lily of the incas 03


 アメリカに渡って数年。組織にいた頃に開発した薬──APTX4869の解読薬は既に完成していた。江戸川コナンが工藤新一に、灰原哀が宮野志保に戻ったのがその証拠だ。
 志保が日本を離れアメリカのFBIに身を寄せたのは元はと言え組織にいた人間であること、そして薬の解毒薬を作った彼女の成果を見込まれてのことだった。もちろん赤井の口添えあってのものだが。
 生活する国が変わっても研究への熱は下がらず、いつの間にか正規雇用されていたのは記憶に新しい。これももちろん赤井が関係しているのだが志保は呆れて口を閉ざすことにした。
 日々の生活は充実していた。その反面、日本が恋しくなることもある。だから数日間だけ日本へ帰ることにしたのだ。
 

 慣れ親しんだ阿笠邸のソファへ座る志保は対面のソファにちょこんと座る子供と見つめ合っていた。
 癖のない黒髪に整った顔立ちは名前との血の繋がりを色濃く感じることができる。知らずの内に口元が少し緩んだ。

「あなたお名前は?」
「っ、ひーくんです!」
「そう。私は宮野志保よ。よろしくね」

 灰原哀であった頃に身を呈して自分や子供たちを守ってくれた彼から子供ができたと報告を受けた時は大層驚き、送られてきた写真に映った柔らかな彼の表情に安堵したものだ。
 彼が背負った過去を知っているからこそ訪れた幸せを祝福した。
 成長とともに送られてくる写真を見ていた志保は初めて会った感覚ではなかったが、名前の子──光はそうではない。優しそうな温かい視線を向けられていても初めて会う人に緊張を隠せていないようで背筋が伸びている。その姿さえも志保にとっては可愛らしく映った。

「久々の日本はどうだ? あれ以来だろ、帰ってくるの」

 しばらく小さな友人二世を見つめていると、懐かしさのある白いティーカップがテーブルに置かれた。ここ阿笠邸でよく利用していたものだ。中身は暖かい紅茶で、こちらもよく自分が好んで飲んでいたものと同じ香りだ。
 ありがとう、と言いながらカップを手に取り紅茶の香りを楽しんだ後、舌に感じる心地よい渋みを味わう。名前の淹れた紅茶を飲むのも数年振りであり、無意識に美味しいという言葉が口から洩れたことに志保は気付かなかった。

「そうね。変わってなくて安心したわ」

 阿笠邸を見渡しながら、対面にいる光の隣に腰掛けた名前へそう答えた。あの頃と変わらない家具や匂い、片付けを催促する者がいなくなったせいか散らかったままの発明品たち。テレビの前にはいくつかのゲーム機が置かれており、探偵団が今でもここへ通っていることを表していた。
 あの頃よく探偵団たちへ向けていた保護者のような眼差しを向ける志保に気付いた名前は、その視線を辿って呆れた表情を浮かべた。

「相変わらずここはあいつ等の溜まり場だけどな」
「みたいね。探偵ごっこはまだやっているのかしら」
「平日は部活で忙しいから休日集まって事件を探してるみたいだ」
「部活……?」

 一瞬だけ、脳が混乱した。だがすぐに灰原哀が過ごしてきた時からどれ程の時間が経ったのかを思い出す。記憶にあるのはランドセルを背負って謎を追いかける姿ばかりだ。
 持っていたカップをテーブルに戻してそっと息を吐いた。

「あの子達も中学生になったのね。私の中ではまだあの頃のままだわ」
「見た目が成長してるだけで中身は変わってねぇよ。……会っていかないのか?」

 大人用のマグカップに苦戦する光の手助けをしていた名前の視線が志保に向けられる。その視線を受け止め、ゆっくりと瞼を閉じた。

「あの子達の友達は灰原哀であって宮野志保に戻った私じゃないわ」

 少年探偵団の三人には荒んでいた灰原哀の心を癒し、ごく普通の女の子として接してくれていた。元の姿に戻りたいと思うと同時に、このまま灰原哀として生きていくのも悪くないと考えたのは彼らの存在があったからこそだ。
 しかし組織が壊滅し薬の開発データを手に入れたあの時、別れはもう目の前に迫っているのだと覚悟を決めた。二度と会うことのできない別れをすると決意したのは自分だ。その選択に後悔はない。

「それに私はすぐにアメリカへ戻ってしまうから、また辛い想いをさせるくらいなら何も知らないままのほうがいいのよ」

 気丈な言葉を口にしてはいるが、それが彼女の強がりであることを名前は解っている。だからこそ、その気持ちを無下にするようなことは言わない。
 例え探偵団の三人が灰原哀にとても会いたがっていると知っていても、名前が優先するのは彼女の気持ちなのである。それは今も変わらないままだ。

「ま、そのうち博士が中坊になったあいつ等の写真を志保に送りつけるだろうけどな」
「えぇそうね。楽しみだわ。ところでその博士はどこへ行ったのかしら」

 そんな名前の気遣いを有難く思っている志保は無理なく話題を変えることができた。
 数年振りに訪れた阿笠邸で自分を迎え入れたのは世話になった発明家ではなく、今目の前でコーヒーを飲んでいる名前であった。聞けば一本の電話を受けた後慌ただしく出て行ったようで、それからまだ戻ってこないらしい。

「さぁな。また発明品絡みでトラブルでもあったんだろ」
「博士も相変わらずってことね」

 呆れたような笑みを浮かべ再びカップを手にして口を潤した。少し冷めてしまったせいか香りが弱くなっている。後で紅茶のおかわりを貰おうと考えながら向かいに座る名前へ視線を戻す。

「あなたは?」
「俺? 俺は、まぁ……柄にもなく落ち着いた、かな」

 隣に座る光の頭を撫でる名前の眼差しは柔らかで暖かい。不良高校生というレッテルを貼っていたあの頃の影が今ではすっかり姿を消しているように感じる。丸くなった、と言えばいいのだろうか。
 結婚の報告を受けた時、驚きと少しの喜びと、そして不安が一度に押し寄せた。相手の風見とは何度か会ったことがあるためどういう人物かは解っていた。だからこそ不安に思ってしまったのかもしれない。志保は名前の過去を、彼の人生に大きな影響を与えた警察官のことを知っている。縋り付いた分だけ苦しむことを身を以て経験している彼に、またその日がやってきてしまうのではないかと考えてしまうのだ。
 だがその不安は要らぬ心配だったのかもしれない。頭を撫でられ嬉しそうにする我が子を見つめる名前の瞳を見れば、志保の胸にあった蟠りはゆっくりと消えていった。

「あなたに似てよかったわね」
「それあの人の前で絶対言うなよ?」
「あら、気にしてるの」
「逆だよ逆」

 どうやら以前、高木刑事から「名前くんによく似ているね」と言われた際に風見はスイッチが入ったかのように我が子と名前の似ている箇所を熱く語り始めたという。あまりの熱量に周りが引いていた程だったらしく、止めるのが大変だったそうだ。
 目元が似ていて笑うと可愛い、柔らかい髪も撫で心地がいい、なんてことを言っていたと話す名前に志保は口元に手を寄せて笑みを浮かべた。

「あなたらしくないわね。それ惚気よ」
「……言われると思った。おかわりは?」
「いただくわ」

 もちろん紅茶のおかわりである。間違っても惚気話のことではない。
 席を立った名前を追いかけていた光の視線が不思議そうに志保へと向けられた。ホットミルクの入ったマグカップは落とさないように両手でしっかりと持たれている。

「パパとなかよしさん?」

 首を傾げながらされた可愛らしい問いかけに志保の頬が緩んだ。

「えぇ。あなたのパパとは仲良しさんよ。あなたも私と仲良くしてくれるかしら」
「うん! ひーくん、しほちゃんとなかよしになる!」
「ふふ、ありがとう」

 名前の子とは思えないほど素直で愛くるしい姿に癒される。この子の素直さはきっと風見から受け継いだものだろう。志保の知る名前はいろいろと素直ではないところが多いからだ。
 和やかな雰囲気が阿笠邸のリビングを包んでいたが、その空気を切り裂くように玄関のドアが開閉する音が響いた。続いて忙しない足音がリビングへと向かってくる。

「灰原来てるって!?」

 なんの騒ぎだろうと三人の視線が集まった中、現れたのは少しばかり息を乱した工藤新一であった。

「おい工藤、もっと静かに入ってこい」
「ごめん名前さん──って、名前さんまでいる!?」
「なんだよ、俺がいちゃ悪いのか」
「そ、そういうわけじゃねーって! 名前さんと会うのも久々だから驚いちまっただけだよ」

 キッチンで新しい紅茶をティーカップに淹れている名前の人を揶揄うような態度に、新一が少しだけ不貞腐れ気味になった。その様子に久しく会う友人の不器用な照れ隠しが見えてしまい、志保は小さく笑う。
 もうガキじゃないんだから走り回るなよと言う名前に対して「へいへい」と適当に返しながら、新一はソファに座る数年ぶりに会う友人へと歩み寄った。

「よぉ灰原。元気そうだな」
「久しぶりね工藤くん。探偵業が楽しくて私が宮野志保に戻ったことを忘れてしまったのかしら」
「わりぃわりぃ。つい灰原って呼んじまうんだよなぁ」
「今は構わないけど、知らない人に聞かれたら面倒だから気をつけなさいね」
「解ってるよ」

 そう話しながら対面のソファに座ろうとした新一は、そこにちょこんと座っている子供にようやく気がついて立ち止まる。どこの子だ、と思ったのはほんの僅かな時間だった。

「もしかして光か?」
「ひーくんです!」
「工藤くんはこの子に会うのは初めて?」
「いや、何度か会ってるよ。最後に会ったのはー……確か去年だったよな?」
「大学卒業祝いをしにお前の事務所に行った時だったな。ほら、コーヒーでよかっただろ」
「お、さっすが名前さん。サンキュー」

 コーヒーの入ったマグカップを手渡した名前は、もう片方の手に持っていたティーカップを志保へと渡して隣に腰を下ろした。必然と新一は光の隣に座ることとなる。
 人見知りをしないのか、もしくは彼のことを覚えているのかニコニコしながら「こんにちは!」と挨拶をする光に「おう」と応えながら小さな頭を撫でた。

「子供の成長って早ぇーな。前会った時はもっと小さかった」
「あら。あなたも数年前までは随分小さかったわよ」
「はは、そりゃおめーもだろうが」

 江戸川コナンから工藤新一に戻ってから数年が経ち、現在新一は私立探偵として事務所を構えている。大学時代から学業と両立して探偵業をしていたが、去年大学を卒業してからは探偵業にどっぷりのようである。
 アメリカに渡ってからは新一との連絡もあまり取らなくなっていた志保だが、彼の活躍は阿笠博士から聞かされていた。
 もちろん工藤新一とその彼女である毛利蘭の進展についても、うっかり博士が口を滑らせたおかげで知っている。祝いの言葉は本人から報告があるまでお預けだ。
 淹れたての温かい紅茶を飲みホッと息を漏らした志保は、改めて名探偵へと視線を向けた。

「それで? 日本でその名を知らない者はいないとまで謳われている有名な探偵さんは何しにここへ来たのかしら」
「いやー久しぶりにおめーの顔見たくってさぁ」

 容姿端麗な上に頭脳明晰な彼は今や日本中に多くのファンがいる。そのファンが聞けば喜びそうなセリフも、志保にとっては本音を隠す煩わしい言葉でしかない。

「本当は?」
「今NYで起こってる連続怪奇事件のことを詳しく教えてくれ!」
「はぁ……そんなこったろうと思ってたわよ」

 彼の考えていそうなことは大体予想ができてしまうのは、お互い薬で小さくなっていた頃、ホームズとワトソンのような相棒関係だったからだ。
 元の姿に戻ってようやく傍若無人な探偵さんから解放されたと思ったのに、と溜め息を吐く志保の表情は呆れながらもどこか嬉しそうである。

「志保も捜査に加わってるのか?」
「直接は関わってないわ。あの人に頼まれて少し手伝った程度ね」
「へぇ……ってことは赤井はその捜査に関わってるわけだ。おい工藤」
「赤井さんがそう簡単に教えてくれるわけないだろ」

 どうやら捜査を担当しているFBIには断られたらしく、志保と名前にはなぜ新一が慌てたように阿笠邸へやってきたのかその理由がようやく解ったのだった。二人は視線を合わせて呆れたように肩をすくめるだけである。
 探偵特有の諦めの悪さを発揮すべく、マグカップをテーブルに置いた新一は両手を合わせて懇願するように頭を下げた。

「頼むよ宮野〜」
「無理ね」
「そこをなんとか!!」
「諦めなさい」

 始まった二人の攻防にあの頃の風景が重なったように見えた名前は、何年経っても変わらねぇなと呟いた。
 そして不思議そうな顔で二人を見つめている光が巻き込まれないようにそっと自分の膝の上に避難させたのだった。