたお父さんの後ろ姿を覗き見る。
 キッチンは危ないから小さい子は入っちゃいけないって保育園で先生達が言ってたからボクはそれをちゃんと守っているのだ。うん、偉い。

「ん? そんなところで何してるんだ、光くん」

 こちらに気付いたお父さんにそう聞かれたがただ黙ってじっと見つめていると、ちょっとだけ困ったように照れ笑いを返された。

「遊びたいのか?」
「うん」
「すぐ終わるからちょっと待ってるんだぞ」
「あーい」

 そのままじっと見つめて待っていれば早々と洗い物を終えて濡れた手を拭いたお父さんに抱き上げられ、リビングのソファへと連れて行かれる。
 赤ん坊だった時と比べてかなり抱っこの仕方が上手くなっているのはさすが親というべきか。


 その後は一緒に遊んでいた、いや遊んでいるボクを写真や動画で撮っていたお父さんはそれはもう楽しそうだった。
 マンションの近くにある公園で昨日転んだことも忘れて走り回るボクをニコニコしながら撮影しているお父さんを同じマンションに住む奥様方が冷ややかな目で見ていたのは、まぁ仕方ないよね。
 普段忙しくてこうしてボクを連れて公園に来るのだって初めてだから周りからしたら「誰?」ってなるのはしょうがない。

「おとしゃん、あれ!」
「ブランコか。一人じゃ危ないから一緒に乗ろうな」
「うん!」

 不審者として通報されても困るのでカメラを持つ手を掴んでは一緒に遊ぼうとせがんでみせ、何度もお父さんと呼べば奥様方もボク達を親子だと認知してくれたようだ。
 ご近所付き合いって大切なんだなぁ。

 公園で遊んだ後はパパが用意してくれていたお昼ご飯を食べて一緒にお昼寝をしたのだが、ボクは二時間くらいで目を覚ましたけどお父さんはパパが帰ってくるまで寝てしまっていた。
 子供用のタオルケットをかけて眠っているその姿にパパは呆れたように笑みを零し、大きな音を立てないようにオモチャで遊んでいたボクの頭を優しく撫でる。

「偉いぞ光。お留守番ちゃんとできたな」
「あい。おとしゃんも、えらい?」
「あー……お父さんはちょっとお仕置きが必要かもしれねぇな」

 お昼寝する前まではちゃんと子守りができていたよ、と言いたいけれどまだまだ言葉が覚束ないボクは心の中でお父さんに同情したのであった。