隻眼の残像01


 冬休みを目前に控えた少年探偵団は、いつものように阿笠博士の家に集まっていた。庭に設置したパラボラアンテナを利用して、劇場版仮面ヤイバーの衛星放送を見るためである。けれど電波の受信が上手いこといかず、物語の最高潮というシーンで映像は突然に途切れてしまったのだ。真っ暗になった画面に、当然、子供たちからは抗議の声が上がった。
 しかし、その不満が長く続くことはなかった。

「じゃーん! これ、なーんじゃ?」

 庭でパラボラアンテナを見せながら衛星放送の仕組みを説明した阿笠が、白衣の内ポケットからパンフレットを取り出して子供たちに見せたからだ。好奇心旺盛な探偵団の興味は、すでにヤイバーから巨大なパラボラアンテナが表紙を飾るパンフレットに向いている。表紙には写真の他に『国立天文台 野辺山』と書かれていた。それを見たコナンはすぐに長野県にある天文台だと気付く。
 そこでは阿笠の大学時代の後輩が国立天文台で先生をしており、以前から遊びに来ないかと誘いを受けていたのだ。それを先程思い出し、もうすぐ冬休みということもあり子供たちを連れて行ってあげようと提案した。五人以上であれば天体観測ツアーも組める、というおまけ付きで。これにはもちろん探偵団の子供たちは大喜びだ。
 一方でコナンは阿笠の提示した日時に頭をかいた。その日は蘭と一緒にサッカーの試合観戦に行く予定が入っているのだ。チケットはすでに購入済みで予定を変更するのは厳しい。申し訳ないと思いつつ不参加を表明すれば思わぬ人物から思わぬ追撃を受けた。

「あら、誰と行くの?」

 灰原哀だ。いつもであれば「残念ね」と上辺だけの言葉で済ませるのだが珍しく関心を寄せている。いや、見た目と実年齢が伴わない頭の良い彼女であれば、相手が誰なのかをすでに察していて、敢えて訊いているのかもしれない。
 そう考えるとどうも答えるのが気恥ずかしいコナンであるが、哀だけでなく歩美からも視線の圧を感じてしまい答えないわけにはいかなかった。

「蘭……姉ちゃんと」
「じゃあ仕方ないわね」

 気まずそうに相手の名を答えれば、哀はすぐに納得した様子を見せた。やはり想定はしていたのだろう。一方で歩美は不満そうな表情を浮かべたままだ。原因は蘭の名前が出たことへのヤキモチ、ではなく、五人いなければ天体観測ツアーができないからである。一緒に行けないことへの不満じゃなくてそっちか、とコナンが苦笑を浮かべるよりも前に、すかさず引率係の自分を含めれば問題ないと阿笠がフォローに入ったことで子供たちに笑顔は戻った。
 そうして元太や光彦と踊るように喜んだ歩美だったが、哀の隣に戻ってくると残念そうに眉尻を下げてしまう。

「でも、みんなで一緒に行きたかったなぁ」
「しょうがないわよ。博士で我慢しましょ」
「おいおい……」

 そりゃ博士が可哀想だろうが、と呆れるコナンの耳にまだ聞き慣れないバイクのエンジン音が届いた。その音に暫し思考を巡らせ、やがて口元に笑みを浮かべる。
 蘭とのデートでなければ、チケットをまだ買っていなければ、都合を合わせることもできたかもしれない。だが日程が被ってしまえば優先度はどうしても彼女になってしまう。コナンとしても多少の申し訳なさはあった。そこで────

「なら、オレの代わりに名前さんに行ってもらうのはどうだ?」

 代わりを用意すれば子供たちも満足してくれるのではないかと考えたのだ。とくにここ最近の名前は新しいバイクを買うためにバイトを増やしていたおかげで、探偵団の保護者役も断ってばかりだった。久々に一緒に遠出ができるとなれば子供たちは喜ぶに違いない。もし無理だと突っ撥ねられても、その時点で歩美が『一緒に行けなくて残念』だと感じる比重はコナンから無愛想な高校生へと移っていることだろう。
 その意図を哀も見抜いたのか呆れた目を向けられるが、コナンは気付かないふりをした。

「ほら、ちょうど帰ってきたみたいだし」

 言いながら子供たちの背後を指で差したのと、名前が賑やかな庭の様子を覗きに来たのは同時であった。自分に向けられる多数の視線。不吉の前振りと言わんばかりのコナンの言葉。面倒事の予感を強く感じ取ったのか遠慮なく表情が歪められた。得意の鋭い勘を以てしても避けることはできなかったようだ。
 斯くして小さな探偵が用意した盤面は整えられ、バイト帰りの青年は少年探偵団に捕まってしまった。

「ねぇねぇ! 名前お兄さんも天体観測ツアー行こう!」
「でっけータナボタアンテナだぜ!」
「タナボタじゃなくてパラボラアンテナですよ、元太くん」
「バイト詰め込み過ぎていたようだし、たまにはリフレッシュしてもいいんじゃない?」
「待て待て。なんの話だ」

 容疑者よろしく取り囲まれた上に、四方から無邪気な言葉を浴びせられた名前は困ったように片手で額を押さえた。おまけに今回はいつもは静観を決め込む哀までもが加わっている。そのせいもあってか何やら事情があることは察せるものの、いまいち状況は飲み込めない。
 名前は説明を求めるように事の発端、いや、仕掛け人に視線を向けた。

 庭から家の中へと戻り、リビングのソファで阿笠の入れたコーヒーを飲んだ名前は気怠そうに息を吐いた。そして面倒事を押し付けるなと対面のソファに座るコナンを睨みつけるも、妙案を示した本人は誤魔化すように子供らしい笑顔を浮かべるだけで反省の色はない。思わず軽い舌打ちをしたくなるが期待の眼差しを向ける子供たちの手前、仕方なく我慢した。
 テーブルにマグカップを置いて、代わりに広げられたパンフレットの一枚を手に取って見下ろす。

「天文台ねぇ……」

 呟きながらパンフレットを裏返せば国立天文台の場所が詳しく載っている。場所は長野県。長野と言えば軽井沢、諏訪湖、渋温泉街と有名どころが多くあり、とくにビーナスラインと呼ばれるドライブコースは名前が一度は行ってみたいと思っていた場所の一つだ。観光目的として行くのなら魅惑の誘いなのだが、話を聞く限り天文台の見学と天体観測ツアーのみらしい。
 おまけにこの時期の長野は雪が降っている頃だろう。

「博士がいれば五人なんだろ。ツアーの条件は満たしてる。よって俺は留守番だ」
「えー!」
「なんでそうなるんですか!」
「ノリ悪ぃーぞ!」

 雪化粧の八ヶ岳連峰は気になるが、どうにも寒いのは避けたいという欲のほうが勝ってしまった名前にブーイングが寄せられた。勢いでソファから立ち上がり詰め寄ろうとする元太と光彦をあしらうようにパンフレットで仰げば、一歩引いたところでマグカップを手にした阿笠が苦笑する。
 そこに助け舟を出したのは名前の隣に座り、暇潰しにパンフレットの中身を眺めていた哀だった。

「新車の慣らし運転もしたいってぼやいてなかったかしら」
「長野までの距離を慣らし運転とは言わねぇの」

 残念ながらそれは子供たちへの助け舟であって、頑なな青年のためではなかった。珍しいこともあるものだと視線を向ければ、子供らしくない口元に微笑を浮かべた哀が顔を傾ける。

「悪路のテストもできるわよ?」

 確かに、と名前は腕を組んだ。
 八丈島の件で海に沈みお釈迦になってしまったバイクの代わりとして新しく買ったのはアドベンチャータイプの大型自動二輪車である。かなりオフロードに寄せた設計となっているが、オンロードの走行も不快感なく充分であった。このまま悪路の走破性能や耐久性、乗り心地の満足度が高ければ、すでに所有しているもう一つの大型二輪を手放すのも悪くはない。新車購入による貯金へのダメージは相当なものであったし、大型二輪を複数持つほどの余裕は正直なかった。ならばなぜ買ったのかと問われてしまえば言い訳はただ一つ、見た目に惚れ込んだ、のみである。
 つまり長野県までの長距離走行に加え、なかなか試すことのできない雪道のような悪路に対する性能を試すことができるのだ。そう考えれば多少気持ちも揺らいでしまう。
 誘導されたとも知らずに名前が思考に耽るのを見て、哀は青年に向けていた顔を反対側に向けて隣に座っている歩美に微笑んだ。

「今なら"お願い"が通ると思うわ」

 目をぱちくりとさせた歩美は次第にパァっと花が咲くような笑顔を浮かべてソファを飛び降りた。そこへ更なる助力をするべくコナンが近寄って内緒話をするように何かを耳打ちする。口元には笑みも浮かんでいて、この状況を楽しんでいるようだった。
 助言を受けた歩美は「わかった」と頷いてから小走りで名前の元へ寄ると、上着の裾を引っ張り、両手を握り合わせて祈るポーズをとってみせた。

「歩美、名前お兄さんとも一緒に天体観測がしたいな。お願い……!」

 瞳を潤ませて見上げてくるあどけない少女の姿に名前は眉を寄せる。全ては見た目が小学生なだけの生意気な探偵のせいであるのに、なぜ罪悪感を抱かねばならないのか。しかも普段ならここまで粘らない歩美に姑息な手を使わせて来るのも性格が悪い。そう内心で悪態を吐いていると元太と光彦も倣うように同様のポーズをとって見上げてくる。
 目を逸らすにも逸らせない名前は諦めたように瞼を閉じて降参したとばかりに両手を軽く上げた。

「……分かったよ。行けばいいんだろ、長野に」

 知恵者二人によってついに牙城は崩されたのだった。
 子供たちは喜びに飛び跳ね、コナンはようやく後腐れなく蘭とサッカー観戦へ行けると胸を撫でおろし、哀は静かに微笑みを浮かべる。ただ一人、名前だけが納得のいかない表情を浮かべながら冷めたコーヒーを飲み込んだ。



 数日後の週が明けた月曜日。
 東京から北陸新幹線に乗った少年探偵団と阿笠の一行は長野県の佐久平駅へと到着した。この駅に国立天文台の越智が迎えに来ることになっており、そこからは車で天文台へと向かう予定だ。到着の時刻は事前に伝えていたため、然程待つことなく阿笠は大学時代の後輩と久しぶりの再会を果たした。
 駅の展望台から元気よく挨拶をする子供たちへ声を返した越智は、今回の見学に参加する人数を確認するように視線を動かす。

「ええと、子供が四人と阿笠先輩、あとは高校生が一人いると伺ってましたけど……」
「そのはずなんじゃが、まだ来とらんようでの」

 遅れているのかもしれん、と続くはずの言葉を遮ったのはスマホの振動だった。確認すれば着信相手は今頃サッカー観戦に向かっているであろうコナンからであり、阿笠は通話のために一時その場を離れた。
 そこに雪化粧の景色を堪能した子供たちが駆け足でロータリーにやってくる。わくわくが止まらないと言った表情で忙しなく辺りを見渡すと、次第に「あれ?」と小さく声を零して首を傾げ始めた。その声に、駅舎前に設置された『幸せの鐘』と名付けられた鐘を見ていた哀が振り返る。

「名前お兄さんは?」
「見当たりませんね」
「迷子なんじゃねーの」

 子供たちの元へと歩きながら哀はスマホを取り出して交通情報を検索した。高速道路にも一般道にも事故や渋滞を示すマークはなく、またそれらに関するニュースも挙げられていない。バイクで阿笠邸を出発した時刻と道中のサービスエリアで休憩を挟んだ時間を考慮しても、もう到着していておかしくはないはずだ。となれば考えられるのは一つだけ。思い返せば長野へ行くことは了承していたが、天文台へ一緒に行くとは一言も言っていなかった。つまり、優雅に観光でもしているのだろう。
 策士ね、と呆れた笑みを浮かべた哀はメッセージを送ってからスマホをポケットに仕舞った。

「先に行ってましょう。あの人には天文台で合流するよう伝えておいたから」
「はーい!」

 先週とは打って変わって子供たちから不満の声は上がらなかった。見慣れぬ土地へやって来てしまえば好奇心のほうが遥かに勝るのだ。

 一方、哀の読み通り、黒のG1ジャケットを着込んだ名前は一人のんびりと観光を楽しんでいた。
 長野県に入ってまず立ち寄ったのはそば処だ。信州そばを堪能するためにサービスエリアでは飲み物しか口にしていなかったため、あまりの美味しさに本来の目的を忘れて帰ろうかと思ったほど。次いで向かったのは露天風呂のある温泉。他人と風呂に入るのは苦手であったが、午前中ということもあり利用者は少なくほぼ貸し切り状態で入ることが出来た。そうして長距離移動で疲れた体もすっかりと回復したところで、再びバイクに跨りツーリングを開始したのだ。
 新車の調子は頗る好調だった。エンジンの振動は小気味良く、マフラーの音圧は胸を高揚させる。遠乗りするために購入したバイクではなかったが、いくらでも走っていたくなるくらい乗り心地は最高のものであった。その上、気分良くツーリングに浸れているのは美しい雪景色の影響もあるだろう。走っていて楽しい道には眺めの良い景色も重要なのだ。
 いつだったかポアロに来た蘭や園子に、意外とロマンチストなんですねと言われたことがあった。意外は余計だろうと反論した名前だったが否定まではしなかったのを覚えている。
 そんなことを思い出しているうちに佐久平駅へと到着した。予定の時間はかなり過ぎてしまっているため、すでに阿笠や子供たちはいない。なので慌てることなく路肩にバイクを停めると、フルフェイスのヘルメットを外して頭を振る。そのままヘルメットをハンドルに引っ掛け、走行中はマップのみを表示させていたスマホを手に取った。地図アプリを一旦閉じると画面の左上にメッセージの通知アイコンがあることに気付く。

『観光はほどほどに。天文台で待ってるわ』

 こちらの行動を見透かしているメッセージに名前は口元に笑みを浮かべた。これからそっちへ行くとだけ返答を送り、小休憩を取るため近場の自動販売機へと足を進める。その時、見知った二人組が駅から出てくるのを視界の端で捉えた。東京でサッカーの試合を観戦しているはずのコナンと蘭だ。どういう経緯かは不明だが、佐久平駅で下車したのならば行き先は国立天文台だろう。

「俺を長野に寄越した意味はなんだったんだ、あいつ」

 名前が呆れた視線を向けると、彼女にマフラーを巻いてもらい照れるコナンの背中に近くを歩いていた男の鞄が当たった。余程強くぶつかったのか、よろけた小さな体を蘭が支える。男も慌てたように歩み寄って屈むとコナンの肩を掴み心配そうに声をかけた。そして念を押すように謝る様子を見せると地面に置いた鞄を持って離れていく。
 自動販売機のボタンを押そうとしていた手が止まる。名前の視線はコナンから、一見では怪しさの欠片もない男へと移っていた。これも日頃から仕掛ける側の子供を間近で見てきたから目が肥えていたのだろう。その鋭い瞳は、男の自然なほど不自然な動きを見逃さなかった。ガコンッと落ちてきた缶コーヒーを取り出し口から拾い上げ、踵を返すことなく静かに男の後を追う。
 男はタクシー乗り場から死角になる駅の階段の前で立ち止まっていた。スマホを耳元に当てている様から電話をしていると分かる。タイミング的にも誰かに報告をしている可能性が高い。もう少し近づけば声が届く、という所で男が通話を切る。事前に何か情報を得られればそれに越したことはなかったが、名前はそのまま男に歩み寄り、そして背後に立った。

「おい」
「っ!!」

 声を掛けると男は驚いたように肩を揺らして勢いよく振り返った。その表情は焦りと困惑の色が混ざっている。通話の内容を聞かれたと思っているのだろうか。

「な、なにか?」
「あのガキに何するつもりだ」

 問いとも言えない強めな言葉と威圧する態度に、男はさらに焦りを見せるかと思われたがすぐに落ち着きを取り戻した。

「何を言っているんだい君は。あのガキって、さっきぶつかってしまった子のことかな?」

 慣れたような、取り繕うような、そんな反応に警戒を強めた名前は黙って男を観察する。
 可能性は二つ。一つ目は組織が絡んでいてこの男は変装したベルモット。しかし彼女の好む香水の香りが一切しない。ならば彼女以外の組織の人間か。だとしても、江戸川コナンの正体にはまだ気付いていないはず。子供の姿の工藤新一に接触する理由はないし、奴等ならもっと狡猾な手を使うだろう。
 二つ目は、コナンがまた厄介な事件に関わっており男はその関係者。おそらくこちらの可能性のほうが十分にあり得る。けれど、やはり犯人が子供に仕掛けるというのはおかしい。普通ならば落ち着きのない子供よりも一緒にいた蘭をターゲットにするようが無難だ。であれば、敵ではない誰か。見た目に反した頭脳を持ち合わせる小学生の力を無断で利用しようと考える側の誰か、だ。
 名前にとって思い当たるのは一人しかいなかった。今頃はポアロのカウンターに立っているであろう、いけ好かない公安警察を脳裏に浮かべて眉を寄せる。

「あんた、警察?」
「えっ」
「サツじゃねぇなら、どこの誰だか無理矢理吐かせるけど」

 疑いの目を向けられながらも、どこか確信めいた声音に男は目を見開いた。そして意味ありげに未開封の缶コーヒーを片手で弄ぶ名前に、急いでジャケットの内ポケットから警察手帳を取り出す。

「落ち着いてくれ。ほら、ちゃんと警察だ」

 提示された警察手帳の証票には確かに男の写真が貼られており、名前と階級も記載されていた。
 ────林篤信。階級は警部補。山梨県警。
 名前は記章に刻まれた県警名に疑問を抱いたが、手帳が偽物ではないことを確認すると缶コーヒーと共に両手をポケットに突っ込んだ。変わらず無愛想な表情をしているが警戒の色が僅かに緩んだのを感じ取った男はホッとしたように手帳を仕舞った。

「これで疑いは晴れたかな」
「一応は」
「それにしてもよく警察だと分かったね」
「刑事の知り合いが多いもんで…………これって公務執行妨害になる?」
「職務中じゃないから大丈夫だよ」

 肩を竦めて苦笑する男から視線を外し、名前は状況を再確認する。
 山梨県警の警部がわざわざ長野まで出向いて行うのが、事件の調査ではなく小学生に盗聴器を仕掛けるというのは怪しさしかない。けれど、前科がある分これが公安のやり方だと言われてしまえば納得がいく。やはりあの男、降谷と繋がっているのだろう。それほどに厄介な事件を連れてコナンは長野へやってきたというのか。
 あの時、歩美の泣き落としに負けずもっと抵抗していればよかったと名前は後悔の溜め息を短く吐いた。

「じゃあこれ、お詫びにやる。邪魔して悪かったな」

 そしてもうお役御免だとばかりにポケットに突っ込んだ缶コーヒーを林に投げ渡して背を向けた。
 路肩に停めていたバイクに戻った名前はスマホを取り出し、閉じていた地図アプリを開く。目的地の住所を設定してスタンドに設置するとフルフェイスのヘルメットを被りバイクに跨った。エンジンを始動し周囲に不審な車がいないことを確認してからアクセルグリップを捻って走り出す。



 国立天文台の近くに停まっている車の運転席で、風見は購入してからずっと放置していた缶コーヒーを開けた。左耳にはイヤホンが装着されており、そこからは移動観測車の説明を受ける子供たちの声が聞こえる。盗聴器を着けた江戸川コナンが阿笠たちと合流したのだ。毛利や警視庁の佐藤らのところへ行ってくれると有難かったが贅沢は言っていられない。上司が期待を寄せるほどの少年ならば、こうして長野へ来たように必ず事件へ首を突っ込むだろう。
 そうして風見自身も期待しながら、調べている事件とは関係のない会話を聞き流しつつコーヒーを流し込んだ。

『あれ? なぁ灰原、名前さんは?』

 不意に出てきた親しい名前に思わず座席のシートから背を浮かせた。ここに降谷がいたら呆れた目を向けられていたことだろう。動揺を露わに出すな、と。情けないことに完全に油断していた。まだ中身がたっぷり残っている缶をホルダーに戻し、聞き漏らすまいとイヤホンを抑える。

『一人で長野を観光中』
『あー……バイクで来たらそうなるか』
『どうやら人選を間違えたみたいね。さっき連絡があったから、そろそろ合流すると思うわ』

 可能性として予測していなかったわけではないが、絶好の稼ぎ時である長期休暇はてっきりバイトを入れているのだとばかり思っていた。会話から察するに、たまたま一人長野まで来た名前と合流するのではなく、最初から一緒に来る予定だったのだろう。事前に解っていれば止めた方がいいと忠告できた。しかし事件が大きく動き出したのは今朝のことだ。今更帰れと言うには遅すぎる。その上、ここで迂闊に連絡を入れてしまえば公安が関わっていると漏らしているも同然だった。
 風見はシートに深く背中を預けて車の天井を仰いだ。せめて事件に巻き込まれることなく子供たちと平穏に天文台の見学をして欲しい。そう心から願っていると視界に影が落ちた。

「なんだ……?」

 窓の外に視線を投げれば誰かが背を向けて運転席のドアに寄りかかってきた。背丈や服装から男性だと判断できるが顔は見えない。一瞬、警戒心を強めたが少し離れた場所に一台の見慣れないバイクが停車していることに気付く。そこで先程イヤホンから聞こえた会話と、新車を買うと言っていた年下の恋人の発言を思い出し、パズルのピースがハマるようにぴたりと合致した。
 どうして居場所が分かったのか疑問を抱きながらも、窓の開閉ボタンを押した風見は努めて冷静に振舞って見せた。

「君も来ていたのか」
「ガキ共にせがまれて仕方なく」

 やはりそこにいたのは名前であった。ジャケットに両手を突っ込んだまま周囲の風景を眺めている。訊ねたいことは山ほどあったが風見は黙ったまま相手の言葉を待った。何を言われるのか、どこまで見透かされているのか、と緊張を抱えて。
 暫しの沈黙の後、名前が口を開いた。

「あんた、江戸川を利用するつもりだろ」

 いきなり図星を突かれた風見は軽く目を見開くも、幸い背を向けている名前に気付かれることはなかった。

「何の話をしているのか分からないな」
「ま、俺みたいな民間人には何も話せないよな。最初から期待はしてねぇよ」
「すまない。だが理解してもらえて助か────」
「だからこれは俺の独り言だ」

 しかし、その逆もまた然り。この話はここで終わりだとする風見の声を遮るように言葉を続けた名前の表情を読むことはできない。

「駅で江戸川に盗聴器を仕掛ける男を見た。そいつは警察を名乗ったし、手帳も本物。だから手は出さなかった」

 まさか目撃者がいた上に接触までされていたとは。風見にそのような報告は来ていない。いや、もし盗聴器を仕掛けたことが露見していれば必ず報告はあったはずだ。警察と言えどもこれは完全に違法捜査に該当する。二人の間でどのようなやりとりがあったのかを推察するのは難しいが、名前が直接的な言葉を避けたのかもしれない。恐ろしく勘の冴えた青年だ。僅かな情報とこれまでの経験則から辿り着いてしまったのだろう。

「けど、山梨県警のサツがわざわざ長野で小学生に、なんてどう考えても怪しいだろ。普通なら事件に関わりがあろうがなかろうが……ガキにそんなことはしない」

 おそらく、してほしくない、が彼の本心だと風見はすぐに察した。
 相手が大人であったなら、蔑みはするが見て見ぬふりをするのが名前である。けれど対象が子供となれば話は別だった。世間からは不良と称されているが、子供が関わると自分の命でさえも平気で犠牲にしてしまえる。そんな危うい正義感を胸の奥に宿していた。
 また名前が慕っているのは真っ当な捜査を行っている佐藤や、市民のために犠牲となった松田という今は亡き刑事だ。彼は警察をあまり好んでいないが、その信念までを嫌っているわけではなかった。理由はその二人の存在が大きいのだと風見は考えている。だからこそ国家安全のためとはいえ違法捜査に手を染めている自分が責められているように強く感じた。

「でも俺は知ってる」
 
 名前は足元に視線を落とした。長時間乗っていたせいかブーツにはシフトペグの跡が少し残っている。じっとその汚れを眺めながら静かに続きを吐き出した。

「目的のためなら手段を選ばない奴がいるってことを。だからピンと来たんだよ。駅にいたあの男は、公安の人間だってな」

 耳の痛い言葉に風見は無意識に視線を背けた。

「推理するまでもなく江戸川にそれをやろうって相手は限られてるんだよ」

 そう謙遜するが推理としては充分だった。そして行動力も。盗聴器の電波を拾える範囲は限られている。四六時中張り込むのなら遠くへはいけない。状況を把握し県外ナンバーの車を探せばいいのだから、身軽な名前にとっては難しくもなかったのだろう。
 ここまで来てしまえば、もう誤魔化しは効かない。

「あの人の差し金?」
「違う。私の、独断だ」
「へぇ……そっか、あんたが……」

 それは想定外だったと言わんばかりに名前の声に驚きの色があった。いよいよ風見は覚悟を決めて瞼を閉じる。軽蔑されても仕方がない。罵倒も批判も大人しく受け止めよう、と。

「じゃあ、あんたは一つだけ見落としたんだな」
「見落とし?」

 しかし耳に届いたのは咎めるような言葉ではなく、微かに笑うような声だった。思わず瞼を上げて相手の言葉を繰り返しながら窓の外に顔を向ける。すると車に寄りかかっていた名前がドアから離れて振り返った。次いで開いた窓の縁に腕を乗せると車内を覗き込んでくる。
 見慣れた挑発的な、けれど、どこか憐みの混じった笑みに風見はドキリとする。

「利用するのはあんたじゃないよ、裕也さん」
「え」

 どういうことだ、と聞き返す前にビニール袋を放り込まれてしまい慌てて受け止めた。

「じゃ、頑張って」

 まるで他人事のようなエールを送り去っていく背中を呼び止めることもできずに見送った。手元に残されたビニール袋を開いて中身を確認すると、コンビニで購入したであろう栄養ドリンクとおにぎり、総菜パンや一口サイズのチョコレート菓子などが入っている。どれもが風見が好んで食べている種類だ。さりげないその気遣いや優しさに全て見透かされていたのかと困ったような笑みを浮かべた。
 結局のところ、名前は林が隠れ公安だと察した時点でコナンに仕掛けた盗聴器を傍受してるのは風見だと、そこまで見抜いていたというわけだ。辞めさせるつもりも最初からなかったからこそ、こうして差し入れも用意してくれた。きっとそれは少年に対する信頼があるからだろう。
 できることなら事件に関わってほしくはない。そんな願いでさえも叶わないような気がしてくる。これも江戸川コナンという少年を利用しようとした報いなのかもしれない。
 風見は袋の底にまだ何かが入っていることに気付く。形や色から連想するに缶コーヒーだろうかと手に取って見れば、それは甘いミルクココアであった。